みどりの守り神、雲は行き水は流れる、めぐる惑星

人類が絶滅したあと、街はどうなると思いますか? 自然に「還る」のでしょうか? それとも、自然に「破壊される」のでしょうか? 今日は、日本と西欧の自然観を比較し、「自然」という言葉の意味の変遷を見ることで、ヒトのいない世界の姿について考えます。

 日本人は自然保護の思想が貧困だといわれる。なぜそうなのかを少し考えてみたい。一言にしていえば、日本の自然が豊かすぎるからである。清い水と豊かな緑に覆われた自然の中で育った日本人には、それを保護しようなどという考えが生まれようもなかった。どんな災厄からも立ち直る不死鳥のような自然、それはちっぽけな人間の力をはるかに超越した不動の存在で、人間を守りこそすれ、人間に守られるものではありえなかった。
 大野晋氏によると、大和言葉には、『自然』に該当する言葉は見当らないという。現在われわれが使っている自然という言葉は、ネイチャーの訳語である。親鸞の末燈抄に、「自然といふは、もとよりしからしむといふことばなり」とあるように、自ずから然り、つまり、あるがままにあるものとして自然は認識されてきた。人々は自然との一体感の中で、四時のうつろいに身をゆだね、もののあわれを感じとり、いのちのはかなさに思いをいたした。
河合雅雄子どもと自然』より

藤子・F・不二雄に「みどりの守り神」という作品があります。飛行機事故から目が覚めた少女みどりは、細菌兵器により人間が死に絶えた世界を見る。それは、植物に覆われた都市だった――という話です。また「風の谷のナウシカ」では、文明がゆるやかに衰退し、世界は腐海に飲まれていくのでした。「天空の城ラピュタ」でも、ラピュタの中枢に樹木の根が繁茂する描写がありました。「ファイナルファンタジー7」のエンディングムービーでは、ゲームから数百年後のシーンが描かれ、そこでは機械文明の象徴であったかのような魔晄都市ミッドガルが緑につつまれていました。どうも例が古いですな……。

このような、人間が死に耐えたあと文明が「自然に戻る」という描写からは、日本人の自然観を読みとることができます。

日本人にとっては、自然は「あるがままにあるもの」です。世界というキャンパスから人類という絵の具が消えると、下から緑色が出てくるような感じです。地の色が緑なのです。そういう空気のようなものは、発見したり名前をつけたりすることは難しい。例えば塩素の気体などは黄緑色ですから、酸素や窒素に色がついていてもおかしくはありませんが、空気は透明です。それは空気に包まれて生きる人間がそういうふうに進化したからです。同じように、自然につつまれた日本人には「自然」が見えず、したがって名前をつけることもしませんでした。

キリスト教の文化圏では、自然と人間は対立するものです。旧約聖書『創世記』によれば、神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(1:26)と仰せになったわけですから、人間は特別な存在であり、人間が自然を支配するという発想は当然です。一方、輪廻によって他の動物に生まれ変わる仏教的価値観の我が国から見ると、どうもこの神サマの発言はセコイ感じがいたします。人間なんて自然の一部に過ぎないじゃん。ヒトごときにとらわれんなよって感じです。

無人島」という言葉があるのは「人」が特別だからです。「無熊島」という言葉がないのは、動物たちの中でクマだけを特別扱いする必要がないからです。これと同じ理屈で、日本人的自然観の中では、「人間以外の存在」にわざわざ「自然」という言葉をあてるのは、「クマ以外の存在」にわざわざ言葉をあてるのと同じぐらい変です。なぜなら、人間とクマは輪廻の中で同等だからです。ネコだろうが、クマーだろうが、モナーだろうが、みんな仲間だというこの国が私は大好きです。

もともと、日本人にとって「自然」という語は、森とか動物とかのことではなく、引用文にあるように「自然(じねん)」のことでした。親鸞の言葉をさらに引いておくと、「「自然(じねん)」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。」

ここで、「自然(じねん)」と対立しているのは、「行者のはからひ」です。つまり、「自然(じねん)」とは、無為自然の境地の中で雲が行き水が流るるが如くあることで、意図的に何かを行うのではない、という意味の言葉です。この語義を人間の行為に限定して、狭く解釈すれば、今我々がふつうに使っている「自然」「人工」の二項対立となります。

今使われている「自然」という語は、明治時代につくられた訳語です。訳者は西周にしあまね。ちなみに、彼は他にも 「演繹」「科学」「概念」「感覚」「観念」「帰納」「技術」「客観」「芸術」「現象」「悟性」「肯定」「主観」「総合」「対象」「知覚」「知性」「哲学」「認識」「否定」「分解」「本能」「命題」「理性」などをつくったそうです。うおおっ、なんか頭よさそうな言葉たちですねっ。今の日本人の脳ミソの5%ぐらいは西周でできているんじゃないでしょうか。

日本人にとっての「自然」の元々の意味は、別に人間の話に限らず、わざわざ何かをしなければただそこにあるもの、ということでした。すなわち、世界はそもそも「自然」に塗り潰されており、その上に人間がいるわけです。したがって、世界が滅び、人間が世界への介入をやめれば、畢竟、都市は森に沈み、そこには自然が残ることになります。これが、先に述べた日本人にとっての人類絶滅後の世界です。

一方、ヨーロッパ的な感覚では、人間がいなくなった世界というのは、世界を支えていた二項対立の、重要なる半分を失った世界です。ですから、そのとき、もう半分たる「自然」は、抑えられていた力を横溢させるはずです。

奇書『アフターマン』は、人類が絶滅した5000万年後の地球を支配する動物達を描くという、まさに今の話そのものの本です。画像は、例えば、http://www.vanguardfilms.com/afterman/で見ることができます。見ていただければ分かりますが、そこにあるのはまったく異形の動物たちです。

風の谷のナウシカ』の蟲たちも十分不気味でしたが、王蟲には気高さがあり、腐海の最深部には清浄さがありました。ちなみに、ナウシカが物語の最後になした選択は、日本人の自然観を強く反映していることに気づきます。

しかし、ナウシカに比べて、『アフターマン』の動物たちは、放縦な「動物らしさ」が猛っているような印象があります。なんか、たった一つの例で、しかも私自身の印象が根拠というのもアレですが、ともかく、彼我の自然観の差がここにあるような気がするわけです。ぶっちゃけ、キリスト教圏の人って、自然がこわいんでしょうねえ。

ところで、我々が還るべき地である「自然」が今後も緑色かどうかは分かりません。国際協力機構によれば、森林は全地表の30%であるとされますが、一方で、UNEPの2006年の資料(PDF)によると、乾燥地帯は全地表の41%に達しました。なお、日本の森林面積の割合は、農林水産省によれば、67%です。

人類が変な伝染病かなんかで一発で滅んでも、住人の消えた街々に、雨がふり、木々が芽吹き、鳥が歌うならば、それはそれで何かがめぐっているという感じがして、ヒトも報われそうな感じがします。そういう星にしたいものです。