これは今日のタイトルだ、表現と内容、メタマジック・ゲーム

例えば、この文のように、自分自身に言及している文を「自己言及文」といいます。「この文は嘘だ」などは矛盾した文として有名です。では、「嘘」という言葉を使わずに矛盾した自己言及文をつくれるでしょうか? 今日は、「言葉」はその意味内容以外のものを我々に伝えている、ということについて考えます。

ある山寺に、上人しやうにんありけり。よろづの法師の集まり来たる中に、ある僧、申しけるは、「法師のわれは生まれてよりこの方、すべて腹立ちさふらはず」と言ふ。この上人、学生がくしやうなるがゆゑに、仏法の道理をもつってこれを信ぜず。上人、「人には、とんじん三毒あり。聖者しやうじやにてましまさば、申すには及ばず。人として、すべて腹立たぬ人はなきなり。たとひ、うすきこきこそあれ、いかでか三毒なからむ」と言へば、「すべて、いささかも腹立たず」と言ふを、なほ信ぜずして、「まことともおぼえず、御房ごぼうのそらごととおぼゆる」と言ふ。ある僧、「立たぬと言はば、立たぬにてこそあらめ。かくのたまふべきか」とて、顔をあからめて、叱りけり。

出典不明

えーと、別にそれほど面白い話でもありませんが、今回の話題の構造をよく表した笑話です。一応、訳しておきます。

ある山寺に上人がいた。たくさんの僧侶が集まったとき、ある僧が「私は生まれてから、腹を立てたことがまったくありません」と言った。この上人は、すぐれた学者でもあったので、仏法の道理に照らしてこの言葉を信じなかった。上人が「人の心には、欲望、怒り、迷いの三毒があります。聖者ならばともかくとして、人として、まったく腹を立てないということはないでしょう」と言うと、相手は「いや、まったく腹は立ちません」と言うので、なお信じずに「本当とは思えません。あなたのつくりごとだと思います」と言ったところ、その僧は、「立たないと言ったら、立たないっ。その言いぐさはなんだっ」と、顔をまっ赤にして怒鳴った。

この僧侶は自分の言ったことが自分にはね返っております。というわけで、今回の話は「自己言及文」。自己言及文というのは、自分自身、すなわち、その文章自身について語っている文章のことです。

単に自己言及文をつくるだけなら、難しいことは何もありません。例えば、この文は「この文は」という言葉を入れるだけで、簡単に自己言及文をつくれることを示しています。日本語憲法98条第1項「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」などが同じパターンの自己言及文ですね。

では、単に言及するだけでなく、その言及が矛盾している文、自己矛盾文について考えてみます。

自分に言及している、という条件に注意してください。例えば、「座りながらの立ち読みは御遠慮ください」という文は矛盾していますが、自己言及していないので、ここでは除外します。

自己言及している矛盾文はどうやればつくれるでしょうか。「嘘」という言葉を使えば簡単です。「この文章は嘘である」とやればOKですね。しかし、これでは当たり前すぎます。それ以外の方法で自己矛盾文をつくれないでしょうか? すなわち、その文章から我々が読みとれる内容と矛盾する内容を、同時にその文章で表現するのです。それも、「嘘」とか「間違い」とかの言葉を使わずに、です。無理でしょうか?

実は可能です。例えば、次のような文章があります。

「このぶんはひらがなだけでかかれていまス。」

うーん、おしいっ、という感じです。確かに自己言及しつつ矛盾しています。「嘘」という言葉も使っていません。他にも、

「この文に使用されている漢字は全部で十一個だ。」
「この文の中に、否定を意味する単語は、ない。」
「この文は句点で終わっている!」
「この文に使われているわけがないじゃないか、倒置法なんか」

などもそうです。これはどういう仕組みでしょうか。

これを理解するためには、「文章が表現していること」を反省してみる必要があります。ここで冒頭の説話がヒントになります。「私は怒ったことがない」と言いながら怒っている僧侶は、「顔の表情が表現している内容(腹立ち)」と「口から言葉で表現している内容(腹立たず)」とが、矛盾しているのでした。

最初の「このぶんはひらがなだけでかかれていまス。」という文章は、その字面を見ると「ひらがなとカタカナで書かれている」ことが分かりますが、その表現する内容は「ひらがなだけで書かれている」となって、矛盾していたわけです。つまり、「文章が意味を表現するやり方」と「文章が表現している内容」という二つのものの区別があったわけです。

言語学者ソシュールは、この二つの概念を「シニフィアン(記号表現)」と「シニフィエ(記号内容)」と呼んで区別しました。フランス語ですな。直訳すると「意味している」「意味されている」なのですが、日本人にはどっちがどっちが意味不明です。

シニフィアンシニフィエの区別は、慣れないうちはなかなか面倒です。それは我々は普通に生きていているとき、「イヌ」という言葉そのものと、犬という動物のイメージを切り離して考えることなどしないからです。

で、自己言及矛盾文という思考訓練を経てから、シニフィアンシニフィエの説明をすれば、少しは分かりやすいかなーと思ってこの記事を書いたのですが、うーん、別に分かりやすくもないようですねえ。

さて、自己言及文といえば、D.R.ホフスタッター『メタマジック・ゲーム』を外すことはできません。この本から私のお気に入りをいくつか紹介して、お茶を濁すことにします。以下の文たちは、矛盾しているわけではありませんが、考え出すとよく分からなくなるものばかりです。

「君は私の支配下にあるのだよ。なぜなら君は読むからね、私の最後の文字まで。」
「もしも私がこの文を書きおえれば……」
「もしもこの文が自己言及じゃなかったら、この文はどうなるんだろう?」
「このへろいは、もげらないくぬり言葉をたくさん含んでいるが、全体のはっきょは文脈かららりられる。」
「この文は疑問文じゃないのに疑問符で終わる?」
「この文からアガサ・クリスティのことを思いだしましたか?」

最後に、この『メタマジック・ゲーム』には、訳者が「完全に日本語に訳す気力はなかった」と書いて翻訳を放置した自己言及文があるのですが、それを訳しておきます。

この文が、二個の「い」、二個の「き」、三個の「こ」、二個の「し」、二個の「た」、二個の「て」、三十一個の「の」、二個の「は」、二個の「る」、二個の「を」、二個の「が」、二個の「だ」、三個の「で」、五個の「一」、十七個の「二」、七個の「三」、二個の「四」、二個の「五」、一個の「六」、三個の「七」、一個の「八」、一個の「九」、四個の「十」、三十個の「個」、二個の「文」、二個の「暇」、三個の「人」、二個の「確」、二個の「認」 で、できていることを確認した人は、暇人だ!