なんで白鳥があひるよりいいんだよ、働かないアリ、カメになりたい

「みにくいあひるの子」や「アリとキリギリス」、「ウサギとカメ」などの物語には、動物のキャラクターに対する強烈な偏見があります。今日は、ある物語を信じたいと思う無意識の願望について考えます。

 その日、口にするものに不自由しながら、不自由であったからこそアンデルセンは限りなく美しかった。
 人魚姫が海の泡と消える悲しさに私は身をよじるほど無念であった。
 無念であったから、私は、人魚姫を忘れることが出来なかった。
 あるいは、みにくいあひるの子が、美しい白鳥になる結末に私は大変満足し、満足したから忘れることが出来なかった。
 私は素直でよいアンデルセンの受け手であったと思う。
 私は、息子にみにくいあひるの子を読んでやった。
 息子は言った。
「なんで、白鳥があひるよりいいんだよ」
 私は考えもしなかったので答えにつまってしまった。
「あひるに悪いじゃんか」息子は言った。

佐野洋子「あひるの子」より

なるほど、あひる口の女の子は可愛いですよね! 息子いいこと言った!

息子さんの指摘をまつまでもなく、アンデルセン童話の「みにくいあひるの子」は「白鳥はあひるよりも上」という価値観につらぬかれております。菊池寛訳の「醜い家鴨あひるの子」では、あひるの子は最後に「ああ僕はあの見っともない家鴨だった時、実際こんな仕合せなんか夢にも思わなかったなあ。」と述懐するのです。こりゃあんまりです。

固定観念ステレオタイプ、レッテル、思い込み、偏見、先入観、言葉はいろいろありますが、そういうものは童話において広く見られます。

例えば、イソップ童話の「アリとキリギリス」。お笑いコンビの名前で「アリtoキリギリス」が通るほど人口に膾炙している「アリ=働き者」「キリギリス=なまけもの」のレッテルですが、実態はそう単純でもなさそうです。

まず、元々の「イソップ寓話集」では、この話は「蝉と蟻」または「蟻とセンチコガネ」の話でして、キリギリスではありませんでした。なんでキリギリスになってしまったのかについては、「インターネットで蝉を追う」という凄まじいページがあるので、そちらに譲ります。

だいたいキリギリスは卵の状態で越冬するのです。夏にがんばって栄養補給、交尾、産卵をこなしているわけですから、別に冬に食べ物がなくたって文句を言われる筋合いはありません。「キリギリス=なまけもの」の図式は濡れ衣と言っていいでしょう。

一方、アリの勤勉はかなり気合いが入っています。「旧約聖書」の「箴言」に「怠け者よ、蟻のところに行ってみよ。その道を見て、知恵を得よ。」とあるぐらいです。

ところが、2003年に北海道大大学院農学研究科の長谷川英祐助手(当時)が、アリのコロニーのうち20%はまったく働かないという観察を発表して話題になりました。これはご存じの方も多いでしょう。

で、この話には続きがありまして、よく働くアリだけ、あるいは、働かないアリだけを取り出して新たにコロニーをつくったところ、やっぱり80%は働き、20%は働かなかったのです。つまり、働かないアリ達は、仕事ができないわけではないのです。ある一定数、働かないアリがいることで、組織は健全に保たれているわけですね。

という話を、私も信じており、検索するとばんばんヒットするわけですが、これはヨタ話でありまして。

当の長谷川英祐氏が、日本動物行動学会のNEWS LETTER(pdf)の中で、「さらに,「働き者」「怠け者」をそれぞれ取り除いたコロニーで,残された個体の労働パターンがどのように変化するかを調べたが,働かないものは働かないままであり,働き者を失ったコロニーで不足する労働を補ったのは次に働いていた個体であった。」と書いています。ダメなやつは何をどうやってもダメということですな。

ここで面白いのは、なぜこんな大嘘が流布してしまったのか、ということです。元ソースである長谷川英祐氏がまったく逆の結論を出していたにもかかわらず、ですからね。

やはり、我々は信じたい物語を信じる、ということかと思います。同じくイソップの「ウサギとカメ」なんかが典型でしょう。もちろん、文字通り「カメがウサギに勝てる」と信じている人はいないでしょうが、「努力したものが勝つ」というのは、ほとんどの人にとって耳に心地よい話に違いありません。

もっとも、私の思うところ、ダメなやつというのは努力する才能においてダメなわけで、努力家のカメが勝つ話というのは、何ら希望を与える話ではないんですけどねえ。多くの人がこの物語においてカメと自分を同一視できるというのは、信じがたいことです。なんでみなさん、そんなに自分に自信をもてるのでしょうか。

ところで、Wikipediaのカメの項に、ウサギとカメの競争を「実際に試した人がいるが、本当にカメが勝ってしまったという」とあるんですが、ソースが見つかりませんでした。ウサギにとっては敵がいない状況で走る理由など別にないので、まあ、競争のやり方次第ではそういう結果も出そうですが。

ともかく、ウサギとカメとか、アリとキリギリスとかのステレオタイプには、我々の願望、自分を慰謝する心が潜んでいるのでありましょう。

冒頭のアンデルセンの話に戻ります。彼は1805年生まれです。やはり、白鳥として生まれなければどうしようもなかった時代だったのでしょう。例えば、貧乏人や障碍者は、そういう生まれであるということによって、絶対に幸せになることはなかった時代だった。だから、自分が実は「そういう生まれ」ではなかった、とする物語が共感を呼んだのでしょう。

しかし、佐野洋子の息子さんにはそういう感覚がないようです。これは、やはり、なんだかんだ言っても、現代の日本が「みにくいあひるの子」という物語を必要としないぐらいには幸せになっているということかなあ、と思います。

(2006年7月2日追記)

「みにくいあひるの子」という物語、そして「ああ僕はあの見っともない家鴨だった時、実際こんな仕合せなんか夢にも思わなかったなあ。」という白鳥の子の言葉の解釈に対して、「趣味のWebデザイン」さんからツッコミが入ってます

「みにくいあひるの子」という物語は、あひるが白鳥より下だと決めつけているわけではなく、あひるにも白鳥にもそれぞれの生き方がある中で自分のあるべき生き方ができなかった白鳥の不幸を書いたもので、白鳥の子の述懐は「過去の自分について語ったことであって、家鴨に対する一般的な評価ではない」という指摘です。なるほど。

趣味のWebデザイン」さんは、白鳥の我が子を庇い続けた母親の視点からこの物語を解釈しなおすことにもふれています。こういう、物語が違う角度から現れる瞬間ってのは、実にいいです。命なりけり、という感じがします。