無知の知を知れ、アピトーユ・ド・ホルス・リクッビ、隗より始めよ

みなさんは、ソクラテスの「無知の知」についてご存知でしょうか。「知らないということを知っている」というアレです。え? 知ってるに決まってる? それは失礼いたしました。今日は、「無知の知」について考えます。

 ソクラテスはかつて、こんなことを言った。世の識者たちは、自分がだいじなことを知らないということに気づいていない。つまり、わかっていないということを忘れてしまっている。それに対して、自分は、知らないということを知っている。つまり、わかっていないということを忘れていない。この点で、世の識者たちよりも自分のほうがものごとがよくわかっている、と言えるだろう、と。
 「知らないということを知っている」ことを「無知の知」という。

永井均〈子ども〉のための哲学』より

さて、いきましょう。「無知の知」についてです。

無知の知」というのは実に面白い表現です。「自分が知らないということを知っている」。こういう、矛盾する二つのものを組み合わせる言い方をオキシモロンと言ったりします。オキシモロンについては、「マックde記号論(言語学のお散歩)」の中の「音無響子さんの矛盾〜言語と論理」がオススメです。このブログでも以前に自己言及矛盾文について書いたことがあります

この「無知の知」という表現は、素朴に考えれば変です。「例外のない規則はない」とか「『貼り紙禁止』という貼り紙」とかと同じで、お前自身はどーなのよ、というツッコミを入れる必要があります。つまり「自分は何も知らない」はずなのに「自分は『自分は何も知らないということ』は知っている」というのは、変じゃないか、矛盾しているじゃないか、というわけです。

無知の知」という言葉をきちんと受け取ったのならば、ここで、「はて? 自分は『自分は《自分は何も知らない》ということは知っている』ということは知っている、と思い込んできたが、本当にそうなのであろうか?」ということを自省する必要があると思います。

ネットで検索してみると、この「無知の知」の大切さを説く人は大変多いのですが、なぜか、みなさん「自分は『無知の知』という言葉については知っている」という前提は疑っていないのですね。というか、かくいう私もそうでありまして、上記の引用文を読んでいて、ふと自分が「無知の知」という言葉について何も知らないことを知って愕然とし、こんなエントリを書いているわけですが。

この「無知の知」は、プラトンソクラテスの弁明』にある言葉です。私にはギリシア語を読む能力はありませんので、原典にあたることができません。そもそも、プラトンソクラテスの真意をどこまで伝えているのかも分かりません。やはり、私は「無知の知」について、無知であることを認めざるをえないようです。

しかたないので日本語訳に頼ることにします。岩波文庫の久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』を使いましょう。

まず簡単にソクラテスについておさらいしますと、アポロンの神が「当代一の智者はソクラテスである」との神託を行い、ソクラテスがそれを確かめるために、賢人を次々に訪ねるのでした。で、ソクラテスは「賢人」と呼ばれる人たちが、実は何も知らないことに気づき、次の言葉になります。

「彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない」

おおっ、この表現ですと矛盾していません! ソクラテスは「知っているとも思っていない」わけで、「知らないということを知っている」と言っているのではないからです。つまり、ソクラテスによれば、大切なことは「知らないということを知っている」ことではなく、「知っていると思わない」ことであるということになります。これは大きな違いです。

ということはです。この「無知の知」が引用される場面には、よく、「知れば知るほど、知らないことが増えてくる」とか「人間は科学を進歩させてきたが、まだ世界には分からないことがいっぱいあるのだ」というような指摘がくっついていますが、それはちょっとズレていることになります。ソクラテスが言いたかったのは、「お前がホニャララについて知っていると思っているようだが、本当か?」ということであって、「お前はホニャララについて知らないのだ、それを自覚せよ」ということではないからです。一見、同じことのようですが、注意をむける対象が違うのです。ソクラテスは「知」(だと思い込んでいるもの)を反省せよと言っているのであって、「無知」に目を向けよと言っているのではないのです。

私にはこのソクラテスの指摘は非常に妥当なように思われます。なぜなら、一般に「自分が知らない」ことについて考えるのは、あまりに難しいからです。

例えば、みなさんは、古代ギリシアに「アピトーユ・ド・ホルス・リクッビ」と呼ばれる儀式が存在したかどうか知っていますか? この儀式では、男性が自分の尻を両手で叩きながらベッドを昇り降りするそうです。まあ、これは私が今勝手に作った話ですから、たぶん100%存在しないと思いますけど、ともかく我々はこの儀式の存在について「知りません」。しかし、そのこと(自分が「アピトーユ・ド・ホルス・リクッビ」を知らないということ)を知っても、何の意味もないですし、そもそも、普通の人がこの儀式について考えることなど不可能だと思います。

「あることを知らない」というのは、究極的には、そもそも、そこに考えるべき問題がある、ということに気づいていない状態でしょう。ならば当然、それについて考えるのは無理なわけです。それなのに「知らないということを知れ」とか言われても、「あーきっと自分には知らないことがいっぱいあるんだろーなー」と考えるのが関の山で、つまりは単なる思考停止に入るだけではないでしょうか。

ソクラテスはそんな無茶を言っているわけではなく、「自分は知っている」と思い込んでいることについて反省せよ、と言っているのでした。例えば、「無知の知」という言葉を使って他人を批判しようとするときは、その他人のことを自分が本当に知っているのか、よく反省する必要があるのだと思います。

というわけで、今日は「無知の知」について反省してみました。