世界最古の顔文字、日本最古のエロ小説、黙読は世界を啓く

かつて読書は音読が主流でした。では、音読できない小説なんかはどうしちゃったんでしょうか? 今日は、黙読とは世界の禁忌に触れ、人を目覚めさせる行為なのではないか、ということについて考えます。

 名前は忘れたが、フランスの中世の神学者が日記の中で、こういうことを書いていたそうだ。蔵書家で知られる彼の書斎に、甥っ子が無断ではいりこみ、本を読んでいたらしい。そのことを彼はこう日記に書いたという。
「なんと彼は、声をださずに本を読んでいた」
 まるで奇っ怪な悪魔でも見たかのように、その神学者は衝撃を受けたのだった。たまたま書斎にはいって、甥の行為を目撃したときのこの彼の驚きぶりを、私たちは、なにか不思議な感じで受け取ってしまうが、それは私たちが黙読を当たり前のこととして考えているからだ。
 その甥っ子は勝手に書斎にはいりこんで、おじの蔵書を読むことに、うしろめたさを感じていたのだろうか。だからこそ彼は声をださずに本を読んでいたのである。しかし、神学者がそれほどの驚きをもって黙読という行為を記録したということは、かつて人びとは本を読むに際して、声に出して読むのを当然のように思っていたことを示す。黙読とは、当時の知識人たちにとっては悪魔のごとき不自然な行為だったのかもしれない。

五木寛之知の休日』より

私は作家五木寛之を深く敬愛するものですが、しかし、この文章はいただけませんな。あやしげな脳内ソースに基づいて議論を展開した上、「奇っ怪な悪魔でも見たかのように」という自分でこしらえた比喩を結論にもってくるようでは、空中楼閣を建てているようなもの。なんとも説得力がありません。

それはさておき、この話自体は、なかなか興味深いです。なんといっても、現代では黙読が主流です。いくら『声に出して読みたい日本語』が売れようが、町中で声に出して日本語を読んでいるやつは、ちょっと頭があたたかすぎると言わざるをえません。

ところが、かつて、読書といえば音読が普通だったのです。五木寛之が挙げた「フランスの中世の神学者」のソースはあいにく発見できませんでしたが、よく似た話に聖アウグスティヌス(354-430年)の話があります。キリスト教会の父と謳われるアウグスティヌスがミラノの学僧聖アンブロシウスを訪ねたときのエピソードが『告白録』にあります。そのとき、アウグスティヌスは、黙読をするアンブロシウスを見て、何をしているのか分からず、大いにとまどったそうです。

しかし、中世の人々が黙読をまったくしなかった、というのもちょっと不自然なような気がします。

音読から黙読への変化に関しては、慶應大学の高宮利行が「音読、朗読そして黙読」という文章を書いていますが、この文章によると、中世の社会においても、黙読が存在したことをうかがわせる証拠が、いくつかあるようです。

特に興味深いのはシーンガーの指摘です。まず、古代ラテン語には分かち書きがありませんでした。つまり、"THISISAPEN"のような書き方をしたわけですね。これは確かに速読するのは難しそうです。シーンガーは、7,8世紀になって、初めて分かち書きが始まるとともに、黙読の習慣も広がったと言います。

一般に、黙読の始まりというのは、活版印刷技術の普及(1450年頃)と軌を一にするとされるわけですが、意外と早い時期から始まっているのかもしれません。

世界最初の顔文字をご存じでしょうか? ダンテの『神曲』(1321年)の中に、omoという文字列で人間の顔を表現した例があるそうです。これは「文字は音読されるもの」という前提をくつがえすものと言っていいでしょう。

さて、私はちょっと変なことを思いつきました。

黙読の歴史が古いことを言うのは、「けして音読されない文章」の存在を示せばいいわけです。そんな文章があるかって? ありますよ。ずばり、ポルノ小説です。いくらなんでも、エロ小説を音読するやつは少ないでしょう。したがって、最古のポルノ小説がいつから始まったかを調べれば、音読と黙読の歴史を考えるヒントになるのではないでしょうか。

Wikipediaの"Pornography"の項を見てみます。単なるポルノということであれば、ドイツで発見された7200年前の彫像(リンク先、18禁?)が最も古いようですが、書物に限定すると、16世紀の体位集の例が最古のようです。そう古くもないですね。

ところが、なんと日本最古のエロ小説はもっと古いんです。さすがというしかありません。その名も『袋法師絵詞』という書物でして、書かれたのは鎌倉時代末期といいますから、1300年頃でしょうか。この『袋法師絵詞』の全文が読めるページをとりあえずリンクしておきます。

一応、あらすじを紹介しておきます。女ばかりの屋敷につれこまれた法師。男がいると目立つというので袋づめにされます。そして、その状態で屋敷の女たちと次々に関係をもつ……という話です。いきなり、ボンテージものですか。

この本を紹介するとき避けて通れないのが、「おしますおします」です。これ、当時の女性の嬌声(あえぎ声)なんだそうです。私にはさっぱり意味がわかりません。丁寧語の「ます」は室町時代には完成していたようですが、何が「おす」のか? 「おす」という語には、古くは「上から一面に及ぼす」という語義があるので、そのあたりの感覚でしょうか? まあ、こんなこと真面目に考えるのは「いくって、どこにいくんだよ?」と女性に聞いてるようなもので、アホ丸だしですが。

さて、このエロ小説と黙読の関係ですが、私のオリジナルの着想か、と思いきや、鹿島茂セーラー服とエッフェル塔』に既に書いてありました。うーん、参りました。

この本には黙読によって普及したものがもう一つ挙げられています。それは「異端」です。

一般にルターやカルヴァンなど、「異端」の誕生の契機として、印刷技術の普及が挙げられます。印刷された聖書が広く普及したことで、教会の知的権威が崩壊したわけですね。余談ですが、今現在、インターネットの普及によって、大学など旧来の知的権威が崩壊するかもしれないと言われております。

しかし、実は黙読の普及がその端緒にあった、というのがここでの指摘です。なるほどなるほど。確かに、異端の書を音読するわけにはいきませんものね。

こうしてみると、五木寛之が、黙読は「悪魔のごとき不自然な行為」だと書いたのは、そう的を外してもいないようです。こっそり蔵書を読んでいた甥っ子は、まさにエロ本を読んでいるところを発見された中学生の趣ですが、いずれにせよ、黙読というのは、禁忌に触れる行為であるということです。

国立国語研究所の調査によりますと、4年生の2学期までは、音読のほうが、黙読よりも読みの速度が早いそうです。ふーむ、となると、やはり、この時期を過ぎた頃から、人はいろんな意味で目覚める、ということかもしれません。