なぜ大切なものは見えないか、脳がつくる世界、全部の星に花が咲く

「大切なものは目に見えない」というのはよく聞く言葉ですが、なんだか分かったような分からぬような言葉です。今日は、人間の脳の機能から切り込むことで、どうして大切なものが目に見えないのかについて考えます。

 では、「見えないもの」が、しばしば、「高級なもの」であるのは、どうしてか。抽象的な概念は、すべて「目に見えない」。それは、そうした概念が、耳に聞こえず、鼻に臭わず、手に触れないことと、同じことである。なにもそこで、目だけを特別扱いすることはない。そうした概念は、脳の中では、目や耳や鼻といった、もろもろの感覚器に直接関与する部分ではなく、連合野と呼ばれる、それ以外の部分に位置するからこそ、われわれはそれを、「目に見えない」というのである。もちろん、それなら、「聞こえない」し、「臭わない」し、「触らない」と言ってもいい。なぜ、そう言わないか。
 そこでは、人の特質が関係するであろう。それは、目がきわめてよく発達している、ということである。

養老孟司脳に映る現代』より

つうことで「大切なことは目に見えない」です。この言葉は、もう『星の王子さま』のものだ、ということでいいんじゃないかと思いますが、どうでしょうか。ちなみに、私が最も好きな山崎庸一郎訳『小さな王子さま』だと、この言葉は次のように登場します。

「重要なものは目には見えないんだ……」
「そうだね」
「花だっておなじなんだ。もしあなたがある星のある花を愛したなら、夜、星空をながめるのが楽しくなるよ。全部の星に花が咲くんだ」

さて、「大切なことは目に見えない」。こういう漠然とした話を理解するためには、具体例を考えるのが何よりです。例えば、「夢」はどうか? 「抱負」とか「目標」の意味の夢ですよ。夢は見るもののはず。ならば、「夢」は大切じゃないと、君はそう言うのかね、えっ?

いや、確かに「夢を見る」とは言いますけど、実際に肉眼でもって「夢を見た」人はいませんな。この「見る」という言葉は、文字通り、肉眼を使った「見る」なわけです。

しかし、そうなると、いろいろ疑問が湧いてきます。例えば、「家族」は大切ですよね。ならば、家族は見えないのでしょうか? ここで、そういえば、最近、オヤジの姿が見えないなあ、などと思った人は、さっさと警察に行くことをお薦めします。それは、事件です。

いや、オマエ、それは違うだろ。家族ってのはさ、別に身体だけあってもしょーがないわけじゃん。なんていうかなあ、心のふれあいっていうか、ほら、こう、愛だよ! 愛! という反論が当然出てくると思います。すなわち、「大切なもの」というのが物であるかないか、などはどうでもよく、それにまつわる人々の思いが重要だ、というわけです。

ならば、「お金」は大切でしょうか? 確かに大切ですが、この「大切なものは目に見えない」という言葉のいうところの「大切なもの」とは、少し違うような気がしますね。しかし、お金だって、単に「物」というだけで価値があるわけではありません。

例えば、明日地球が終わるとき、お金に価値はあるでしょうか? ビル・ゲイツが全財産をはたいて地球脱出用ロケットを買おうとしても、たぶん売ってくれる人はいないでしょう。「馬をくれ、馬を! かわりにこの国をくれてやるぞ!」と叫んだリチャード三世のように。つまり、お金というのは、世界は永遠に続くはずだ、という人々の信頼が担保になって、その価値を保っているのです。

つうわけで、この言葉の意味がだんだん分からなくなってきました。ここらで、養老孟司に助けをあおぐことにしましょう。

養老孟司は、「抽象的なもの」が「目に見えない」と表現されるのは、まず人間が特に目を発達させているだけで、特別な意味はないと指摘します。抽象的な概念は、「もろもろの感覚器に直接関与する部分ではなく、連合野と呼ばれる、それ以外の部分に位置する」とのことです。

なるほど、確かに「大切なことは目に見えない」というときは、その「大切なこと」には音も匂いも手ざわりもないようです。「大切なことは目に見えない。だから、味わえ! 『夢』は舌の上でまったりと花開きそれでいてピチピチと……」などと議論が展開するのを、私は見たことはありません。養老孟司は、そのような、感覚器で感じとれない概念は、脳の中では「連合野」という場所で処理される、と指摘しています。

はて、「連合野」というのは何でしょう?

ここらで、脳の基本構造について、ざっくり復習しておきます。脳は三層構造になっています。脳の最下部には、本能をつかさどる脳幹と大脳基底核(ワニの脳)。そのまわりに、感情をつかさどる大脳辺縁系(ウマの脳)。最も外側に、記憶・判断・意志をつかさどる大脳新皮質(ヒトの脳)があります。

連合野」は、この最後の大脳新皮質の中にあります。特に前頭葉の中にある前頭連合野は、自我と意識の主座、人間を人間たらしめる立て役者、創造性など高度な精神活動をつかさどる最重要な部位です。つまり、「ヒトの脳」、ひいてはヒトを特徴づける場所であると言っていいでしょう。

というわけで「大切なことは目に見えない」というのは、「大切なことは、前頭連合野で処理される」と言い換えても、よさそうです。さーあ、「あるある大辞典」みたいな、うさんくさい話になってまいりました!

というわけで、まとめてみますと、「見えない」ものを処理するためには、かなり発達した脳が必要であり、それはヒトの脳をして初めて可能であった、ということです。であれば、「大切なことは目に見えない」のはなぜか? それは、「目に見えない」ものが最も「人間らしい」ものだからだ、と言えるかもしれません。

さて、この怪しさ満点のヨタ話を川島教授の「脳トレ」レベルぐらいにはヴァージョンアップさせるために、もう一人、援軍を呼びましょう。池谷裕二進化しすぎた脳』です。

この本にめちゃくちゃ面白い例題が載っていますので、臆面もなく丸パクリさせていただきます。まず次の単語のリストをながめて、何があるか簡単に憶えておいてください。

「苦い 砂糖 クッキー 食べる おいしい 心 タルト チョコレート パイ 味 マーマレード 甘ずっぱい ヌガー イチゴ 蜂蜜 プリン」

さて、今、前頭連合野が大事なんじゃね? という話をしていたわけですが、では、この前頭連合野はどんな働きをしているのでしょうか。それを理解するためには、逆に、前頭連合野が事故などで破壊されたらどうなるかを考えればよいでしょう。

ンなもん死ぬでしょ、と思うところですが、奇跡的に生きていた人がいます。フィネアス・ゲージ。1848年、太さ3cmの鉄の棒が頭蓋骨を貫通したにもかかわらず、生存したアメリカ人がいたのです。

東京都神経科学総合研究所のサイトに写真つきで紹介されています。こんなもん貫通して、よう生きとったな君は、という感じの鉄の棒の写真も圧巻ですが、なにより興味深いのは、この事故により前頭連合野を破壊されたゲージの変化です。彼は、記憶が無事だったにもかかわらず、性格が激変してしまったのです。

事故にあう前のゲージは、周囲から尊敬される人間でしたが、前頭連合野を破壊されたゲージは、粗野で下品な男に変貌していました。無礼になり計画性がなくなり、まるで動物のようになってしまったのです。

このような、前頭連合野の破壊によって起きる症状を「前頭葉症状」と呼びます。「ヒトの前頭連合野の病床に伴う症状」を解説したサイトを見ていると、「人間らしさとは何か?」について、ヒントが得られるような気がします。

前頭連合野は、人間の「個性や性格、心や意識」を生む場所であると、多くの脳科学者に信じられているそうです。

さて、ここまでの議論では、「実際に感じたこと」と「それに対する脳の反応」を区別して考えてきました。

「実際に感じたこと」というのは「見えるもの」です。「それに対する脳の反応」は「見えないもの」です。大切なものは後者である、ということです。

このことについて、もう少しつっこんで考えてみます。

さきほど見ていただいた単語のリストを思い出してください。次のうち、どの単語があったか憶えていますか?

「堅い 味 甘い」

ぱっと見て、「甘い」と答えられると思います。私も同じ答えでしたので、ともかく読者全員そうなんだとみなして、話を進めます。

ここで、さくっと上のほうにスクロールしていただくと、実は単語のリストに「甘い」はなかったことが分かります。あったのは「味」です。ということは、我々はなかったはずの「甘い」という単語を「見た」ということになります。

これは脳の働きです。「はん化」といいます。脳は上記の単語リストに「甘いもの」という共通点を見つけて、一般化してしまったわけです。つまり、脳は世界をありのままに見ているわけでなく、自分なりに解釈したあとで見ている、ということになります。

こうなってくると、「見る」という言葉の意味が分からなくなってきます。

池谷裕二は指摘します。「世界を見るために目ができた」のではない。「目ができたから世界ができた」のだ。はて、どういうことでしょうか。

例えば、すべての色は赤・緑・青の三原色の組み合わせによって生み出されることは、よく知られています。そして、人間の網膜には、その赤・緑・青の三色に対応した色細胞があるのです。これは、驚くべき生命の神秘です。

ところが、池谷は、そんなことは当たり前である、と言います。人間の網膜にあるのが、赤・緑・青の三色に対応した色細胞であったからこそ、人間にとって光の三原色は赤・緑・青になったのだ。もし、人間が赤外線を見ることができたのなら、光は三原色ではなかったはずだ。

光は直進する、というのは小学校で習う常識です。しかし、もし、人間が可視光線としてラジオ波を使っていたら、どうか? ラジオ波は屈折しやすいから、建物の向こう側も見えてしまう。そうなれば、単純線形な物理法則は成り立たない。

我々が世界をどうとらえるかが、世界のありかたを決めている。世界は脳のなかでつくられる!

いやー、これはめちゃくちゃ面白い話です。しかし、だったら、「見る」ということは、どういうことなんでしょうか。我々が「見ている」世界というのは、脳の中でいったん再構成された世界なんですよねえ。我々は、何を「見ている」んでしょうか?

少し整理します。まず私は、「大切なものは目に見えない」というときの「見えないもの」とは、「感覚器から入ってきた情報を脳の中で処理したもの」というふうに理解しました。意志とか判断とか感情とかです。それを行う代表的な部位として前頭連合野を挙げました。

ところが、実は、我々には、「純粋な感覚」、すなわち、世界をあるがままに、ありのままに感じた「感覚」などというものはなかったのです。我々は、見たものを、とにかくすべて脳で再構成しているのです。

だとすれば、世界は、もともとすべて「見えないもの」である、ということになります!

となると、「大切なものは目に見えない」という言葉は、しごく当然の、単なる自明な命題であったわけです。別に証明する必要などありません。しかし、当たり前のことをわざわざ言うからには、何かしら意味があるはずです。

例えば、「人間は死すべきものである」というのは、当たり前です。しかし、この言葉をわざわざ言わなくてはならないということは、我々が「人間とは死すべきものである」ということを忘れてしまっているからでしょう。つまり、我々は「大切なものは目に見えない」ということを忘れてしまっている、ということです。

ここで、もう一度議論を整理します。我々は、自分の外に客観的な「世界」が存在していると信じています。そして、我々はその「世界」を「見る」ことによって、何事かを思考しているわけです。ところが、その我々の「見ている」世界というのは、実は既に変形され、色眼鏡によって歪められた世界であった、ということです。

そして、おそらく「大切なもの」であればあるほど、変形されるのでしょう。

なんで、「お金」は大切なものではないのでしょうか。それは、お金というものを認識するやり方やお金の価値というものの意味が、人によってあまり変わらないからです。「家族」はなぜ大切なのでしょうか。それは、家族というものを認識するやり方や家族の価値というものの意味が、人によって千差万別だからです。

ですから、この「大切なものは目に見えない」という言葉はこう解釈できます。大切なものほど、脳の主観によって解釈され、変形され、新しく創造される。すなわち、「見えない」ものとなっている。ところが、私たちは、それを忘れがちであり、自分が世界をありのままに、みんなと同じように見ていると錯覚してしまう。でも、それは誤りだ。そう、

大切なものは、目に見えない。

ここで、もう一度『小さな王子さま』の会話を引用します。

「重要なものは目には見えないんだ……」
「そうだね」
「花だっておなじなんだ。もしあなたがある星のある花を愛したなら、夜、星空をながめるのが楽しくなるよ。全部の星に花が咲くんだ」

王子さまは、「全部の星に花が咲くんだ」と言いました。「全部の星に花が咲いているような気持ちになる」と言ったのではありません。花は本当に咲くんです。

だって、あなたが花を愛したとき、全部の星に花が咲く世界が、あなたによってつくられるのですから。