ひよこの残骸、はじめてあふれる獣の涙、いつの日か出会うもの

人間は生きるために、他の生物を殺します。しかし、私は、例えば食事をすることが「残酷だ」と実感することができません。これは私がおかしいのでしょうか? 今日は、石垣りんの詩「くらし」を手がかりに、生と死の問題について考えます。

 くらし     石垣りん
食わずには生きてゆけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙。

石垣りん表札など』より

改行を除くと、わずか123文字しかない詩ですが、そのメッセージは苛烈そのものです。

最後の5行は衝撃的です。――はっと、突然意識が戻る。周囲は夕暮れのオレンジ色。自宅の台所。静寂。口から何かがたれる。手でぬぐうと、液体の感覚。目の前にあるものがだんだん明瞭になっていく。にんじんのしっぽ。鳥の骨。――ああ、いつの日か、自分は確かにそれに出会うことになるでしょう。

我々の食らうものたちは、みな何かの死体です。タマゴはひよこになれず死んでいった残骸であり、ハンバーグは動物の死肉を叩き潰した肉塊です。ご飯をひと噛みするごとに大量の命が口内で潰れていきます。

食肉用の牛や豚を屠殺する方法をご存じでしょうか? 不要な苦痛を与えても筋肉が硬くなるばかりですので、頭を金属の棒で一気に打ち抜くか、電気ショックで気絶させて吊るし上げ、頸動脈切断により失血死させる、という方法をとります。アメリカで、1日に屠殺される牛は何頭だか知っていますか? 10万頭です。

ある小学校で「にわとりを殺して食べる」という授業がありました。生徒たちが、ひよこのときからにわとりを育て、世話をし、可愛がり、そして殺し、鍋で煮て食べました。4年生だったそうです。女生徒のほとんどは泣き、多くの生徒は食べるのを拒否しました。「生命の大切さ」を学ぶというのが目的の授業だったとか。

人間が生きるということは、他の生物の命を奪っていく営みです。それは限りなく真実でしょう。

さて、私の話はここからです。

ここで私は聞いてみたいのですが、こういう話を聞いて、自分が何かを食うということは自分の手で動物を殺すことと同じ残酷な行為である、と心の底から思えましたか? この質問に「yes」と答える人、それははっきり嘘ではないでしょうか。たぶん、こんな話を聞いても、多くの人は次の食事を平然と食うはずです。私もそうです。

それは、私が分かってないからですかね? 「生きる」ということの真実をきちんと分からせるために、私は、にわとりを殺す授業のようなもので「教育」されなければならないのでしょうか? 私たちは、いちいち、タマゴ料理を食うとき、自分はひよこを殺して、それを食ったんだ、ああ残酷だ。と実感するべきなのでしょうか。

私は、人間が生きることで他の生命が失われていく、ということ自体は真実であろうと思います。ですが、それに対して「残酷だ」「ひどいことだ」という感覚をもてません。むしろ、それは「当たり前のことだ」と思います。その「当たり前のこと」に対して、私は食事のたびに「いただきます」「ごちそうさま」という言葉を捧げるぐらいの敬意はあるものの、別に動物たちに同情したりはしません。

それだけならば、単に、冷血な人間が一人ここにいる、ということでいいんですが、ところが、どういうわけか、私は、石垣りんの詩の最終行「獣の涙」には深く共感するのです。確かに人間の生の真実には「涙」と表現されるべき感情の動きをおこすものがあります。はてさて、いったいどうなっているのか。

話は飛びますが、この詩の「台所に散らばっている」という語句は、どこまでを修飾していると思いますか? 「にんじんのしっぽ」と「鳥の骨」と「父のはらわた」が「台所に散らばっている」のは疑いないとして、私は、この詩を読むと、つい、「父のはらわた」と「四十の日暮れ」をひといきに読んでしまう。「鳥の骨、父のはらわた、四十の日暮れ」という五七七のリズムに引きずられているのです。そうなると、まるで「四十の日暮れ」が「台所に散らばっている」ような感じになります。

「四十の日暮れ」の「四十」とは年齢のことだと考えていいでしょう。子供たちが自分にかける痛みが本格的に感じられる年代になって、かつて自分が親たちにかけていた痛みに気づく、というのが通例の解釈です。では、「日暮れ」は? なぜ、この場面が「日暮れ」でなければならないのでしょうか?

この台所に散らばっているものは、私が食ってきたものたちです。その中に「四十の日暮れ」も入っていると考えてみます。「四十の」というのは自分の年齢でしょう。もし例えば「四十の決意」と言ったら、この「決意」というのは自分の中の「決意」です。ならば、「四十の日暮れ」の「日暮れ」というのは、この詩の「わたし」自身のものです。それを食ってきた。わたしはわたし自身を食ってきた。

人は何のために「食う」のかも、この詩に書いてあります。生きるためです。私は生きるために、わたし自身を食ってきた。そして、腹はふくれたものの、四十歳、自分の人生の日暮れを感じている。このことが、具体的に何を表すかは、読む人それぞれの問題です。しかし、私がここで注目したいのは、食われたものの中に「自分」が入っているかもしれない、ということです。

「わたし」は「獣の涙」を流します。私の感覚では、獣は自分と無関係な他人のために泣いたりはしません。正直言えば、私だってそうです。獣が泣くのは、自分が痛みを感じたときだけです。私が、だれかのために泣くとすれば、それは、だれかの痛みを我がこととして感じたときだけです。

獣は、自分を食らい、その痛みで涙を流しているのだと、私は思います。

食っているときは、夢中です。何を食っているのかすら気づくことはありません。しかし、ふとおのれを食っていることに気づいた獣は、その痛みのために涙を流すのです。人間が生きるというのは、他の生命を殺すことです。それは間違いありません。しかし、それは、同時に自分をも殺しているということであるのだと思います。

食われたのは、「にんじん」でも「鳥」でも「父」でもありません。「わたし」自身です。

人間は食物連鎖の頂点におり、牛は私たちに殺されます。しかし、私たちだって、不条理な死をむかえることはあります。死にたくないと泣きわめきつつ死ぬことはあります。死んだら肉体は拡散して森の小虫どものエサとなるのです。

私たちは、そういう大きな因果の中にいますし、それは「当たり前」のことです。そういうめぐりゆくつらなりに対して「いただきます」「ごちそうさまでした」という敬意をもつのは当然のことです。ですが、食卓の牛肉に対して「残酷だ」などとは、夢にも思いません。だって自分と同じですから。では、「にわとりを殺す授業」で行われたことに対して、ふつうの人間なら「残酷だ」とか「可哀想だ」という感想をもつのは、なぜか?

答えは簡単です。自分が絶対に死なない立場から、相手を殺しているからです。

人間が思い知るべき最も大切なことは、「自分は死ぬ」ということです。ほとんどの場合、それが観念的にしか理解されていないから、すべてがぼやけているのです。私たちは、「食わずには生きてゆけない」から食うのです。「教育」のために食うのではありません。生活上の必然性もまったくない小学生たちににわとりを殺させる違和感は、そこにあります。

「食わずには生きてゆけない」という言葉は、論理的には、対偶をとった「生きるためには食わねばならない」と同値です。しかし、石垣りんは「生きてゆけない」という、生を否定する形をとりました。また、「日暮れ」という終末を暗示させる言葉を使っています。

食べるということに敬意を払えない人間は、目の前の食事が、他の生命を殺して得られたものであることを知らないわけではありません。そんなことはだれでも知っています。そうではなくて、食べるということに敬意を払えない人間は、自分がいつか死ぬ、自分は生きるために自分をも殺している、ということが分かっていないのです。

「獣の涙」は「はじめて」あふれた、と詩にはあります。おのれの死の痛みをもってして、やっと涙を流せるのだとしたら、なるほど、確かに人間は「自分が死にゆかんとしていることを思い知る」必要があるのかもしれません。