勉強すると叱られる、黒くなければ鴉でない、雪がとけたら春になる

カラスを一羽も見ないでカラスについて語ることはできるか? 「雪がとければ水になる」と「雪がとければ春になる」は、何が違うのか? 今日は、論理学のトピックを紹介しながら、数学の「普遍性」について考えます。

 私は「ある時間、待ってみる力」をふるい起こすことが、子供には必要だ、といいました。それは、子供にはもちろん、大人にとっても、生きてゆくうえで、本当に難しい問題にぶつかったとき時、一応それを括弧に入れて、「ある時間」おいておく、ということなのです。そうやって、生きてゆくという大きい数式を計算し続けるのです。初めから逃げる、というのとは違います。
 そのうち、括弧のなかの問題が、自然に解けてしまうことがあります。括弧のなかの問題をBとすれば、「ある時間」待っている間も、とくに子供の時、私たちはそうしてもすっかりそれを忘れていることはできません。そうしながらも、いつも心にかかっていて、思い出されます。しかし、その苦しい時、具体的な問題や特定の人のことじゃなく、Bという記号に置きかえて、――Bがまだ解決できていないけれど、もう少し待ってみよう、と考えることにするのです。
 それだけでどんなに気持ちが軽くなるか、私は幾度も経験してきました。いまもある記号に最悪の「いじめっ子」の顔が代入できるほどです。
 そして「ある時間」たって、括弧をといてみても、まだ問題がそのままであれば、今度こそ正面からそれに立ち向かってゆかなければなりません。しかし、子供のあなたたちは、なんとかしのいだ「ある時間」のあいだに、自分が成長し、たくましくなっていることに気づくはずです。そこが数学の場合と違います。私はとくに高校のころから大学を卒業するあたりまで、そのようにやってきました。そして、現にいま、生きています。

大江健三郎「『自分の木』の下で」より

大江健三郎らしい、透明にして美しい比喩です。

確かに、数学においては、数式のある部分を「括弧に入れる」ことで計算が簡単になることがあります。方程式の両辺に同じ式が現れて消去できたり、分子と分母に同じ式が出てきて約分できたりする。人生もまた同じく、「難しい問題」を括弧に入れて置くことで、解決できることがある。

しかし、ここには数学と違う点がある、と大江健三郎は指摘します。

難しい問題を括弧に入れて計算を続けるうちに、「自分が成長し、たくましくなって」いく。だから、結局、括弧の中が消えずに残ったとしても、「今度こそ正面からそれに立ち向かって」いける。そこが数学と違う。

数学の立場から言えば、括弧の中に入れた部分が消えず残り、そのまま計算するはめになったとしたら、それは失敗です。まあ、計算の見通しがよくなったりはしたかもしれませんが、ともかく本質的な解決にはなっていない。ところが、大江健三郎は、この数学的には無意味な場合でも、人生という数式においては、ちゃんと本質的な解決になっている、というのです。

ここには、数学にはないけれど、我々の生においては確かに存在するものが、はっきり姿を見せています。それを考えるのが今日のテーマです。

話をかえまして、みなさん「対偶」という言葉をご存知ですか? あー、なんか高校のときやったかも、というぐらいの記憶はありますでしょうか。

簡単におさらいしましょう。「星が見えるなら、夜である」というような「Pならば、Qだ」という形の文章を考えます。今、「夜でない」状態だったとしましょう。「星が見える」のなら必ず「夜である」のですから、今「夜でない」のなら「星は見えない」はずですね。ということは、「夜でなければ、星は見えない」ことが分かります。……あったり前ですな。

これを一般化すると、「Pならば、Qだ」という命題(真偽のはっきりした主張)が成り立つときは、必ず「Qでなければ、Pでない」という命題も成り立つ、ということです。この「Qでなければ、Pでない」を、元の文章の「対偶」というのでした。「やさしくなければ生きていく資格がない」の対偶は「生きていく資格があるやつはやさしい」です。元の命題が正しければ、対偶も正しくなります。

「ネコは可愛い」の対偶はどうでしょうか。これは「その動物がネコであるならば、その動物は可愛い」ということですから、対偶は「その動物が可愛くなければ、その動物はネコではない」です。すなわち、「可愛くなければ、ネコではない」。

「対偶」とよく似ていて、間違えやすいのが「逆」です。「Pならば、Qだ」という文章のP,Qの順番を交換して「Qならば、Pだ」としたものが「逆」です。「星が見えるなら、夜である」の逆は「夜であれば、星が見える」ですが、これは正しいとは言えません。曇ってれば見えませんね。「ポチならば、犬」ですが「犬ならば、ポチ」ではありません。つまり、逆は必ずしも真ならず、というわけです。

また、「Pならば、Qだ」という文章に対して、「Pでないならば、Qでない」を「裏」といいます。「裏」は「逆」の「対偶」です。「星が見えるなら、夜である」の「逆」は「星が見えないなら、夜ではない」ですが、これもやはり正しくありません。

なんだかいろいろ出てきて混乱してきたと思いますが、とりあえず、元の命題と対偶は同じことを言っている、ということだけ確認してください。逆とか裏は適当に理解しておいてください。私も、どっちが逆でどっちが裏だかすぐ忘れます。

さて、このような「対偶」とか「逆」とかの区別は、ある程度の論理思考に慣れた人なら別に難しくない思われるのですが、どうもそういうわけでもないようです。このあたりから、「数学的思考」と世間一般の「論理的思考」のギャップが想像できて、なかなか興味深いです。

例えば、芥川龍之介の「侏儒の言葉」にこんな箴言が出てきます。「艱難かんなんなんじを玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。」 ってことは、自分からトラブルを招きよせる粗忽者だけが玉になれるというわけですか。なるほど、これは面白い。

面白いですが、論理的には間違っています。「艱難汝を玉にす」というのは、「艱難を味わったならば、玉のように輝く人になれる」ということでしょう。「侏儒の言葉」で言っているのは「艱難を味わったことがなければ、玉のように輝く人にはなれない」ということですから、これは「裏」です。裏は必ずしも正しくありません。艱難を味わわなくとも、玉になれるかもしれないからです。

小谷野敦は、著書『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』の中で、「何の罪もない人を殺してはいけない」の対偶は「罪のある人は、殺してもいい場合がある」である、と書いたそうです。これは「裏」ですね。また、内田樹はブログで「対偶」の意味を知らなかったことを書いています。

このような論理的思考に対する理解のなさは、ちょっと不思議な感じがします。

単に、思考力が不自由だからでしょうか? 例えば、「個人情報保護法」をテーマにしたある講義の中で、「法曹学界の第一人者」の論理的思考力が非常にヤバかったという事例。その「第一人者」は、「過去6月以内のいずれの日においても5千を超える」の否定を「過去6月以内のいずれの日においても5千を超えない」としたそうです。マジっすか。こりゃ単なる馬鹿です。

しかし、芥川はもちろん、小谷野敦内田樹といった思考の手練たちがこぞって間違えているのを見ると、どうも単なる能力の問題でもなさそうです。むしろここは、数学的な論理と異なる論理の存在をかぎつけるべきでしょう。

では、数学的論理とは異なる論理とは何でしょうか?

まず非常に有名な例から。「彼は、叱られないと勉強しない」というのは、多くの人にとって身におぼえがあることでしょう。では、この対偶は何でしょう? 「Pならば、Qだ」の対偶は「Qでないならば、Pでない」でした。ということは? えーと、「彼は勉強すると叱られる」。あ、あれ?

タネ明かしは、時間の流れに注目することです。最初の「叱られないと勉強しない」では「叱られない」という出来事が前にあり、「勉強しない」が後でした。ところが、「勉強すると叱られる」では、「勉強する」が前、「叱られる」が後のように読めてしまいます。つまり、時間構造が壊れていて、正しく対偶になっていないのです。

そこで、時間の流れも含めて正しく対偶を取ると次のようになります。「彼が勉強していたとすると、その前にだれかに叱られてたはずだ」。これなら、まったく問題ないですね。

この例から分かるのは、日本語の「Pならば、Qだ」という文章には、時間の前後関係が入っているということです。

さて、次は、「ヘンペルのカラス」という話です。「すべてのカラスは黒い」という命題の対偶は「黒くないものはカラスではない」です。では、この対偶を「観察」によって確かめましょう。

とりあえず、あなたの部屋にあるものを一つずつ拾って、この対偶命題が正しいことを確かめてください。「黒くないものはカラスではない」証拠が次々に見つかるはずです。おそらく、部屋から一歩も出ることなく、何千個もの例が見つかるでしょう。しかし、それによって、元々の「すべてのカラスは黒い」という命題を確かめたことになるのでしょうか?

部屋から出たって同じことです。世界中をかけまわって「黒くないものはカラスではない」ことを確かめたところで、結局、カラスを一羽も見ていないかもしれないのです。つまり、カラスを見ずにカラスについて語ることができるのは変ではないか?

このような例を見ると、対偶がもとの命題と等しい、というのは本当なのか?という疑問が湧きます。カール・ヘンペルによって提起されたこの問題を「ヘンペルのカラス」といいます。

数学においては、「ヘンペルのカラス」はまったく問題になりません。なぜなら、数学においては、「すべて」を確認できるからです。数学では「どんな整数nを取っても……」とか「任意の連続関数f(x)に対して……」とか「pを勝手な素数とする」などの言葉が頻出します。「すべて」について語れる、というのは数学の大きな魅力です。

ですから、数学においては、「すべての黒くないもの」を観察し、それがことごとく「カラスでない」ことを確認できるわけです。このとき、当然、「すべてのカラスは黒い」と言っていいことになります。カラスを一羽も見ていないのにです!

余談ですが、Wikipediaの「ヘンペルのカラス」の項には、「『全てのカラスは黒い』と『カラスは存在しない』という、論理的に全く相反する仮説が、共に否定されずに残される。これは明らかにナンセンスである。」と書いてありますが、この2つの命題は「論理的に全く相反する」わけではありません。「カラスが存在しない」とき、「全てのカラスは黒い」は常に真となり、両立するからです。まあ、「ナンセンス」ではありますが。

ふつう、現実世界で何ごとかを主張するとき、それが世界の「すべて」のものに対して通用することを確認するのは、ちょっと難しいです。「まだ100%確認できていませんが、今のところ99.9999%は正しいことが分かっています」というレベルで話をするしかないわけです。ですが、数学だけは、その命題が「今」どこまで確かめられているか、という思考から抜け出ています。数学にあるのは、その命題が真か偽か、だけです。

これらの例を見ていくと、どうやら、数学的な論理には「時間」というものが存在しないのではないか、ということに気づきます。

今までに見た3つの例は、すべてそのような例でした。もっと分かりやすい部分を取り出せば、「1+1=2」は、いつでも、何年経っても「1+1=2」である、ということです。これは数学の普遍性と言えます。

「雪がとければ水になる」と「雪がとければ春になる」の違いは何でしょうか? 前者の対偶をとると、「水になっていなければ雪はとけていない」ですから、これはいつでもどこでも正しい命題でしょう。一方、後者の対偶は「春にならなければ雪はとけない」ですが、よく考えてみると、この命題が意味をもつのは、冬、雪にかこまれて春をまつ季節の中で、だけなのです。

時間を超えた論理と、時間の中で意味をもつ論理の2つがあるようです。一般に前者の論理は数学的な、普遍的なものを目指す論理といえるでしょう。

ところで、大江健三郎が、ノーベル賞を受賞したころだったと思います。彼がテレビのインタビューで、「スピノザを読みたい」と言っていたのを聞いて、私はちょっと違和感がありました。スピノザと言えば、17世紀の哲学者じゃありませんか。例えば、現代の物理学者が、ニュートンの『プリンキピア』を研究したい、と言うことはまず考えられません。

帝京大学助教授の小島寛之の話です。彼は若い頃、数学科に所属していました。指導教官に研究の方向性を聞かれ、フェルマー(17世紀の数学者)の数学について研究したいと言ったところ、指導教官に「そんな古いことをやってどうする」と一笑に付され、「楕円曲線」や「モジュラー形式」などの、より新しい理論を薦められたそうです。「殺意」が芽生えた、と小島は書いています。

しかし、フェルマーが残した二十世紀数学最大の難問、フェルマーの最終定理は、まさに「楕円曲線」や「モジュラー形式」などの理論の進歩によって解かれたのでした。してみると、やはり、フェルマーの残した問題はともかく、その数学的業績は今では「古い」ものであり、あらためてふり返る価値のないものなのでしょうか。

こうなると、「普遍」とは、なんなのだろうという気がします。その定理は未来永劫真実であるにしても現代の数学者にはもはや顧みられることのないフェルマーと、21世紀の大文豪によって今も新しい意味を汲み出されるスピノザは、どちらが「普遍的」なのか。そんなことを考えてしまいます。

というわけで今回は、数学的論理は「時間」を超越している、ということを見てきました。人は、時間の中で生きる存在でありながら、しかし、同時に時間を超えたものに憧れる存在でもあります。その考えてみると、このようなさまざな論理の形は、どれも人間の一つの姿なのだと、私には思われます。