また逢ひ申すべし、3歳の押しかけ女房、生まれ変わられ

生まれ変わり、輪廻転生という言葉はだれでも聞いたことがあるでしょう。今日は、いくつかの生まれ変わりの具体的を例を見ることで、生まれ変わりという行為の見方を反転させます。

 神田明神前よりお茶の水へ出るところに船宿ありしが、文化三年六歳になりし娘ありし。かの娘二、三歳の時より筆取りてものを書くこと成人のもののごとく、父母の寵愛おほかたならず。いつしか船宿を終ひて両国辺へ引越しけるが、いよいよかの娘の手跡人も称賛せしところ、文化三年流行の疱瘡を患ひもつてのほか重く、父母昼夜心も心ならず介抱看病なしけるが、その甲斐なくみまかりしとかや。母の嘆きいはん方なく、狂気のごとく色々のこと口説き嘆きしに、かの娘答へて、「案じ給ふな。神田へ参り候ひてまた逢ひ申すべし。」と言へるを、母はうつつ心に、「その言葉を違へな。」とかこちけるが、さてしもあらねば亡骸を野辺送りなどして、ただひれ伏して嘆き暮らしける。神田の知る人どもも立ち代はり尋ねけるに、あるが中にかの娘と同年くらゐの子を持ちたるものありしが、かの娘のとかく「両国へ参りたし。」と申すゆゑ、召しつれて右の船宿方へ尋ねしに、右の娘「何ぶん宿へは帰るまじ。このところにさし置き給へ。」と言ふゆゑ、「いかなることよ。」と尋ねしに、不思議なるかな、今まで筆取りしこともなきかの娘、物書くこと死に失せにし娘にいささか違はざりければ、いづれも不思議のことと驚き、神田なる親は、「召し連れ帰らん。」と言へど、かの娘「我はここもとの娘なり。帰ることはいたすまじき。」とて、いかに言へども合点せざるゆゑ、よんどころなく両国に差し置き実親は帰りしと、もっぱら巷説ありと人の語りぬ。

根岸鎮衛耳嚢』巻七「恩愛奇怪の事」より

根岸鎮衛耳嚢』は、めちゃくちゃ面白い本です。江戸町奉行であった根岸鎮衛が「巷説」(ちまたのうわさ話)を聞き集めた本。職業がらさまざまな奇談が聞ける上、それらを無節操と言っていいほど多岐に渡って収めたため、例のない奇書になりました。タイトルだけ眺めても「放屁にて闘諍に及びし事」「びいどろ茶碗の割れを継ぐ奇法の事」「猫ものをいふ事」という感じで楽しくてたまりません。

今回引用したのは、輪廻転生の話です。大意を書いておきます。

 ある一家が神田に住んでいた。そこに子供の頃から字の上手な娘がいた。しばらしくして一家は両国へ引っ越したが、娘は天然痘にかかって死んでしまった。死にぎわに娘は母親に「私は神田へ行って、またお会いします」と言って死んだ。葬式をすませた頃、神田で不思議なことが起きていた。一家が神田にいた頃の知り合いの家に、死んだ娘と同い年ぐらいの娘がいたのだが、この娘が急に「両国へ行きたい」と言い出したのだ。つれてきてみると、今まで筆を取ったこともなかった娘が死んだ娘そっくりの字を書きはじめ、さらに「私は、この両国の家の娘です。もう戻りません」と言う。両親の説得も聞かず、結局、神田の娘は両国の家に残ることになった。

えーと、「輪廻転生の話です」と書いておいてなんですが、これは正確には生まれ変わりの話ではないですね。正しくは「同年くらゐの子」の肉体を「乗っとる話」でした。表題は「恩愛奇怪の事」ですから、根岸鎮衛としてはこの話に親子の愛情を見たのかもしれませんが、よく考えると、乗っとられたほうとしてはかなり迷惑です。ともかく、この話は生まれ変わりの話に特有の要素をいくつかももっています。前世記憶をもつこと、死ぬ直前に転生を予言すること、ふつうでない死に方をすること、前世の人格の特徴を示すことなどです。

輪廻、転生、流転、輪転、samsara、reincarnation。まあ、言葉はいろいろありますが。ヒンドゥー教や仏教で語られる概念ですが、実は日本での報告はけっこう珍しいようです。

チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマは、生まれ変わりによって引き継がれます。先代ダライ・ラマが死ぬと、直後に生まれた幼児から、先代の生まれ変わりを探します。その選考過程は、「http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/hh_reincarnation.html」が詳しいのですが、先代のミイラの顔が生まれ変わりの少年のいる東を向いたとか、少年が先代の愛用した道具を次々に当てたなどの事例が書かれています。ミイラもなかなか大変ですね。ですが、こういう遠回しな予言や確認行為は、生まれ変わりの人間を「本物」と認めるためには不可欠な儀式なのでしょう。

しかし、この、ダライ・ラマになった少年の気持ちというのはもっと注目されてもいいような気がします。平凡な日常を送っているあなたは、実は世界の根幹にかかわる重要人物でした!というのは典型的なオタク好みのストーリーだと思うんですがねえ。日本人の宗教アレルギーのせいかでしょう? それとも「ダライ・ラマ14世捜索隊」の面々が美少女でないのがまずいのかもしれません。

最近では、退行催眠などを用いて、「前世記憶」を思い出すことで、生まれ変わりの人々がたくさん発見されているようです。この前世記憶というやつは、「あなたは、いつの時代の人間ですか?」と聞かれて、「私は、紀元前〜年の人間です」と答えちゃったりする、ちょっとお茶目な一面ももっているそうです。

http://www.sol.dti.ne.jp/~sam/realaim/NO3_1.html」には、生まれ変わりではないものの、臨死体験の例が掲載されています。手術中に心臓停止した患者が、シーツの色など手術室の光景を子細に語った話が載っています。なんと「麻酔医が左右別々の靴下を履いていた」ことまで報告したそうで、ちょっと偶然とは思えない詳しさです。何より驚かされるのは、この患者に生まれつき視力がなかったことです! なんで生まれつき視力がない患者に「色」の報告ができるのか、私にはよく分からないのですが、ともかく、死後生存の事例というのは、けっこう豊富なようです。

もう一つすごい例があります。宗教団体アレフのサイトなんですが、「すべての魂の輪廻からの脱却 - Aleph(アレフ)金沢道場」というページです。インドのシミという3歳の女の子が、ある日、自分は「モハンダラ・シン」という運転手をしている男性の妻であると言い出し、実際、前世に住んでいたという家につくと近所の人たちの名前をすべて当てたそうです。これはすごいですね。「モハンダラ」なんて検索しても1件しか出てこないですし、たぶんレアな名前なんでしょう。石を投げれば金(キム)さんに当たると言われる韓国ならまだしも、この偶然はちょっとなさそうです。

しかし、私にはこの「モハンダラ・シン」さんの気持ちが気になるところです。ある日突然、3歳の幼女に押しかけられて「あなたの妻です」とか言われるんですよ。これが妙齢の美少女(今日はこればっかですね)であれば、まさにオタク漫画の世界なわけですが、しかし現実にこんなのが自宅にやってきたら、そうとうウザいと思います。

私は、今の自分が死後に生まれ変わる分にはなんの不安も躊躇もありません。しかし、自分の周囲の人間が生まれ変わって、ある日自分のところにやって来るという事態になったら、あるいは、ある日突然やってきた人々に「あなたはホニャララの生まれ変わりです」と言われるという事態になったら、これはそうとう困惑しそうです。

生まれ変わったらどうするかという話は、つまるところ、今の生をどう生きるかという話でしょう。であれば、今の生について考える一つの口火として、生まれ変わられたらどうするか、という視点があってもよさそうです。生まれ変わりがあるかないかなどというどうでもいい問題より、生まれ変わりを受容する人々の心理のほうがはるかに面白いと思います。自分の子供がダライ・ラマかもしれないと知らされたお母さんの心情を想像するのは、大変スリリングではないでしょうか。