落としものは何ですか、自分の世界の境界線、心を捨てないで

日本で1年間に落とされるお金は何円? 江戸時代、ある屋敷の屋根の上に突然落ちてきた意外なモノとは? あなたには、忘れていた「落としもの」はありますか? 今日は、「落としもの」のあれこれについて考えます。

 信雄はおとなたちの膝元をかきわけ、必死で走った。何人かの足を踏み、ときどき怒声を浴びて突き飛ばされたりした。境内の手前にある風鈴屋の前でやっと喜一に追いついた。赤や青の短冊が一斉に震え始め、それと一緒に、何やら胸の底に突き立ってくるような冷たい風鈴の音に包み込まれた。
 信雄は喜一の肩をつかんだ。喜一は泣いていた。泣きながら何かわめいた。「えっ、なに? どないしたん?」よく聞きとれなかったので、信雄は喜一の口元に耳を寄せた。「お金、あらへん。お金、落とした。」
 風鈴屋の屋台からこぼれ散るおびただしい短冊の影が、喜一のゆがんだ顔に映っていた。

宮本輝泥の河』より

今回の引用は宮本輝の『泥の河』。喜一が、信雄の父親からもらった二人分の小づかいを祭りの最中に落としてしまう場面です。この引用部分は、登場人物の心情と連動した情景描写が非常に巧みで、入試でもよく出題されています。

「落としもの」と言えば、「スタンダード 反社会学講座」に面白い話が紹介されていました。なんでも、日本全国で1年間に409億円ものお金が落とされている、というのです。これを人が行き来できる土地の面積で割り算すると、東京ドームの広さの土地におよそ4万円のお金が落ちていることになるとか。さらに、そのうち3分の2以上にあたる277億円はネコババされちゃってるそうです。なんというか、人間というものの本性を考える上で、非常に参考になるデータですな。生きる勇気が湧いてきます。

「どうだい、世の中には、うまい話があるじゃないか。」と、実に「反社会学講座」らしい書きぶりでありますが、もちろん言わずもがな、落としものをネコババするのは犯罪になります。

遺失物法第4条によれば、「拾得者は、速やかに、拾得をした物件を遺失者に返還し、又は警察署長に提出しなければならない。」とあり、刑法254条には「遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者は、1年以下の懲役又は10万円以下の罰金若しくは科料に処する。」とあります。懲役1年とはまた厳しいですね。刑法177条の強姦罪は懲役3年ですから、この国の女性の魂には落ちてる財布3個分の価値しか認められていないようです。

それにしても、人間という生き物は、ずいぶんたくさんのものを落として生きているようです。

2004年の1年間に全国の警察に届けられた落としものの数は1000万点を超えていたそうです。1位は言うまでもなくカサですが、お財布も多いです。鳥取大学のサイトによると、落とし物のお財布は、よくトイレの中とかで泣いているそうなので、鳥取大学の学生さんたちは速やかに届け出をお願いします。

変な落としものにまつわる話も枚挙にいとまがありません。愛媛県の例ですと、次のようなものがあったそうです。「太鼓」「フクロウ」「塔婆とうば」「石仏」「車椅子(乗ってた人が心配です)」「羊(メリーさん? メリーさんなの!?)」「伝書鳩(いや、それ落ちてないよ! きっと道に迷っただけだよ!)」。

私が最も興味をそそられた「落としもの」の話は、大田南畝なんぼの『半日閑話』に出てくる「屋根に溺死人落つ」です。ある日、屋根の上に突然、溺死体が落ちてくるという話。なんか似たような設定の小説を読んだ記憶があるのですが、思い出せません。

まあ、こんな変なモノは普通「落としもの」とは言いませんよねえ。でも、「落ちてきたもの」には違いない。では、なんで「落としもの」ではないかというと、それは、「人間」が落としたものではないからでしょうね。

中国の儒家書『説苑ぜいえん』にこんな話が出てきます。楚の共王が狩りに出て弓を落としてしまいました。家来たちは、だれかが拾ってしまう前に探しにいくことを王に勧めますが、共王は断ります。なぜなら、「楚の人が弓を忘れ、楚の人がそれを拾うのである。なぜ探す必要があろうか」というのですね。さすが王様です。格好いいじゃありませんか。

ところが、この話には続きがありました。孔子がこれを聞いて言うのです。「いやいや、楚の共王も小さいねえ。人が弓を忘れて、人がそれを拾う、と言うべきところだ。なんで楚の人に限る必要があるかね?」 むむ、やるな孔子。伊達にドナドナ言ってませんね(言ってません)。

ブログ「まなざしの快楽」に、「落とし物」について面白い指摘があります。「落とし物を交番に届けるのは、それが誰かのものとわかっているからだ。森の果実をもぎって、交番に届けない。誰のものでもないからだ。「誰か」のものであるというときに、そこに負債感が生じるのである。それが「内部(コミュニティ)」の出来事だからだ。

楚の共王と孔子の対立は、「内部(コミュニティ)」とはどこか? という問題なのでした。これはこれで考えさせる問題です。

ともあれ、「落としもの」は拾われなければなりません。「落としもの」を拾うことで、拾った人は「自分」の世界の境界線をなぞることができるからです。

谷川俊太郎『二十億光年の孤独』に「かなしみ」という詩があります。

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた

……そう、人は、たくさんのものを落として生きています。忘れられた、たくさんの「おとし物」たちは、まだ、私のことを待ってくれているのでしょうか。

ふと気づけば、「あの青い空の波の音が聞こえるあたり」から、ずいぶん遠くへ来てしまったようです。自分の輪郭がぼやけていくこんな日は、昔の「落としもの」を探しにいくのもいいのかもしれません。たとえ、すべてが戻ることはないのだとしても。

最後に、2ch「あの……落としものですよ?のガイドライン 2 」の204を引用させていただきます。

あの……落としものですよ?

         .∧__,,∧ 
        (´・ω・`) 
         (つ夢と) 
         `u―u´ 

  あなたのすぐ後ろに落ちていましたよ?
たとえあなたの夢が叶わなかったとしても…
叶えようとしたあなたの心を捨てないで下さいね…