サブリミナル・マインド、ぼくたちの洗脳社会、西の魔女が死んだ

人間は何かを選ぶとき、以前に見たものを選択する傾向があるそうです。たとえ、それを見たという意識がなかったとしてもです! その傾向は、情報が均質化するウェブの中で加速されるのではないでしょうか。今日は、インターネットがつくり出す洗脳社会について考えます。

「でも、わたしの問題もやっぱりあると思う。」
 まいはけなげにも言い切った。
「わたし、やっぱりよわかったと思う。一匹オオカミで突っ張る強さを養うか、群れで生きる楽さを選ぶか……。」
「その時々で決めたらどうですか。自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、ハスの花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」
 これは説得力があった。でも、まいも負けてはいなかった。もうまいはほとんどおばあちゃんに遠慮することはなくなっていた。
「おばあちゃんはいつもわたしに自分で決めろって言うけれど、わたし、なんだかいつもおばあちゃんの思う方向にうまく誘導されているような気がする。」
 おばあちゃんは目を丸くしてあらぬ方向を見つめ、とぼけた顔をした。

梨木香歩西の魔女が死んだ』より

梨木香歩の名作「西の魔女が死んだ」からの引用です。中学校の人間関係に傷ついた「まい」は、実家をはなれ、おばあちゃんの家で「魔女修行」をすることになります。その修行とは、「なんでも自分で決める」ということでした。しかし、「まい」は、自分の決定がおばあちゃんに「誘導されているような気がする」と主張しています。

はてさて、自分の選択が他人によってコントロールされる、それも自分ではそれと気づかないうちに、などということは可能なのでしょうか。

このテの話で、まず思いつくのは、サブリミナル効果です。おそらく最も有名な、映画の途中に「コカコーラを飲め」というサブリミナルメッセージを挿入したら売上が伸びた、という事例はガセっぽいわけですが、実験室という統制された環境であれば、サブリミナル効果と言っていいものは、いくつか確認されています。

そのうち、インパクトのあるものを、下條信輔サブリミナル・マインド』から、紹介しましょう。

『サイエンス』に掲載された、クンスト−ウィルソンとザイオンスの実験は次のようなものです。ランダムな図形を1ミリ秒(1000分の1秒)だけ見せたあと、別の図形とペアにして、まず「さきほど見たのはどちらか?」と被験者に聞きます。この質問の正解率は50%。ランダムに答えのと同じ成績でした。すなわち、被験者は、自分が見た図形を、意識の上では知覚できていない、ということになります。

次に、被験者に、「どちらの図形が好きか?」と尋ねます。すると、驚くべきことに、さきほど一瞬だけ見た図形のほうが好きだ、と答える人のほうが多いのです。誤解を恐れずに言えば「洗脳」されたわけです。

ここで、面白いことに「さきほど見たのはどちらか?」という質問に対する答えに「非常に自信がある」と答えた人、すなわち、「この図形を過去に見た記憶が確かにある」と思っている人でも、その図形を本当に見ていたかどうかの正解率はほぼ50%だったそうです。1ミリ秒というのは、閾下しきいか(限界以下)の刺激ですから、知覚しようがないのです。

ということはですね、人はときとして「かつて自分は間違いなくこれを見た!」ということを確信します(いわゆるデジャヴというやつです)が、その確信はさっぱりアテにならない、ということです。下條信輔は、「(デジャヴ現象を)必要以上に神秘的なニュアンスで論じるのは馬鹿らしくなります」と語っています。

さて、その後、マンドラーらがこの実験の追試を行い、さらに驚異的な結果を出しています。マンドラーは、「どちらが好きか?」という質問のかわりに、「どちらの図形が明るいか?」と尋ねました。すると、まあ、予想できることですが、やはり一瞬だけ見せられた図形のほうが「明るい」と答える人が多いわけです。

ところがですよ。この実験に使われた図形には、そもそも明るさに差などなかったのです。いや、それよりも信じがたいのは、さらに質問を変えて「どちらの図形が暗いか?」と聞いても、やはり一瞬だけ見せられた図形を選ぶ人が多かったということです! 「てめえの目はどんぐりか?」っつう感じですね。なんだこれは。

どうやら、我々は、見たことを意識しているかどうかに関わらず、以前に見たものを「選んでしまう」ようです。

となると、選挙において候補者が名前をひたすら連呼していることの謎も解けます。私を含め多くの人は、「ったく、うるさいな。あんなもの効果なんてない。実際、自分は投票場にいったとき、名前を連呼していた候補者のことなんて覚えてないよ。」と苦々しく思っていることと思いますが、それで全然よかったのです。意識から消えていようが関係なく、我々はその候補者に投票してしまうのです! これを単純提示効果と言います。

ニスベットとウィルソンは興味深い指摘を行っています。単純提示効果により自分の選択をコントロールされた被験者に、「あなたはなぜそれを選んだのですか?」と尋ねると、多くの被験者は、自分がその選択を行った「理由」を説明するのだそうです。研究者たちが、「いや、あなたは単純提示効果によってその選択をしたのですよ」と指摘しても、被験者は「一般的にはそういうこともあるだろうが、自分は違う」と言い張るのだとか。

「自分だけは違う!」 ……恐ろしい言葉ですな。

もっとも、私は、ここからただちに、サブリミナルによって人間を意のままにあやつれる!などと言い出すつもりはありません。現実世界における選択は、さまざまな要素が関係してくるので、実験室のようにはいきません。

しかし、「たくさん見たものを選んでしまう」という性質が人間にあるのだという事実は、頭にとめておく必要があるのではないでしょうか。特にネットを使う我々は。

岡田斗司夫は『ぼくたちの洗脳社会』の中で、高度情報化社会は「自由洗脳競争社会」であると述べました。「アフィリエイト」などという言葉もなかった1995年の指摘です。なお、『ぼくたちの洗脳社会』はフリーで公開されています。必読です。

しかし、ここで、「はて? 洗脳というのは与える情報を制限するのではないか? 情報量が増えれば、対象をさまざまに比較・検討することができるのだから、より正しい判断ができるようになるのではないか? したがって『高度情報化』は『洗脳』の対極にあるのではないか?」 そんな疑問が湧いてきます。

ところが、ネットが発達することは、ただちに我々自身の情報量が増えることにはつながりません。ピーター・モービルアンビエント・ファインダビリティ』に、ムーアズの法則という面白い法則がが紹介されています。有名なムーアの法則とはあんまり関係ないです。

ムーアズの法則をぶっちゃけて言うと、「情報を手に入れることで面倒な思いをするとき、我々は検索システムを利用しない」というものです。「情報を手に入れる過程」が面倒なのではなく、「情報を知ることそのもの」が面倒なとき、というのがこの法則のポイントです。

ムーアズによれば、情報は、まず読まれ、そして理解されねばなりません。さらに、情報を知ることで、自分の行動を変えなければならなくなるかもしれません。これらは、実に面倒くさいことです。そこで人々は、面倒な情報や不快な情報を無視するようになります。

その結果、ネット上には、どこかで見たような、当たりさわりのない情報があふれていくことになります。

アンビエント・ファインダビリティ』には、ニューヨーク市の「割れ窓理論」が例としてあげられています。ある窓が壊れているのを放置すれば他の窓も壊されてしまう、すなわち、小さな犯罪を放置することなく厳しく取り締まることで、大きな犯罪抑止効果がある、というやつです。

ティーブン・レビットは、ニューヨーク市の犯罪は「割れ窓理論」が実行される以前から減少傾向だったこと、また犯罪の減少はニューヨークだけでなく他の都市でも生じていたこと、などの事実を指摘し、「割れ窓理論」と犯罪減少は関係がない、と主張します。そのかわり、レビットが犯罪減少の理由として挙げたのは、人工妊娠中絶です。1970年代に中絶が合法化されたため、望まれない子供の数が減り、若者の犯罪を減らすことになった、というのです。

これは、まったくもって「望まれない情報」です。言うまでもありませんが、アメリカという国には、宗教上の理由で人工妊娠中絶には強い嫌悪感があるわけです。したがって、新聞などでこの説が紹介されることは当然ありません。ネットでも、"Fixing Broken Windows"(割れ窓理論)の検索結果43,400件に対して、これに"Levitt"(レビット)を加えた検索結果は、311件しかありません。もっとも、Wikipediaがこの311件に入っているのはさすがです。

ところで、日本だと、どういう情報が「望まれない情報」でしょうかね。赤ちゃんに対する殺人事件の犯人の9割は母親とかでしょうか。私が以前に調べた過去50年の衆院選で1票差で当落が決まった例はないなんていうのも、きっと「国民主権」を国是とするこの社会に望まれない情報なんだろうなあという気がします。

話を戻しますと、ネットに多様な情報なんかありません。あったとしても関係ないです。ムーアズの法則によれば、我々は、多様な情報を比較するために検索エンジンを使うなんて面倒なことはしないのです。たとえ使っても、Googleの検索結果の上位のサイトをいくつか開いてみるぐらいではないですか。

こうして、ネットには、なまぬるい情報のコピペが氾濫することになり、情報は均質化していきます。そして、それこそが、洗脳にとっては絶好の環境なのです。

「人間は奴隷でなければならない。ただ人間にとって選択せねばならないのは、誰の奴隷であるかということである。」とはトルストイの言葉です。まったく、もっともですね。所詮、我々は、何かの奴隷であり続けるのでしょう。そして、「自分だけは違う!」と叫ぶのです。その快楽のぬるま湯から、何を好きこのんで飛びだす必要があるのか。

とはいえ、「わたし、やっぱりよわかったと思う。」と言い切る「まい」を見ていると、もうちょっと「自分で決める」ことができるように、がんばりたいなあと、私は思います。「西の魔女」は、いつか死ぬのですから。