「ぱふぱふ」はなぜ消えたのか、聞こえない音、エロい日本のドラクエ
ドラゴンクエストがアメリカに移植されたとき、さまざまな修正が行われました。それをつぶさに調べていくと、ドラクエというゲームに隠れた「日本的なもの」の姿が浮かび上がってきます。今日は、我々を包囲する見えない文化について考えます。
だが、コンピュータやインターネットの発達が、全体として人間にどんな影響を与えるかという命題に的確に答えられる人はいないだろう。ファミコンについても、それをずっと続けて育った子供がどうなるか、まだはっきりとわかっていない。
主人公がいろいろな冒険をしたり、戦闘するRPG(ロール・プレイング・ゲーム)はたしかにおもしろい。出はじめたときは私も徹夜でやったものだが、一ついえることは、ゲームの構成そのもののなかに、また場面、場面のやり取りのなかに間違いなく文化的な要素が入っている。そして、それが必ずしも日本社会の伝統的倫理観ではないことである。子供は与えられたものを当たり前のこととして受け取る。その意味では価値観がグローバル化し、違った価値観が定着していく可能性もある。
養老先生が徹夜でRPGをやっていた、という話。
「(RPGが)出はじめたとき」とありますが、やはり普通にドラクエあたりですかね? ドラクエ第1作が発売されたのは1986年ですから、養老先生49歳のときです。当時は東大の教授だったはずですが、お仕事のほうは大丈夫だったのでしょうか。
実は養老先生は、日本ゲーム大賞の選考委員長を務めるほどのゲーム好きです。Wikipediaにも、徹夜でファミコンをしようとして奥さんにひどく叱られたが実家に逃げて続行した、などという、50近い大人がやることとは思えないエピソードが書かれています。そうか、これがゲーム脳の恐怖か! みなさん、お子さんがテレビゲームをやり過ぎると、そのうち東大教授になったり、400万部のベストセラー書いたりしちゃいますよ! 怖いですね。
さて、私など完全なファミコン直撃世代でして、養老先生の言う「ファミコンをずっと続けて育った子供」です。確かに私のようになったらおしまいですが、しかし、この引用文には、他にもちょっと気になる指摘があります。養老先生いわく、RPGには「日本社会の伝統的倫理観ではない文化的な要素」がある、というのです。
なるほど、やっぱ、仲間とつるんでスライム倒して金を奪ったりしちゃあいけませんよね! と一瞬思いましたが、よく考えてみると、桃太郎は仲間を集めて鬼退治して財宝奪ってるわけで、同じですな。しかし、まあ、こういうのは物語類型というやつでして、別に「日本的」なわけじゃありません。
というか、むしろ、RPGに日本の伝統的な文化要素なんてあるんでしょうか? 例えば、日本を代表するRPGであるドラクエは、思いっきり中世ヨーロッパの世界観なわけです。仲間に「魔法使い」がいて、イオナズンだのパルプンテだのを唱えている時点で伝統的文化要素もクソもない気がします。どうなんでしょ?
こういうことを考える上で非常に参考になる資料があります。八尋茂樹『テレビゲーム解釈論序説』です。
この本の第一部・第一章「ゲーム機のイデオロギー装置的可能性」は、日本で発売されたRPGが海外に移植されたときにどのような変更が加えられているかを調べあげた労作です。同一RPGの日本版と海外版(アメリカ版)を比較すれば、彼我の文化の違いが浮き彫りになる、というわけです。面白そうです。
八尋はまず、宗教に関する修正を指摘します。例えば、ドラクエは、うさんくさいキリスト教的世界観が魅力の作品ですが、ドラクエ3の海外版ではグラフィックから「十字架」を始めとしたキリスト教色が一掃されてしまいました。神父さんは全員ただのおじいさんです。「勇者ロト」は、おそらく旧約聖書の登場人物と同名なのがまずかったのでしょう。"Erdrick"という、誰だお前は、な名前に変えられています。八尋は、「日本人にとって、十字架はRPGの世界観を演出する要素のひとつであり、……宗教的な意味合いや価値をそこに見いだしてはいない」と指摘しています。
また、飲酒に関する修正もかなり過敏なようです。ドラクエ4の「しごとのあとのおさけはさいこーですよ」という台詞が、海外版では"Good food after work is the best!"に変更されているそうです(酒→料理)。そこまですんのか、という感じですが、アメリカのテレビCMでは、アルコールをタレントが飲むシーンばかりか酒を注ぐ音の放送すら禁じられているそうで、そのあたりが反映しているようです。日本は未成年の飲酒に甘いんですね。
また、性的表現については、かなり修正が加えられています。マニアックなゲームの例で恐縮ですが、「SUPER伊忍道」(光栄)の日本版には、次のような台詞を話す人物が登場しました。「お兄さん、ちょっとちょっと! いい薬があるんですよ、これが。これ一服で毎晩ばっちり! 困ってたでしょ?」 この台詞が海外版では次のように変更されています。"Echizen castle and Mt. Ochi are west of here. Echigo castle is to the east."(越前城と越智山はここから西です。越後城は東です)。……いや、それはもはや別人では? なんか、「笑っていいとも」で生放送中に番組進行を邪魔した男性客がCM明けにぬいぐるみに変わっていたという話を思い出します。
もともと日本は、アニメやゲームにおける性的表現にかなり寛容な国です。あのポケモンですら、カスミの服の露出度が高すぎてアメリカの放送倫理規定に触れたため修正された、という事例があります(リンク先は文字だけです)。
そして、ドラクエにおいてもショッキングな修正がありました。なんと「ぱふぱふ」がカットされたのです!
……えーと、「ぱふぱふ」って説明すべきなんですかね。少なくとも辞書に載ってる言葉ではないですし、認知率ってどのぐらいなんでしょうかね。とはいえ、まさかリアル知人に「ぱふぱふ知ってますか?」と聞いてまわるわけにもいきません。私にも表の顔というものがあります。
もっとも、ドラクエ内においても、「ぱふぱふ」という行為の内容が具体例に描写されることはありません。「ぱふぱふ」についてはっきりしているのは、女性にしてもらうものであること、お金を取られることがあること、部屋を暗くして行うこと、とっても気持ちがいいこと、ぐらいです。
「ぱふぱふ」は、ドラクエのほぼ全シリーズに登場しますが、私の調べた限り、少なくともドラクエ1,2,3の海外版では存在ごとカットされたようです。また、中国版では「按摩」に変わっています。うーん、まあ、遠からず、という感じでしょうか。
「ぱふぱふ」の考案者は、ドラクエのキャラクターデザインを担当した鳥山明であるようです。ドラゴンボール2巻が「ぱふぱふ」のおそらく初出でしょう。しかし、この「ぱふぱふ」の正体を知らない人間も多く、さらに、ゲーム内で具体的な描写が一切なされないにもかかわらず、「ぱふぱふ」は、
その理由の一つに、「ぱふぱふ」という音の魅力がある、と私は思います。
だいたいエロの本質は視覚ではなく、聴覚ですよ。例えば多くの男性は、ポリゴンをトゥーンレンダリングした画像(例えば、ドラクエ8がそうです)でも余裕で欲情できると思いますが、合成機械音の声に欲情することは難しいでしょう。「声優」という職業がなくならないのは、コストの問題ではなく、エロの根源にかかわるからなのです。納得できない方は、「もっともエロいひらがな」を味わうことで、音のエロさに目覚めてほしい所存です。
……お前が変態なのはよく分かったが、RPGにおける日本の伝統的文化要素の話はどうしたのだ、と気をもむ読者のみなさまもいらっしゃるでしょうが、ご安心ください。ここから無理矢理話をつなげるのが吹風日記です。
この、音のもつイメージの喚起力、というのは、実は英語より日本語のほうが上なのではないでしょうか? 例えば、ドラクエで敵を眠らせる呪文は「ラリホー」です。素晴らしいです。らりほー、ですよ? 聞くだけで体から余計な力が抜けていくようです。回復呪文は「ホイミ」です。みなさん、実際に口ずさんでみてください。身体が軽くなって癒されるようじゃないですか。うはは、ほいみ? ほいみー!
ところが、アメリカ版ドラクエ2では、「ホイミ」は"Heal"、「ラリホー」は"sleep"に変更されています。な、な、なんだそれは!? お前らの知能は牛レベルか? これはまさに文化の破壊。「ホイミ」の上位呪文である「ベホイミ」にいたっては"Healmore"です。ばばばば馬鹿野郎、この「ベ」がいいんじゃねえか「ベ」がっ。お前ら全員、死んでしまえ。
日本語は、擬態語が非常に多いことで知られています。ちなみに、「ワンワン」「ポチャン」などの音を表す言葉は擬音語で、擬態語というのは、「ザラザラ」とか「ピカピカ」とか、見た目や手触りなど、音以外の様子を表す言葉ですね。「ぱふぱふ」が擬音語・擬態語のどちらなのかについては、私は一晩中議論できる自信がありますが、ほとんどの読者のみなさまは心底どうでもいいと思ってらっしゃるでしょうから、ここではとりあえず日本語における音のイメージ喚起力に注目しつつ、先に進みます。
日本語の擬音語・擬態語の力は語彙のかなり深いところまで浸透しています。「ざわざわ、ざわめく」「うろうろ、うろつく」「ぴかぴか、ひかる」などのような、擬音語と同じ音をもつ動詞の存在は偶然ではありません。「ぱふぱふ」が海外版ドラクエから削除された理由は、それが性的表現であるという理由だけでなく、「ぱふぱふ」なみにイメージ喚起力のある「音」を、英語という言語が用意できなかったからではないか。
ちなみに、「スライムもりもりドラゴンクエスト」の海外版は"Dragon Quest Heroes: Rocket Slime"です。これだからアメリカ人は話になりません。「もりもり」がいいんじゃねえか「もりもり」がっ。死んでしまえ。
「ぱふぱふ」という「音」の力に注目できたところは、やはり鳥山明の天才たるゆえんでしょう。ちなみに、漫画における擬音というとジョジョのゴゴゴゴゴなどが有名かと思いますが、最強はやはり手塚治虫が考案したと言われる無音を表す擬音「シーン」です。まさに神の仕事です。もっとも、静寂を音で表現する、という発想は歌舞伎に既にあり、音もなく降る雪を大太鼓の連打で表現する技法などがあるそうです。
(11月15日追記)この「シーン」については、「ンなもん日本語に昔っからあるやんけ。手塚がオリジナルとはどういうこっちゃ」というもっともなツッコミが各地から入っています。上記段落は、「漫画の擬音」という文脈の中ではありますが、やはり普通に読めば、「手塚がシーンという擬音自体を考案した」という意味にとれるわけで、これは拙い。絶望書店日記さんご指摘のように、日本には古くから「しん」「しいん」「シーン」で静寂を表す用例があります。古いところで平家物語巻第二の「森森として山深し」とか(これは「しんしん」ですよね? 「もりもり」だったら笑えますが)。というか私は、リンク先のWikipediaが明らかに間違っていることに執筆時点でまったく気づいておらず、とにかくダメ過ぎなのでした。今後もご迷惑をおかけするかと思いますが、生暖かい目で見てやってください。読者の皆様には失礼いたしました。(追記了)
えー、なんだか「ぱふぱふ」の話ばっかりになってしまいましたが、そろそろまとめに入ります。
先述の『テレビゲーム解釈論序説』には、興味深いことが書いてあります。アメリカでは、そもそもRPGというジャンルがほとんど売れていませんが、その理由としてアメリカ人の識字能力の問題があるのではないか、というのです。実際、『テレビゲーム解釈論序説』には、RPGが嫌いなアメリカの高校生の、「学校の教科書を読まされるだけでも嫌な思いをしているのに、家に帰ってきてまで文章を読むなんて、全く信じられない」という言葉が紹介されています。「全く信じられない」のはこっちです。
日本の識字率が、伝統的に高水準であったことはよく知られています。江戸時代に来日したシュリーマン(トロイア遺跡の人)は日本人の識字率の高さに驚いたそうですし、また、江戸時代の日本には約6000軒の出版業者があったそうですが、現代の出版社数が5000弱であることと、当時の人口が現在の5分の1程度であることを考えると、これは異常な数字です。それだけの読者人口がいた、ということでしょう。
要するに、物語主導のRPG、というジャンル自体が、かなり日本的と言えるのかもしれない、ということです。これぐらいの文章は読めて当然だよね?というしきい値が、日本とアメリカで、まったく違うかもしれないのです。
こうしていろいろ見てみると、当初は日本的な要素などまるでないように見えたRPGの世界ですが、実は隠れた日本的価値観に支配されていることが分かります。
我々は、見えない「日本」に包囲されているのです。
それは手塚治虫の「シーン」という擬音のようなものです。漫画表現における「シーン」は今や当たり前のように使われていますが、しかし、英語には同じ意味をもつ擬音はありません。そして、「シーン」が「聞こえないけれど存在する音」であったように、文化の本質というのは「見えないけれど存在するもの」なのです。
日本の伝統的な文化や思想を教えようとすると、「自分にはそんなもの関係ない」ということを言う生徒がいます。関係ないはずがない。気がついたときには我々は既に「日本」に束縛されているのですから。それは単に、自分が日本的価値観にがんじがらめになっていることに気づいていないだけです。
何にも縛られることなく自由にものを考える、というのは、簡単に見えて本当に難しいことです。というか、人間にはそんなことはできないのかもしれない。でも、もし、少しでも「自由」へと近づく方法があるのなら、それはきっと「学ぶ」ということ、「知る」ということであるはずだ、と私は思います。
知ることは自由になることです。
というわけで、アメリカ人は、直ちに「ぱふぱふ」の魅力を知るべきです。あと「らりほー」も忘れないように。これを結論としまして、今日の話を終わりたいと思います。
バナナはおやつを超越する、境界線上のバナナ、芭蕉の夢・バナナの旅
はたして、バナナは、草なのか?木なのか? 野菜なのか?果物なのか? 主食なのか?間食なのか? そして、松尾芭蕉は「松尾バナナ」という自分の名前に納得しているのか!? 今日は、バナナという越境する植物について考えます。
句意は、「芭蕉の葉が台風に揺れる中、たらいに雨漏りが落ちるのを聞く夜だ」という感じでしょうか。時は延宝8年(1680年)。松尾芭蕉が住んでいた江戸深川の草庵には、門人
この「芭蕉」はバショウ科の多年草ですが、これが「バナナ」と同じ仲間であるということはよく知られています。すなわち、やつの名は「松尾バナナ」。すばらしい。
余談ですが、作家のよしもとばななさんは、自らのペンネームの由来を「バナナの花が好きだったからです」と語っています。バナナの花の画像にリンクしておきます。
もっとも、我々が現在食べている熱帯植物バナナは東京の気候では生育しませんから、中国原産の芭蕉とは単純にイコールではありません。しかし、当時の江戸の町において、芭蕉というのはかなりエキゾチック(異国的)な植物であったと思われます。そこに「たらいに雨」という身近なイメージをぶつけていく松尾芭蕉という男は、やはり大変ファンキーな人間であったようです。
さて、ここで考えたいのは「松尾芭蕉」が「松尾バナナ」であると知って、なぜ我々はかくも喜ぶのだろうか、ということです。芭蕉は、「芭蕉」と名乗る以前「
これは「バナナ」という果物に、何かユーモラスなイメージがあるからに違いない。それは、いったいどこから来るのでしょうか?
今日のテーマは、バナナという果物の謎についてです。
さて、まずはバナナは草なのか木なのかについて考えてみます。ンなもん、木に決まっとるやんけ! そう思っていた時期が私にもありました。
ところが、wikipediaによると、「バナナは間違いなく草である」のだそうです。そ、そんなバナ……いや、今の発言はなかった方向で。しかし、これはいったいどういうことでしょうか。
調べてみると、「木」と「草」の分類はかなりややこしい問題のようです。しかし、年輪ができるのが木、という定義、あるいは、茎が何年も太くなり続け、しまいには死んだ細胞質が木化して、それによって生体が支えられているのが木、という定義、いずれの定義をとっても、バナナはれっきとした「草」なのだそうです。
ところで、この定義だと、竹は木と草の両方の性質をもつことになります。wikipediaによれば、上田弘一郎京大名誉教授(世界の竹博士)は『竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だっ!』と力説しておられたのだそうです。実に興味深い発言です。
植物学では、「
続いて、バナナは野菜なのか果物なのかについて考えます。
お約束の展開で申し訳ないですが、ここでもやはり「野菜」か「果物」か、という分類はこじれる問題なのでした。「野菜の定義について」というコラムが最もまとまっているように思いますので、詳細はそちらに譲ります。
農林水産省では、「一般に、野菜とは食用に供し得る草本性の植物で加工の程度の低いまま副食物として利用されるもの」としています。「くだもの」の語源は「木の物」ですから(「けだもの」は「毛の物」)、もともと木になるのが果物なわけです。既に見たようにバナナは草ですし、ナマで食いますから、我が国政府の公式見解に従うとバナナは野菜です。
もっとも、普通、野菜の定義としては「一年生の草本植物」が採られるようです。バナナは多年生ですから、これなら野菜にはなりません。なお、「一年生植物」というのは、「種子から発芽して一年以内に生長して開花・結実して、種子を残して枯死する植物」です。友達100人できる前に、枯れます。
なお、この定義であっても、メロン・スイカは野菜です。人生は常に不条理です。
さて、どうやら、バナナという植物については、もっと根本的に考えねばならないようです。そこで、バナナはそもそも「食べ物」か。ということについて、考えます。
おいおい、バナナが食い物じゃなきゃなんなんだ。武器か。と、
調べてみると、wikipediaに記載されているのは、沖縄・奄美大島に産する
ところで、そろそろ、「あの質問」にふれなければなりますまい。そうです。日本人を魅了してやまぬ、究極の問い。「バナナはおやつに入るのか」です!
これについては、ネット上でも大激論がかわされていまして、正直私の出る幕などありません。デイリーポータルZで、教えて!ティーチャー先生で、Yahoo!知恵袋で、コトノハで、2chの哲学板で、今日も熱いバトルがくりひろげられております。
ところで、デイリーポータルZのバナナ好きは異常とも言える域に達しています。バナナをキリン柄にペイントしてみたり、バナナで日曜大工をやってみたり、うまいバナナを求めて沖縄まで行ってみたり、真っ黒いバナナを求めて東京中をかけまわってみたり、−80℃でバナナを凍らせてみたり、落ちているバナナの皮をレポートしてみたり、バナナいろの作成にチャレンジしたり、いったいバナナの何が彼らをそうさせるのでしょうか。
このデイリーポータルZのバナナ記事で、ひときわ私の目を惹いたのが、コーヒーおむすびとバナナの味噌汁の記事です。それによりますと、みそ汁の中に入れたバナナは、イモのような味になっていたそうです。
wikipediaのbananaの項によりますと、人間が消費する作物は、米、小麦粉、トウモロコシ、バナナが4強なのだそうです。また、ウガンダでは、"matooke"という言葉が、「バナナ」と「食べ物」の両方を意味するのだとか。日本の「ゴハン」みたいなものでしょうか。こうなると、バナナは世界的に見て、主食の地位にある、と言えそうです。
しかし、一方で、バナナが間食として優れていることは論を待ちません。速攻のエネルギー源であり、また皮をむいてすぐ食べられる簡便さは、他の追随を許さぬものがあります。また、日本においては、おかずというものは米飯との調和がとれるものでなければなりませんが、バナナと炊きたて御飯の組み合わせは、お世辞にも相性がいいとは言えません。
「バナナはおやつに入るのか」を考察した中で私が最も秀逸だと思ったページでは、量子力学の不確定性原理における「シュレーディンガーの猫」を引き合いに出していました。
量子力学においては、物質の状態は観測されるまで決定されない、とされています。シュレーディンガーの猫というのは、箱の中のネコが生きているのか死んでいるのかは、観測してみるまで決まっていない、という話です。このページでは、バナナがおやつかどうかは観測されるまで決定されない、つまり、御飯といっしょに食べたなら「おかず」、間食されたなら「おやつ」というふうに、そのつど決定されると指摘します。
私も同感です。既に見たように、バナナとは、ありとあらゆる二項対立を超越する物体なのです。草なのか木なのか、果物なのか野菜なのか、食物なのか布物なのか、主食なのか間食なのか、AかBかという、すべての問いを転倒させ、越境していく存在です。
現在、日本人が最も多く食べている果物はバナナです。総務省の家計調査によると、1世帯あたりの果実の購入量(重量換算)では、2004年、2005年ともに、バナナがみかん・りんごを抜いて1位でした。かつて、バナナは大変な高級品でした。1950年頃、平均月収が1万円の時代に、バナナは卸値で1キロ約1000円もしたそうです。しかし、値段の低下とともに、今ではすっかり日本人に親しまれる果物となりました。
ここまで日本人に愛され続けるバナナの本質とは、対立する構造のどちらにも属さない、あるいはどちらにも属す、その融通無碍なところにあるのではないでしょうか。バナナは、諸行無常、万物流転という思考を、形にしたものなのです。
「XはAだ」という文章は我々の思考の根幹をなす、と言っていいでしょう。ところが、バナナは「Aでもあるし、Bでもある。Aでもないし、Bでもない」と、二項対立の境界を軽々に越えていきます。そのトリックスターぶりが我々の共感を呼ぶのではないか。
あの雨の夜から14年後の元禄7年(1694年)。芭蕉は死の床にあって、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と詠みました。旅とは、まさに境界を越えることです。旅に生き、旅に死んだ芭蕉の名に、その夢に、バナナほどふさわしい植物は、実はなかったのかもしれません。
名前のない忘れ物、世界にただ一つの名、この「名もなき詩」を
ローマ帝国や大英帝国の衰退期には空前の健康ブームが起きたそうですが、まあ関心が内側をむくというのは滅びの予兆でしょうね。例えば、突然ネット論などを語り出すブログは要注意です。今日は、前回のエントリを受けて、ネットと「名前」の関係について考えます。
私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議に思ってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田樹 」なの。あれは私がつくった「キャラ」である。あそこで私が「……した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじえてつくった「お話」なのである。「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」にすぎない。そういう簡単なことが分からない人がたくさんいる。(
私は匿名で発信する人間が大嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルの問題ではなく、「本当の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、とその人が信じこんでいることが気持ち悪いからである。私は「内田樹」という名前で発信してもまるで平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。
入試でも大人気、内田樹の文章です。
ここで「私のホームページ」と言っているのは、内田樹の研究室のことですな。はてなアンテナ登録数1942人、RSS登録数864人。どちらの数字も、この吹風日記のおよそ10倍。怪物サイトです。
この引用文の直前で行われた議論を簡単に紹介します。内田は、相手ごとに一回的で特殊な関係をそのつど構築する力こそ、成熟したコミュケーション能力であると言います。いわば場面ごとに「別人格を演じる」こと。ところが、近代になって、「単一で純粋な統一された人格」をいかなるときでも貫徹することがよいことだ、というイデオロギーが支配的になってしまった。「自分らしくふるまえ」とか「自己実現」とか。うーん、なるほど。
しかし、この、「ネット上で実名で発信してもまるで平気」「あれはキャラ」と言い放つ強さはどうですか。村上春樹も似たようなことを書いていまして、『村上朝日堂 はいほー!』には
僕は原則的に村上春樹という作家と、村上春樹という個人を完全に二つに分けて物事を考えることにしている。つまり僕にとって作家・村上春樹は一つの仮説である。仮説は僕のなかにあるが、僕自身ではない。僕はそう考えている。
とありました。私は、むしろ、内田樹や村上春樹の、「自己」に対する強烈な自信を感じて、なんだかいじけてしまいます。……オレなんか実名出すどころか、MrJohnnyだもんなあ。だれだよお前。
というわけで、今日はネットにおける「自分」というものについて、ぐだぐだと思いつきをならべることにします。
えー、最近私はすっかり組織のボトルネックになってしまい、ろくに考える時間もとれません。踏み込みの甘い更新になりますが、ご容赦ください。なお、id:yosituneさんのブクマコメントによれば、ブログというものは「管理人が「私生活が忙しい」だの何だのと「言い訳」を始めたら寿命の兆候だと思う。」とのことなので、このブログもヤバげです。
つうかですね、もともとこのブログは、中学生相手の授業で使えるネタをストックするために始めたものだったのでして、今「どこがやねん!」というツッコミが右脳に住む神々から聞こえましたが無視することにしますけど、ですから、この日記で時事ネタを扱わないというのもそういうポリシーの一貫だったわけです。それがなんだ、GIGAZINEとか、mixi個人情報流出とか、この潰しのきかないネタどもは。ええい、おかみを呼べっ!て感じです。
これは私の持論なのですが、中学生の興味を惹くような話ができないのならば、語り手の能力が足らないか、その話題が人生において大した意味のないネタなのかのどっちかです。そのぐらい子供信頼してなきゃ授業なんかやってられませんよ。ともかく、その基準でいうと、ネット論などというのはあまりよい素材とは言えません。でも書くんですが。
ところで、前回のエントリの想像を絶する大反響、ブクマ200usersにはびびりました。私がローカルで書いている日記の12日15時21分には「なんかリロードするたびに(ブクマ数が)増えていくのが恐ろしい。絶対みんな何かに騙されてると思う。だいたい、文脈から切り離して文章読むなんて、普通の人間には、ほとんど不可能だろうが。」と書いてあります。自分のエントリの内容に自分でツッコミを入れているあたり、狼狽ぶりがうかがえます。まあ、でも、前回のエントリは主張のラジカルなところに共感が集まったのでしょうね。はてなブックマーカーは真面目な方が多いですから。
トラバもたくさんいただいて嬉しかったです。特に、前回のエントリ中で「激しくオススメ」したishさんのブログで、「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」と、「webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望」という2本立てのエントリで吹風日記に言及してもらったのが幸せです。よく読むと、私のエントリを根底からひっくり返すような内容になっているのですが、私的には、脳内幸せ回路で友情エントリに変換されているので問題ないです(オイ)。とりあえず、ishさんに言及してもらったことで、吹風日記を書き続けた半年分の苦労ぐらいは軽くペイした気分です。
トラバの中で、もう一つみなさまに読んでいただきたいのが、hyorohyoroさんの「沈黙は金、雄弁は銀」です。この「沈黙は金、雄弁は銀」について、実はこの格言が使われていた時代は銀のほうが価値があったので、この言葉は「雄弁が偉い」という意味なのである、という説明をどこかで聞いたことはありませんか? 私もずーっとその説明を信じていたのですが、実はこれは誤りで、やっぱり「沈黙が偉い」という格言なんだ、ということを検証したエントリです。面白かったです。
さて、本題に入りましょう。まずは、2chとmixiについて考えます。
内田樹は、「私は匿名で発信する人間が大嫌いだ」と書きます。匿名で語る人間は、どこかに「純粋でリアルな本当の自分」というものが存在していると信じこんでいるからだ、というのです。「匿名で発信する人間」を以下「2ちゃんねらー」と書くことにしますが、2ちゃんねらーが「本当の自分」というものを信じている、というのはどういうことでしょうか?
私は、2chにあるのは固有名詞への信仰だと思います。相変わらず唐突な話の展開で申し訳ないです。こういうことです。
まず、「純粋でリアルなただ一つの何か」が存在するとき、それに必ずある固有の「名前」がついているはずだ、と考えるのはそんなに非常識な話ではないと思います。「名前」がなければ我々はそれについて思考することもできないだろうからです。この考えの対偶をとると、固有の名前のないものは「不純だったり、仮想上のものだったり、場面によって実体がコロコロ変わったりするもの」となります。これが2chの「名無し」さんです。
ここで、おそらく、この逆も信じられているのです。ある固有の「名前」がついた存在は、「純粋でリアルなただ一つの何か」でなければならない、ということ。以下、これを「固有名詞への信仰」と呼ぶことにします。それは、sho_taさんのエントリ「ネットの自分がリアルな自分と統合される時」の言葉を借りると、「立場が変われば主張が変わる。こんな当たり前のことが、ネット上では厳しく制限されるわけです。自然、ネット上での「個」は果てしなく平板化していく。」などと同じことを言っているつもりです。
ところで、mixiで実名書いちゃうような人も、この固有名詞への信仰があるのではないでしょうか。ここでいう固有名詞はもちろん自分の実名のことです。プライバシー侵害事件というのは、この暴力的な「平板化」「フラット」化の圧力の産物であると言えます。なぜなら、mixiの事件の場合、彼女のプライバシーというのは、まさに恋人の前で「別人格を演じた」からこそ生まれたものだからです。
2chとmixiは対極にあるコミュニティだけど、上記のような見方をすると、「名づけられた単一の人格があるはずだ」という固有名詞への信仰の、裏と表に過ぎないのではないか。
次に、ソーシャルブックマークについて考えます。
前回のエントリで、私は、ソーシャルブックマークの目指すものは「人格の解体」「権威の解体」だと書いたわけですが、そのエントリが200usersという少なからぬブクマをもらったのは、それが本当に理想かまた実現可能かどうかはさておき、まさに当事者たるブックマーカーの心理に何か訴えるところがあったのだろうと思います。
はてなでは、ある程度のブックマークをもらうと、はてなダイアリーのトップページにエントリ名が掲載されます。以前は、ここに日記名も掲載されていましたが、今はエントリのタイトルしか掲載されなくなりました。これは象徴的です。ブログタイトルが消える。それは、すなわち、ブログ、そしてブロガーという人格が消えていく方向を示しているかのようです。
Phenomenonさんの「ブロガーにアイデンティティーなんていらない。早く死ねばいいのに。」というエントリには、「私が思うのはブログはその混沌を「エントリー」単位で回すべきなんじゃないかということです。」という興味深い提案があります。「『作家性』なんていうものは、理想にとってじゃまなだけだ」というのです。
萌え理論Blogさんは、「大手ニュースサイトからブログに来た読者の97%は他のページを読まずに帰る」というデータを挙げています。うちの吹風日記もだいたい似たようなものです。ということは、既にブログは、ニュースサイトとソーシャルブックマークによって、エントリ単位で寸断されつつあるのです。
あと出しじゃんけんみたいですが、私自身、この吹風日記は極力、1つのエントリが独立して機能するように書いてきました。だから、この、「ブログはエントリ単位で回すことを理想とする」という考え方には強く共感できる。
しかし、上で紹介したishさんのエントリで言っていることの一つは、この理想を完全に達成することはぶっちゃけ不可能、というものなのでした。今から70年ぐらい前に、ヒルベルトという数学者が数学の無矛盾性を証明しようとしたとき、ゲーデルという数学者が「数学は自己の無矛盾性を証明することはできない」ことを証明して、数学界に大きな衝撃を与えましたが、そのときのヒルベルトもこんな気分だったんですかねえ。
しかし、未来のウェブは、現在よりもずっとこの理想に近い位置に来るのではないか、とは思いたい。どうだろうか。
今度は、「無断リンク問題」について考えます。
数日前にホッテントリにて「無断リンク問題」がありました。とあるサイトの管理人さんが、はてなブックマーカーにむかって「あんたら、迷惑なんだよ。」「多くのWebマスターが、コンテンツやブログページ単体にリンクを貼られてどれだけ迷惑してっか、わかってんの?」と主張したところ、ブックマーカーたちが面白がってブクマしまくったという事件です。
この問題は、「無断リンク問題」と通称されているようなので私もそう書いたのですが、どうも件の管理人さんの意見をよく読むと、問題は「無断リンク」ではなく、「ディープリンク(サイトのトップページではなく、個別記事に直接リンクすること)」であることが分かります。ディープリンクは訴訟に発展する例があるぐらいナーバスな問題です。
渦中の管理人さんは、「サイトは、ページ単体ではなく、いくつものコンテンツが揃い、利用者が守ってこそ初めて成り立つ物なのです。」と主張します。この管理人さんのサイト観と、ブックマーカー達のサイト観には、大きな相克がありますが、それは2chやmixiにおける統一された自己を信じる人間観を、ソーシャルブックマークが打ち破ろうとしていることを示しているのでしょうか?
最後に、検索可能性(ファインダビリティ)の問題を考えます。
私はこのエントリで、「固有名詞への信仰」などという奇矯な言葉を選択しているわけです。「権威への信仰」とか「人格への信仰」と言えば、もっと分かりやすい。しかし、ここで「固有名詞」という言葉を選んだのは、検索について考えたいからです。固有名詞というのは、検索エンジンとものすごく相性がいい。というか、今のウェブの検索システムは固有名詞以外ではまともに機能していないと思う。
mixiが本名登録を推奨したのは、「お知り合いがあなたを発見しやすく」なるからです。
2ちゃんでは独特の隠語が使われます。もちろん隠語は仲間意識の醸造に役立っているのでしょうが、私はテキストマッチング(検索語との一致)から逃れようとする意識が根底にあると思う。分かりやすい例で、「氏ね」。これは2ch起源ではなくあめぞう起源のようですが、もともとは「死ね」が投稿規制にかかっていたのを回避するために生まれた表現です。例えば、叩きスレのようなクローズドな世界をつくりたいとき、固有名詞は多くの場合、置換されます(例、sony → 糞ニー)。
ここには、固有名詞が検索を通じて世界と接続されている、という発想があるわけですが、これも固有名詞への信仰の一部です。mixiと2chはやはり同じコインの裏表になっている。一方、内田樹の言う、同じ名前でも別の人格、という状態は、根底のところで検索エンジンと相容れないわけです。
今後、ネットがどのように進化していくかは、私などにはさっぱりですが、おそらく、固有名詞の信仰はうまく機能しないだろう、ということは想像がつきます。だから、検索エンジンは、もちろん機能はするだろうけど、常に何かを取りこぼし続けるでしょう。そして、私がほしいものも、だいたいそのこぼれている方にある。それに対して、何かできることはないのか。
つうわけで、とりとめもなく書いてきました。ブロガーにとっては、考えるよりも書くことのほうが大切なときもあるでしょう。今回挙げた問題群がまさにそうですが、答えというのは、解答欄に書かれるものでなく、我々自身の次の行動そのものなのですから。
最近の若者は本当にいたか、とカントは言った、皆が本を書いている
何千年も前の遺跡から「最近の若者は……」と書かれた出土品が出てきた、という話をご存じの方は多いと思います。でも、これって本当の話なんでしょうか? 今日は、「最近の若者」のルーツを追っかけながら、ネット社会と統一されない自己について考えます。
人の話す言葉のどれが正しいとするかは、なかなかむずかしいことです。それはどこに基準点をおくか、いつの時代、どこの言葉を基準とするかによります。どれが正しいかというところに踏みこむと、保守的な態度の人、新しいことを好む人、いろいろあって、その人の人生や世界に対する考え方が言葉の選択の上に出てきます。今から何千年も昔の
楔 形文字を解読したところ、「このごろの若者の言葉づかいが悪くて困る」とあったそうです。言葉は人間の行為だから、保守的、革新的という相違があるのは当然です。(
日本語ブームの種火となった『日本語練習帳』です。
私もかつて当ブログで、「正しい言葉」という概念がいかに怪しいものであるかについて、いくつかエントリを書いてきました。「産経新聞が『乱れた日本語』だと指摘した表現を夏目漱石も使っていた」とか「お嬢様言葉は昔は『乱れた言葉遣い』として批難されていた」とかです。その点で、この大野晋の主張には深く共感できます。
ところで、ここに書かれた「今から何千年も昔の楔形文字を解読したところ、『このごろの若者の言葉づかいが悪くて困る』とあった」というのは、実に面白い話ですね。大人のよく使う「最近の若者は……」という言葉は、彼らが若者だった頃にも言われていたのだろうし、それどころか、人類発祥以来、もう何千年となく言われ続けてきた言葉なのです。「近頃の藍藻は酸素吐きやがる」(野尻抱介)。いやあ、愉快です。
うん、で、大野先生、ソースは?
いや、もちろん、私は大野先生尊敬していますし、今回引用した文章には深く共感しますし、この「最近の若者」の話は大変面白いですよ。でも、それとこれとは別です。この話の情報元は何でしょう? いったい、いつどこでだれが発掘した粘土板にこんな言葉が書いてあったのでしょうか? ぜひ知りたいです。
というわけで、相変わらず長い前フリですが、今日は、最古の「最近の若者」を探しているうちに考えたことを書くことにします。ひとつおつきあいよろしくおねがいします。
さて、軽くググると、まず発見したのは、2chのコピペでした。それによりますと、「古代アッシリアの粘土板 B.C.2800頃」「ソクラテス」「プラトン」の言葉がそれぞれ引用されています。とはいえ、「ソースは2chのコピペです」では、喧嘩売ってんのか、つう感じです。細木数子の占いのほうがまだ信用できます。
今度は、この2chのコピペを手がかりにして調べると、人力検索はてなで同じ疑問をもっている人が見つかりました。「最近の若者はなっていない」という感じの文章……の正確なソースを教えてほしいという質問です。ここでは、情報の出典として『アシモフの雑学コレクション』という本が挙げられています。おおっ、あのアイザック・アシモフですか。これは、信憑性が高そうです。
そこで、この『アシモフの雑学コレクション』(原題 Isaac Asimov's Book of Facts)を検索します。ラッキーなことに、英語・日本語の両方で、この本から引用しているサイトを見つけることができました。
アシモフが紹介しているのは、次の3つの言葉です。引用します。
1つ目は、紀元前2800年ごろの、古代アッシリアの粘土板にある文。"Our earth is degenerate these latter days. There are signs that the world is speedily coming to an end. Bribery and corruption are common."(世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は目に余る。)
2つ目は、ソクラテスの言葉。"Children are now tyrants...they no longer rise when elders enter the room. They contradict their parents, chatter before company, gobble up dainties at the table, cross their legs, and tyrannize over their teachers."(子供は暴君と同じだ。部屋に年長者が入ってきても起立もしない。親にはふてくされ、客の前でも騒ぎ、食事のマナーを知らず、足を組み、師に逆らう。)
3つ目は、プラトンの言葉。"What is happening to our young people? They disrespect their elders, they disobey their parents. They ignore the law. They riot in the streets inflamed with wild notions. Their morals are decaying. What is to become of them?"(「最近の若者はなんだ。目上の者を尊敬せず、親には反抗。法律は無視。妄想にふけって街で暴れる。道徳心のかけらもない。このままだと、どうなる。)
2chのコピペの内容と一致しています。おそらく、この本が有力な元ネタでしょう。これらの言葉で検索をかけると、たくさんのページがヒットします。
なお、これ以外にも、ハンムラビ法典に「今の若い者は……」と書かれているそうだ、などの説も見かけました。ハンムラビ法典はネット上に英訳がありますが、私には正直、どこにそんなことが書いてあるのか分かりません。だいたい、ハンムラビ法典は「法典」です。法律に「最近の若者は……」などと書いてあるわけがないと思います。ちなみに有名な「目には目を」は196条です。his eye shall be put out!
さて、1つ目の、紀元前2800年ごろの古代アッシリアの粘土板については、現時点では、残念ながら疑う材料も信じる材料もどちらも手に入っていません。つうか、そもそもコレ、「最近の若者」についての言葉じゃありませんし、スルーします。
今回、私が問題にしたいのは、ソクラテスとプラトンの言葉のほうです。
ソクラテスは自身で著作を残しませんでした。ですから、その言葉は、どうしても弟子のプラトンの著作などを通じた伝聞になってしまいます。となると、はっきりソースが見つかりそうなのは、プラトンです。
プラトンの著作は、そのすべてが英訳され、プロジェクト・グーテンベルグ(著作権切れのテキストを収集するプロジェクト)で公開されています。青空文庫に『クリトン』しかない日本とは大違いですね。羨ましいです。
アシモフが引用したプラトンの言葉も、このテキスト群のどこかにあると考えられます。
ところがですね、実はこっからが本題なんですけど。ないんですよ、このアシモフの引用したプラトンの言葉が。プラトンの著作の中にないんです。
まず、アシモフの引用した文章を直接検索してもヒットしないことは、直ちに確認ができます。しかし、まあ、もしかしたらちょっと違う翻訳を使ったのかもしれません。
そこで条件をゆるゆるにしてスクリプト言語に検索させます。プラトンの言葉に使われた38単語のうち、一般的でなさそうな16単語(happening young,people,disrespect,elders,disobey,parents,ignore,law,riot,streets,lamed,wild,notions,morals,decaying)が、連続する100単語中に8単語以上出現する場所を探します。結果は、ヒット0件。
英語圏のやり取りも紹介しておきます。Google Answersに、人力検索はてなと同じ、「最近の若者は〜」という言葉のソースをくれ、という質問が立っていました。その質問に対し、古今の引用を列挙して答えた凄腕の解答者がいましたが、その人は、このプラトンの言葉に対して、"I think this is a direct quote, but can't find the reference at the moment."とコメントしています。直接の引用だと思うけど、今のところどっから参照した文か分からない、というわけです。しかし、私の確認する限り、"direct quote"ではなさそうです。
Slashdot.orgには、こんなやりとりがありました。このプラトンの言葉を引用したコメントに対して、"Where did this quote come from?"(この引用はどこから?)とツッコミが入っています。つっこんだ人は、"I've read Plato and the neoPlatonists (especially Plotinus) but can't recall a source for the quotes. "(プラトンは昔読んだけど、この引用は記憶にない)と言っています。
もちろん、これらの傍証は、アシモフの引用したプラトンの言葉が「ない」ことの証明にはなりません。なにせプラトンの著作はベタテキストで7MB以上あるのです。こんだけ大量の文章です。探せば、実はどっかにあるのかもしれません。
しかし、これはほとんど「悪魔の証明」です。いくら対象が有限とはいえ、7MBのテキストすべてに目を通さなければ反論できない、というのは過酷すぎます。ここでは、反証可能性というものがほとんど奪われていると言えるでしょう。
だいぶ話が長くなってきたので、いったんまとめます。まず、アシモフがプラトンの言葉として「最近の若者は〜」を引用しました。ところが、それが、プラトンの著作の中に発見できない、という話でした。
私は現時点で、アシモフの引用は、かなりの確率でガセだろうと思っています。これは、いわゆる「カントは言った」のたぐいではないか。カントはありとあらゆる名言を残しているので、適当なことを言って「カントは言った」とくっつければサマになるというやつです。「やっぱり冬は熱燗に限る、とカントも言っている」みたいな。
しかし、私が本当に注目したいのは、アシモフの引用がガセかどうかではありません。そうではなく、このような誰もウラを取っていない怪しい情報が事実として拡散してしまう、ネット社会についてです。
唐突ですが、「最近の若者」つながりで、キケロの言葉を紹介しましょう。つうか、この言葉も本当にキケロが言ったのかどうか疑わしいようですが、検索してみると、もうキケロの言葉ということですっかり定着しているようです。こんな言葉です。
"Times are bad. Children no longer obey their parents, and everyone is writing a book."(拙訳:くそっ、なんて時代だ。子供は、もう親の言うことなんか聞きゃあしねえ。そして、みんなが本を書いている。)
この"everyone is writing a book."を見たときの衝撃は忘れられません。そして、キケロから2000年。時代は、"everyone is writing a blog."になったのです。"blog"じゃなくて"mixi"でもいいです。
以前から、「ネズミはチーズを食べない」というのはガセとか、ネットは洗脳社会だとか、同じようなことを何度も書いていますが、私は普通の人の、たぶん100倍ぐらいの量の検索をする人間なんで余計に痛感するんですよ。まず、ネットの99%はコピペです。そこでは不正確な情報がそのままの形であっという間に拡散します。これ、なんとかならんか、と。
理想を言えば、「アシモフが言ったから正しい」とか「朝日新聞が言ったから正しい」とか「アルファブロガーが言ったから正しい」とか「アー」とか、そういう判断のしかたをやめて、1つ1つの主張を検証するべきなんでしょう。要するに「だれが書いたか」で判断するのではなく「何を書いたか」で判断するということです。
ここでは、「アシモフ」という統一された人格は、むしろ邪魔です。
これは、いわゆる「はてブの衆愚化」問題と共通するところがある。なんで、GIGAZINEさんがやり玉に挙げられるかというと、ホッテントリがGIGAZINEさんばかりだからなわけですが、それは、批判者の心の中に、GIGAZINEのエントリは内容でブクマされているのではなく「GIGAZINEだから」あんなにブクマされてるんだ、という思いがあるからだと思います。ぶっちゃけ、GIGAZINEさん以外が、例えば私が「svchost.exeの正体を探る」という記事を書いても、絶対に600usersにはならないと思う。
要するに、ソーシャルブックマークが目指す理想の方向性というのは人格の解体である、と考えられているのでしょう。「人格の解体」という言葉に抵抗があるなら、「権威の解体」でもいいですが。
話はmixiに飛びますが、非常に秀逸な考察があります。ishさんの「mixi疲れと友達の友達」では、「普通であれば相手によって色々な『自分』がいる」が、mixiでは「すべてのマイミクに対し一意な『自分』」しかいないと指摘します。けれど、そもそも、「全体の見えなさ」「見通しの悪さ」「常に部分的でしかないもの」の総体こそが「自分」なのだ、と。
ここでも、統一された自分とそうでない自分というものが焦点になっています。
ちなみに、この「ish☆走れ雑学女ブログ」は、謎の病原菌でたった一つのブログを残して他のブログが消滅するとしたら、どのブログを残しますか?という質問に対する、現時点での私の答えです。激しくオススメ。
mixiでは最近、日本の歴史において最高レベルであろうプライバシー侵害事件が発生しましたが、これはmixiに実名を書いてしまったことも理由の一つになっています。すなわち、「ネット外の自分」と「ネット上の自分」というものを統一してしまったことが問題の一因となった。
つうことで、このあたりは、共通する根っこがあるんじゃないかという気しますが、話が長くなりますので、また別の機会に書くことにしまして、とりあえず今日の話を強引にシメておきます。
私は、大野晋の書いた話、すなわち、楔形文字に「このごろの若者は……」と書いてあったという話は、嘘くさいと思っています。しかし、嘘と言えるだけの根拠は見つかっていません。もし、私が楔形文字についての造詣が深ければ、もう少しまともなことが言えたでしょう。また、もし、プラトンをきちんと読んでいれば、アシモフの引用について的確な批判ができたでしょう。
これで分かることは、勉強というのは、他人と違う意見を言うための武器なんだということです。勉強しない人間というのは、他人の意見を受け入れるしかないということでしょう。なかなかしんどい話ですが、私は今回のエントリを書くにあたって自分の無力さをいろいろ痛感しました。さらなる研鑚を積みたいと思います。
ブログはいつ死ぬのか、ウェブの噂も75日、光もともに運ばれて行く
えー、2週間ほど更新を停止しておりました当ブログですけども、いったいブログって、どのぐらい更新が止まると、どのぐらいの確率でそのまま閉鎖されるんでしょうかね? はてなのデータを使って、これを推定してみます。今日は、ブログの死と
舗道 には何も通らぬひとときが折々ありぬ( 硝子 戸のそと 佐藤佐太郎( 『佐藤佐太郎歌集』より
歌人、佐藤佐太郎の歌です。なかなかインパクトのある名前ですね。佐藤と佐太郎ですよ。本物はどっち!?という感じです。どっちっつうか、まあ、どっちもなんですが。
ここでは「何も通らぬひととき」が、作者によって発見されています。ガラス戸のむこうの歩道に何も通らぬひとときがある、というのは、ごくありふれた情景なのですが、こうして歌になってみると、その静けさはただごとではない。不思議な力をもつ歌です。
ところで、当ブログもしばらく「何も通らぬひととき」を過ごしておりました。9月最後の更新の日付は21日となっていますが、実際の更新日は25日ですので、およそ2週間放置した、ということになります。
もっとも私としては、この間、yahooに掲載されたり、コメント欄のやりとりがあったり、それを2chでヲチされたりと、いろいろありましたので、この吹風日記から離れていた、という感覚はないんですけど、それでも、さすがに2週間空くと、ちょっと死臭がただよって参ります。
ところで、みなさまには実にどうでもいい話で恐縮ですが、吹風日記がyahooの「オンライン日記」のカテゴリに掲載されました。これは祝着至極なのですが、しかし、このカテゴリからの客足の悪さは尋常ではありません。新着マークが取れた最近3日間など、yahoo経由のアクセスが1ヒットという状態です。嘘じゃありません。3日で1ヒットです。あまりのショボさに、アクセスログを見た私はディスプレイにメッコール吹きましたよ。
「オンライン日記」のカテゴリと言えば、「実録鬼嫁日記」とか「きっこのブログ」とかが載ってるわけで、最強ブログ決定戦・ウェブ界の地下格闘場かと思いきや、こんなペースではカトゆー家のたった1行がもたらすアクセスに追いつくまでに、7年半はかかる計算です。まあねー、「理系出身の国語教師による日記」なんて地味なサイト紹介文じゃ普通クリックしませんよねー。畜生、いっそ「先生がイロイロ教えてア・ゲ・ル日記」とかにしときゃよかったぜ。
えー、脱線しました。
今日の本題に入りましょう。更新が2週間止まった当ブログですが、2週間止まると、このまま閉鎖か?という匂いもしてこようというものです。では、ブログというものは、どのぐらいの期間更新が止まると、どのぐらいの確率で閉鎖してしまうものなのでしょうか。
すなわち、はたしてブログはいつ死ぬのか?
人間の場合ですと、例えば、脳死判定基準というものがあります。深昏睡、瞳孔固定、脳幹反射の消失、平坦脳波、自発呼吸の消失、以上が2人の医師によって観察され、6時間以上経っても同じ所見だった場合、「脳死」となります。
ここでの興味は「6時間」という数字です。医学的には、6時間死にっぱなしのお前は既に死んでいる、ということになっているわけです。では、ブログの場合は?
もちろん、ブログの死というのは、人間のような不可逆なものではありません。ですが、例えば1年間放置されたブログというのは、普通、もう再起することはないでしょう。ですから、確率を使って死亡率を考えることはできるはずです。
さて、こんなこと、どうやれば調べられるのでしょうか?
実は非常に強力なデータがあります。はてなダイアリーの日記一覧です。ここには、はてなのすべての日記が、更新された順に掲載されています。データ数、およそ24万。
このデータを参照することで、現時点での更新間隔の分布が分かります。とはいっても、全部読むと4800ページ。さすがに、はてなサーバに負荷をかけすぎます。そこで今回の調査では、20ページおきにデータを拾い、データが欠けた分は、前後の日付のデータを直線でつないで補完する作戦でいきます。これでも全体の傾向ははっきり分かりますが、細かい点、例えば曜日による更新頻度の違い、といったことは分かりません。ご了承ください。調査期間は、10月6日の午前2時から20分間です。
結果を大ざっぱにながめます。まず、24時間以内に更新された日記が圧倒的に多く、その数は2万を超えています。24〜48時間内の更新が約6900。以下1日ごとに、4400→3400→3100と減っていきます。2週間放置されてから更新される日記は、約820。1ヶ月放置だと約500です。
冒頭に掲載したグラフは、最近1年間のデータをもとに作成したものです。横軸が「最後に更新されてからの経過日数」、縦軸が「日記数」です。例えば、更新停止してから100日経過した日記の数はおよそ300である、ということがグラフから分かります。ただし、経過日数が小さい分のデータは、日記数が大きすぎてグラフから飛び出しています。
まず、ぱっと見、約300日前に更新された日記が突出して多いことが目を惹きます。これは、元日前後の更新ですから、「あけおめ更新」ですな。本年もよろしく!と書いたまま、今にいたるまで更新していない日記が、はてなには700近くあるということです。年賀状みたいなものでしょうか。
その正月からしばらくの間は最終更新の日記が減ります。このことは、一月中に日記を停止する人はあまり多くない、ということを意味しています。三日坊主ならぬ、1ヶ月坊主で日記が続いているわけです。
で、ですね、ここで真に興味深いのは、更新停止後100日以上経過したブログの数というのが、ほぼ横ばいである、ということです。グラフに目安となる横線を引いておきました。この線は、「日記数260」のところに引いてあります。
単純に考えると、最終更新された日付が若いほど、日記の数も多くなるような気がしますが、現実には、その傾向は非常に弱いわけです。
なぜか?
このことは、ある期間(だいたい100日)を過ぎると、ブログが再び更新されることはない、と考えることで説明がつきます。つまり、毎日一定の数、死んでゆくブログがあるのではないか、という仮説です。
この仮説がかなり妥当であることが、別のデータから分かります。
まず、はてなダイアリーの日記数は、ここ1年、ほぼ毎日一定のペースで伸びています。ところが、はてなのアクティブユーザー(1ヶ月以内に更新をした人)の数は、この1年間ほとんど変化していません。ブログファンによる、2005年11月〜2006年6月のデータと、2006年4月〜9月のデータにリンクしておきます。なお、ユーザー数の伸び悩みは、FC2ブログを除く、すべてのブログサービス共通の現象です。
日記数自体は一定のペースで増えているのに、アクティブユーザー数が変化していない。これは、死んでいくブログの数が毎日一定数ある、と考えるのが最も自然な説明です。
はてなダイアリーの数は、去年の10月5日から今年の10月5日の1年間で94681増えました。これを365で割ると、259.4です。つまり、1日約260。さきほどグラフに引いた横線は、この「1日260日記」のところに引いたのでした。
以上のことから、はてなでは、毎日260の日記が死んでいく、と考えるのが妥当です。
さて、ここで、最初の問題であった死亡率の計算をしておきます。例えば、私は吹風日記を2週間放置したわけですが、手元のデータによると、最終更新から14日経過した日記の数は約820です。このうち、260の日記は、以後ずーっと死亡したままになる、と考えられます。というわけで死亡率は31.7%です。軍事的には3割損耗で「全滅」判定くらいますから、確かに2週間放置というのはヤバい水準ではあったようです。
いくつか計算しておきます。ここでいう「死亡」とは「二度と更新されない」という意味です。
- 24時間以内に更新された日記の死亡率は、約1.3%。
- 1週間放置された日記の死亡率は、約16%。
- 2週間放置された日記の死亡率は、約32%。
- 1ヶ月放置された日記の死亡率は、約52%。
- 3ヶ月放置された日記の死亡率は、約90%。
では、ずばり、ブログはいつ死ぬのでしょうか。データをながめますと、初めて死亡率90%を超えたのは、最終更新から78日経過後でした。したがいまして、だいたい75日ほど更新が停止すると、そのブログは「死んだ」と言っていいかと思います。「人の噂も七十五日」の格言は、案外まっとうな数字なのかもしれません。
ところで、今回の推定によりますと、24時間以内に更新されたブログが二度と更新されない確率は約1.3%、ということだったのですが、これは正直言ってそうとう高い確率です。もし相手が人間だったら、昨日までピンピンしていた人が突然死ぬことに相当するわけですからねえ。
佐藤佐太郎の歌にこんなのがあります。「中空の無数の星の光にも盛衰交替のとき常にあり」。ブログもそういう世界なのかもしれません。
冒頭に引用した「舗道には何も通らぬひとときが折々ありぬ硝子戸のそと」、この歌の不思議な静けさはどこから来るのでしょうか。もちろん、「何も通らぬ」から、なのでしょうけど、それだけでしょうか。
この歌には時間に対する鋭い意識があります。「ひととき」という、長さをもつ時間がまずある。そして「折々ありぬ」という言葉を発するためには、「ひととき」よりもさらに長い時間を経なければならない。そして、そのような長い沈黙の時を、ガラスのむこうに見る。
どうも、この歌の世界はウェブの世界に似ているような気がする。この歌が気づかせてくれることは、停止している時間、さらには死が、世界には必ずあるということ、そして、その静けさ、なのではないか。2chでF5連打したり、ソーシャルブックマークで最新ニュース探したりして、時間のスキマを埋めようと必死な我々は、だから、この歌に虚を衝かれるのではないか。
こんなことを書いていると、このまま更新停止しそうな勢いですが、私は別に、この吹風日記から途中下車する気はありません。ときどきやってくる「何も通らぬひととき」を静かに過ごしつつ、ぼちぼちやっていくつもりです。
最後に、佐藤佐太郎の有名な歌をもう一つ。
秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く
策士・裸の王様、「女王様も裸だ!」、馬鹿には見えないもの
アンデルセン「はだかの王様」には、いくつもの謎があります。なぜ王様は「馬鹿には見えない布」などというヨタ話を信じたのか? 王様は、馬鹿になら裸を見られてもよかったのか? 今日は、裸の王様が、実は大変な策士であった可能性について考えます。
「王さまは裸だ」とさけんだのは、小さな子供だった。賢い人にだけ見えるといわれて、ありもしない服を身にまとい、大手をふって街を歩いていた裸の王さま。王さまはそのとき、どんな気持ちだったろう? 憎いのは小さな子供じゃない。それまで王さまをだまして、偽物のおせじをふりまいていた連中だったと思う。
森絵都『アーモンド入りチョコレートのワルツ』「子供は眠る」より
今日は、アンデルセン童話『裸の王様』についてです。
森絵都は、裸であることを指摘された瞬間の王様の気持ちに焦点をあてました。この「裸の王様に感情移入してみる」という体験はなかなか新鮮です。ふつう、この童話を読んだときの我々の視点は、「王様は裸だ!」と叫ぶ大衆の位置にあるからです。
私は、以前、「ウサギとカメ」の童話で、普通の人はカメと自分を同一視するが、それはおかしい、ということを書いたことがあります。我々は、自分だって努力すればウサギに勝てるのだと信じたいのです。本当は、努力することのほうが、よっぽど才能がいることなのに。
この「ウサギとカメ」もそうですが、童話を読んでいるときの目線の位置というものには、我々の無意識の願望が現れていて面白いものです。どうやら我々は、自分が「無垢ゆえに真実を見抜く子供」であることを願っているようです。
さて今日は、森絵都にならって、王様の立場からこの童話を考えてみたいと思います。
森絵都は「憎いのは小さな子供じゃない」などと書いていますが、私が王様だったとしたら、このガキはそうとう憎ったらしいと思います。「空気読めクソガキ!」という感じです。このような、空気を読めない子供に対していまいましさを感じる人間というのは、けっして少数派ではなさそうです。
id:sho_taさんは、「そもそもこの「少年」、「王の権威に服する」という世間知には無頓着なクセに、「服を着ないのは恥ずかしい」という中途半端な世間知には拘泥しているところがみっともなさを加速する」と指摘しています。胸のすく思いです。
よつばスタジオ ホームページに、次のような文章が載っていました。改行を修正して、引用します。
「王様は裸だ!」と言った子供が、続いて「女王様も裸だ!」と叫ぼうとした。よく見たら女王様は本当に裸だった。周囲の男たちから「よけいなことを言うな」と子供はおさえつけられた。女王様いわく、「ちゃ、ちゃんと服は着てるんだから! バカには見えないだけなんだからね!」……そんな国に住みたい。
私も住みたいです。
それはともかく、「裸の女王様」の場合、この子供の行為は明確に「余計なこと」とみなされています。しかし、どちらの場合でも、この子供がやっていることは真実の暴露であって、そこに違いはありません。違うのは、女王様が裸でいることには(多くの男性にとって)メリットがあるのに、王様が裸でいることにはメリットがない、ということです。
しかし、王様が裸でいることには、本当にメリットがないのでしょうか? いや、もちろん、裸自体に価値があるとは思えませんけど。
そもそも「裸の王様」の話には謎があります。よく指摘されることですが、「馬鹿には見えない服というが、王様は馬鹿になら裸を見られてもよかったのだろうか?」ということです。これは難問です。実際、「裸の女王様」という物語はまず考えられません。裸体を見られる羞恥心は女性のほうが上でしょうが、男性にもあることは間違いない。それとも、王様は露出狂だったのでしょうか? 「王様は裸だ!」「そうだよ」 うわー。
いったい王様は、何のために「馬鹿には見えない服」を着たのか。青空文庫の大久保ゆう訳『はだかの王様』をもとに、以下、考えていきます。
まず、「王様」は大変な衣装道楽でした。「一時間ごとに服を着がえて、みんなに見せびらかす」ほどであったようです。これだけ見ると、イメージ通りのボンクラ王なのですが、ところが、よく読んでみると、この王様はそんなに悪い王様ではありません。
王様は「戦いなんてきらい」だったとあります。平和主義者です。城下町は「とても大きな町で、いつも活気に満ちていました」とあります。国の経済も発展しているのです。よく考えてみると、衣装道楽など、王様の趣味としては、実につつましいと言えるのではないでしょうか。
では、なぜ王様は「馬鹿には見えない服」を着ようと思ったのでしょうか。実はこの理由もはっきり書いてあります。王様は、「もしわしがその布でできた服を着れば、けらいの中からやく立たずの人間や、バカな人間が見つけられるだろう。それで服が見えるかしこいものばかり集めれば、この国ももっとにぎやかになるにちがいない」と考えたのです。
王様が「馬鹿には見えない服」を着たのは、国のためだったのです! 偉いじゃないですか! 露出狂とか言ってゴメンなさい。
この王様は、実はかなり立派な王様なのです。ふつう「裸の王様」というと「馬鹿」の代名詞みたいな感じですが、そんなことはないのです。
アンデルセンの「はだかの王様」には原作があります。ドン・ファン・マヌエル『ルカノール伯爵』の第32話です。それによると、「馬鹿には見えない布」は、原作では、「嫡出子(父親の実の子)でなければ見えない布」でした。王様は、「非嫡出子には遺産の相続権がなく、遺産は王室が没収する」という法律を盾に、王室の財産増大を狙ったのです(詳細は「アンデルセンと「裸の王様」」)。実に狡猾な王様です。
いずれにせよ、単にめずらしい布でできた服が着たかった、などという素朴な王様像は、修正されなければいけないようです。
しかし、結局、王様はだまされたのではないか、という反論がありそうです。つまり、「馬鹿にしか見えない布」なんてものは最初からなかったのに、あると信じてしまった。それは、王様が愚かな証拠だろう、というわけです。
しかし、私が思うに、王様はそんな布が存在しない可能性など、百も承知だったのではないでしょうか。
詐欺師たちは、自分たちが「馬鹿には見えない布」を織ることができるのだと人々に信じこませていましたが、しかし、実際に布を見たものはいませんでした。最初に布を「見た」のは、王様に派遣された大臣です。そして、この大臣の人選が、実に巧妙なのです。
翻訳文から引用します。「そこで王さまは、けらいの中でも正直者で通っている年よりの大臣を向かわせることにしました。この大臣はとても頭がよいので、布をきっと見ることができるだろうと思ったからです。」
ここには、大臣について、3つの描写があります。「正直者(で通っている)」「年より」「頭がよい(と王様は知っている)」の3つです。
ここで、ちょっと考えてほしいのですが、この大臣が「馬鹿には見えない布」を見て、「見えませんでした」という報告をすることがありうるでしょうか?
大臣の立場になって考えてみます。もし、「布は見えませんでした」と報告したら、まわりの人はどう思うでしょうか? 大臣は、「正直者で通っている」わけですが、「知恵者で通っている」とは書いてありません。しかし、「年より」、とは書いてあります。したがって、人々は、ああ大臣は年をとってボケてしまったから、布が見えなかったのだろう、それをありのままに報告するとはさすが正直者だ、と思うでしょう。
しかし、大臣が「布が見えました」と報告したらどうか。大臣は「正直者で通っている」わけですから、人々はその報告を素直に信じるでしょう。あとになって、布が本当は存在しないことが判明しても、そもそも詐欺師に金を渡して布を織らせたのは王様ですし、「あのときは確かにあったんです」などと言い訳すれば、問題なさそうです。
したがって、大臣にとっては、「見えない」などと本当のことを言うメリットは何もありません。大臣は「頭がよい」わけですから、当然、以上のような思考を経て、必ずや「布は見えました」と王様に報告するはずです。
王様は当然ここまで考えて、この大臣を最初の観察者に選んだのです。「正直者(で通っている)」「年より」「頭がよい(と王様は知っている)」の3つの条件を満たした人間をわざわざ選んだのは偶然ではありえません。
つまり、王様は、「馬鹿には見えない布」が存在しない可能性を十二分に承知しつつ、それでも「見えました」と言わせるために、この大臣を派遣したのです。そして、この大臣の報告によって、「馬鹿には見えない布」の実在性は一気に増すことになったのです。王様、策士です。
要するに、王様は、実在しようがしまいが関係なく、「馬鹿には見えない服がある」という幻想をつくり上げようとした、ということになります。では、何のために?
おそらく、王様は、「権威」というものに根拠がないことをよく分かっていたのではないでしょうか。このこともちゃんと作品中に書いてあります。「王さまは王さまです。何よりも強いのですから、こんな布にこわがることはありません」 そう、「王さまは王さま」なのです。「王さま」である根拠は「王さま」であるということの中にしかありません。
私は、「王様は裸だ」と叫ぶ子供に欺瞞を感じます。まあ百歩ゆずって、わけのわかってない子供があらぬことを口走るというのは許しましょう。しかし、周囲の大人たちが子供の言葉に同調して、「王様は裸だ」と叫び出すというのは、ナンセンスなのではないのか。
例えば、ある日、子供が「お金に価値なんてない。一万円札はただの紙切れだ!」ということを「発見」したとします。それを聞いた大人が「本当だ! その通りだ!」と同調し、それをきっかけに貨幣制度が崩壊する……なんてことはありえないと思います。
お金と同じで、王様が王様である根拠は、王様が王様であるとみんなが信じている、ということをみんなが信じている、ということをみんなが信じている……という無限後退の中にしかないわけです。要するに、王様というのはもともと裸なのであって、そんなことはもうみんな知っていることです。わざわざ、声高に叫ぶことではありません。
王様にとっては、むしろ「馬鹿には見えない布」が実在しないほうが、自分の権威を強化する道具として都合がよかったかもしれません。「馬鹿」という言葉の語源の一説に、こんな話があります。『史記』によれば、秦の時代、宦官の趙高は皇帝に対し「馬です」と言って鹿を献上します。皇帝は「これは鹿だろう」と訝しく思いますが、群臣たちは趙高の権勢を恐れ「陛下、これは馬です」と言ったという話です。
おそらく、王様は自分がそういう実体のない権威の上に立っていることをよく分かっていたのでしょう。だから、この王様の趣味は衣装道楽なのであり、王様は「馬鹿には見えない服」を着たのです。その服が現実には存在しなかったことなど問題ではありません。そういう空っぽの威厳によって、この国は現にうまく動いているのです。王様の仕事として、それ以上、何が必要なのでしょうか?
結論です。王様はなぜ裸になったのか? それは、人々の幸福のためです。すべては計算ずくだったのです。すばらしいです。尊敬します。まさにノブレス・オブリージュです。というわけで、次回はぜひ、女王様もいっしょにパレードおねがいします。
猫は魚が大好きだ、ネズミはチーズが大好きだ、パンダは笹が大好きだ
少し前、「ネズミはチーズを食べない」という驚異的な研究結果がネットをかけめぐったのを憶えてらっしゃいますでしょうか? この情報元を追跡してみたところ、何ともうさん臭い世界が広がっていましたよ! 今日は、オレたちパンダなんじゃね?ということについて考えます。
十ぴきねこ 大きな魚!?
ト、からだを乗り出すのに、にゃん作老人はうなずいて
にゃん作 みんな、北の空をごらんな。大きな星がひとつ、きらきらきらきら、かがやいているじゃろ?
にゃん作 あの星の下に、大きな湖があって、そこにはとほうもなく大きな魚がいるそうな。
十一ぴきのネコ (羨望のため息)
にゃん作 そいつは刺身にしても、フライにしても、たたきにしても、煮ても焼いても、干しても、燻製 にしても、三杯酢にしても、バタ焼きにしても、何にしてもいけるおいしい魚だそうな。(
十一ぴきのネコ (さらに大きく深いため息)
にゃん作 骨は細かくたたいて団子にしてもうまいそうじゃよ、あーっ。
にゃん作は話しているうちに、自分の話にうっとりして卒倒しかかる。井上ひさし『十一ぴきのネコ』より
何だか腹が減ってきました。井上節が炸裂する名作、『十一ぴきのネコ』からの引用です。やはり、ネコと言えばサカナ。お魚くわえたドラ猫を追いかけて、今日もサザエさんも裸足でかけていくって寸法です。いいてんきー♪
しかし、みなさん、考えてみると、ネコが魚を好む、というのは少し変じゃありませんか? そもそも動物というものは、自分の身近にあって捕獲しやすいものをエサにするもんではないでしょうか? 「イヌかき」はあっても「ネコかき」はないし、ネコはそんなに泳ぎが得意なようには見えません。
困ったときのGoogle頼み。さくっとおうかがいを立てますと、やはり同じ疑問をもった方がいたらしく、「人力検索はてな」でズバリの質問がありました。「猫はなぜ魚が好きなのでしょうか?魚を捕る習性もなさそうですし…ご存じの方,教えてください」。2004年になされた質問だけあって、紹介されているリンクは多くが切れてしまってますが、ざくっと見てまわりますと、こんな感じです。
ネコという動物は、離乳期にどんな食餌をするかで、一生の嗜好が決まってしまうのだそうです。ネコはもちろん肉食ですが、では、日本の伝統的な動物タンパクと言えば? そりゃ魚に決まってます。昔はトリ肉ですら贅沢品でしたからね。そのためネコは魚好きになったのです。
ナルホド。もともと魚好き、というわけじゃないんですね。
これと似たようなネタをどっかで見た記憶があります。……ああ、そうそう、「ネズミはチーズを食べない」ってやつです。みなさんは、ご存知ですか。「痛いニュース」さんの記事にリンクを張っておきます。2ちゃんの方々も驚愕しております。私もびっくりしました。
「マンチェスター・メトロポリタン大学で動物の行動主義心理学を研究するデービッド・ホームズ氏」の研究によると、ネズミは「チーズのようににおいが強くて味の濃い食べ物には、鼻もひっかけないことが分かった」のだそうです。へぇー。
この記事が出たのは、今月の6日頃ですが、今、Googleで「ネズミ チーズ マンチェスター」を検索してみると、9,400件のヒットがあります。この情報が日本のネットにも爆発的に拡散していることが分かります。
ところで、私がこの記事を最初に読んだのは、「医学都市伝説」さんのところなのですが、そこに興味深いことが書いてあります。「動物行動学者のディビット・ホームズ博士」を探してみたが、存在しない、というのですね。
存在しない? そ、そんなことないでしょう、普通。
というわけで、私も調べてみました。まず固有名詞ですが、英文記事によれば、"Manchester Metropolitan University"の、"David Holmes"博士です。肩書きは、"animal behaviourist"。
"Manchester Metropolitan University"のアドレスは、*.mmu.ac.ukです。そこでまずは、「"David Holmes" animal site:mmu.ac.uk」でGoogle検索。1件ヒット。確かにいました"David Holmes博士"。個人ページがあります。なんだ、いるじゃないですか。
しかし、なんだかおかしい。"Specialist Areas"(専門分野)を見ますと、筆頭にこうあるのです。
Stalking(ストーキング)
……えーと。植草教授(ミラーマン)の御同類とか、そういう方でいらっしゃいますか?
いや、もちろん、そんなわきゃありません。この方は、この大学に所属する同姓同名の「犯罪心理学者」さんです。医学都市伝説さんでもちゃんとふれています。別人であることは次のような専門分野を見ていただければ一目瞭然です。プロファイリング、異常心理学、サイコパス、自閉症、犯罪学……。この方が「動物行動学者」だと言うのでしたら、私はムツゴロウさんといっしょにマンチェスターに日本刀もって突撃しますよ。
さて困りましたね。"animal"でダメなら"zoological"とかでしょうか? ええい、見落としが面倒くさいので、「"David Holmes" site:mmu.ac.uk」で、直に検索です。44件しかヒットしませんから、絨毯爆撃上等っすよ。
つうわけで、片っ端から見ていきましたが、どれもこれもさっき出てきたDavid Holmes博士(専門分野ストーキング)ですよ。動物学者のDavid Holmesなんて、いねーじゃんか!
なるほど、これは不思議だ。まさか、記事が出てから、わずか3週間で大学を辞められたのでしょうか。そして、文書にまったく名前が残っていない、……なんてことは普通ないですよねえ。
こうなってみると、そもそも、この研究も、なんか怪しく見えてきます。さきほど紹介した「痛いニュース」さんのコメント欄でも、「いや、普通にネズミに食われましたが。チーズ」などの素朴な反論が多数挙がっていました。日本だけでなく、英語版WikipediaのMouseの項のノートを見ると、「ネズミって本当にチーズ食うの?」という質問に対して、「ああ食うよ、主食ってわけじゃないけど」などの返答があります。うーむ。
今度は「はてな」ブックマークを基点に、「ネズミはチーズを食べない」という記事へのブックマークや言及リンクを追ってみます。しかし、はっきり疑問に思っている人は、ほとんどいませんでした。
数少ない例としては、id:kurokuragawa さんが「ネズミ捕りにチーズを入れて捕まえた経験があるので、ちょっと信じにくい話 」とブクマコメント。id:hibikyさんが「たぶん正確には好物ではないだけで、何もなきゃ食うし、実際かじったりはするハズ。」とコメント。id:machida77さんは思いっきり疑ってます。「その後の検証や報道がないままに一種の「常識」としてブログの世界では定着してしまうのだろうな。」とコメント。
はてな内で私が発見できたのは、この3例のみです。そりゃ、普通は疑うほうが無茶です。だってBBC NEWSにも掲載されているネタですからねえ。
今度は、「ウェブ全体から検索」に切り替えて、再び絨毯爆撃をかけます。50件ぐらい見ましたが、やっぱり、出てくるページは孫引きばかりです。オレの貴重な15分を返せと言いたい。
と、ここで、私はふとあることに気づきました。この研究を行ったのは、David Holmes博士だけではなかったのです。www.japan-journals.co.ukの記事(日本語です)がかなり詳しいのですが、これによると、「マンチェスター・メトロポリタン大学の専門家と英国産ブルーチーズ「スティルトン」の製造業者団体「the Stilton Cheese Makers Association」の合同研究によると」とあります。ちょ、ちょっとまて、なんだ、その団体は。
「スティルトン」というのはブルーチーズの有名なメーカーだそうですが、その業者団体"the Stilton Cheese Makers Association"(以下SCMA)というのが絡んでいるようです。さあ、一気にうさん臭くなってきました。
そこで、"Stilton cheese"を絡めて検索すると、それらしき記事を発見しました。"KING OF CHEESE NOT NICE FOR MICE"と題された、www.stiltoncheese.comドメイン内の記事です。どうやら、ここが発信源ぽいです。
さっそく記事を読んでみますと、"New research conducted by the Stilton Cheese Makers Association (SCMA) looks set to explode the popular belief that..." ……おいおい、David博士(専門ストーカー)がいなくなってるよ!
よくよく読んでみると、この記事では、David博士(ストーカー)が研究した、とは、1行も書いてありません。博士は単に結果に対してコメントをつけているだけです。研究の主体は、どう見てもSCMAです。
研究結果の記述も適当そのものですが、よく読むと、"mice ... would turn their noses up at something as strong in smell and rich in taste as Stilton cheese."とあります。要するに、スティルトンチーズは匂いと味がキツいからネズミは食わない、ということです。というか、"KING OF CHEESE NOT NICE FOR MICE"というタイトルからして、これはスティルトンチーズに限定された話であって、チーズ全般の話ではないように読めます。
いったんまとめます。この、「ネズミはチーズを食べない」という記事に関して、少なくとも次の2点は、かなり高い確率で正しいと言っていいと思います。
- この実験を行ったとされる「マンチェスター・メトロポリタン大学のデヴィッド・ホームズ博士」は、「動物行動学者」ではなく「犯罪心理学者」。
- この実験を行った主体はDavid博士ではなく、ブルーチーズの業界団体。
これ以上のデータはなく、あとは推測になりますが、どうもこれ、ブルーチーズの業界団体が、商品のイメージアップと販売促進を兼ねて行った「研究」が、マスコミに乗って世界をかけめぐり、ブログによってさらに拡散している、という構図じゃないですかね。
もちろん、「ネズミがチーズを好まない」というのは、別に変な話ではありません。確かに、チーズは自然界で手に入る食物ではないです。しかし、ネコの例などを見ても分かるように、動物は必要とあらば食い慣れないものでも食うのです。もともとネズミは雑食です。ですから、「食べない」というのは明らかに間違いでしょう。このSCMAの研究報告も、よく読むと、「ネズミはチーズを食べない」などとは一言も書いてません。
というわけで、ちゃんとした論文でも出てくりゃ私も考えを変えますが、今のところ、「ネズミはチーズを食べない」というのはガセネタ、というほうに一票入れときます。
しかし、なんでこんなに出所不明の怪しいネタが「事実」として、世界をかけまわってるんでしょうか? 謎です。
話は変わりまして、パンダの好物はなんでしょうか? 言うまでもなく、竹や笹ですね。ですが、パンダはネコ目、「大熊猫」なわけですから、肉食でない、というのは奇妙なことです。
実は、なぜパンダが竹・笹を食うかは、専門家の間でも謎なのだそうです。まず、パンダの腸内細菌は肉を消化するためのもので、竹だの笹だの食ってもまともに消化できてないんだとか。さらに竹ってのは、何年かに一度いっせいに枯れたりするので、それがパンダの絶滅を加速している、という説もあるとか。うーむ、何考えてんだパンダ?
しかしですね、我々もあまりパンダのことを笑えないかもしれません。我々現代人の主食は何でしょうか? ご飯? パン? 私はこう言いたい。現代人の主食、それは情報であると。
それでは、我々が現在食ってる情報は、はたして我々の血となり肉となってくれるものなのでしょうか? こんな例を見ると、はなはだ頼りなくなってきます。もしかして、おいしいおいしいって言いながら、ろくな栄養もない笹、食ってんじゃないですかねえ。そういえば、ホッテントリって動物園の食事みたいだなあ。
まあ、いろいろ考えちゃいますけど、とりあえず、トムとジェリーは永遠に不滅です! まことに唐突ですが、これをもって、今日の結論とさせていただきます。