旅とは何か、バスを一台乗り遅れること、見えない未来は美しい

えー、ふと「旅」について書かれた文章を探してみたところ、あるわあるわ、もの書きは、一生に一度は「旅とは何か」についての文章を書かねばならぬ、という決まりでもあるんでしょうか。というわけで、今日は、旅とは何かについて考えます。

 多くの人々に出会い、助けられながら、ぼくは二か月の旅を無事に終えることができた。終着点としていたサンフランシスコにたどり着いた日、特大のハンバーガーとコーラで、ぼくは自分自身に乾杯をした。心の筋肉というものがもしあるならば、そんなものをふつふつと体に感じていた。
 今振り返ってみると、十六歳という年齢は若過ぎたのかもしれない。毎日毎日をただ精一杯、五感を緊張させて生きていたのだから、さまざまなものをしっかりと見て、自分の中に吸収する余裕などなかったのかもしれない。しかしこれほど面白かった日々はない。一人だったことは、たくさんの人々との出会いを与え続けてくれた。その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を展開させた。それは実に不思議なことでもあった。バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。

星野道夫旅をする木』より

さて、今回のテーマは、旅とは何か、です。

日本人の旅行好きはよく知られています。平成17年の海外旅行者数は1700万人を超えています(観光白書)。また、Wikipediaによれば、修学旅行の制度があるのは日本だけだそうです。「日本における旅」についての概略を得るには、「旅研」の世界歴史事典データベースの「旅(日本)」の項がベストかと思いますが、このページによると、江戸時代の医師シーボルトは、日本は旅のしやすい国であると述べ、その理由として参勤交代の制度により街道が整備されていることを指摘しています。

上記「旅研」のページには、「近世の庶民の旅で最も盛んであったのは信仰の旅であった」とあります。Wikipediaには、日本の初期の鉄道は、伊勢への近鉄、高野山への南海、成田山への京成、高尾山への京王などというように、多くが社寺参拝のために作られたとの指摘があります。旅の本来の形とは「巡礼」であったのでしょう。

しかし、我々現代人にとっては、そのような意味での旅はありえぬものです。中野孝次は、鎌倉時代の僧、一遍上人について書いた文章の中で「われわれにはもうそういう聖なる境地はうかがい知る由もなく、従ってまた聖地もなく、できるのはただ旅に出て日常の我から離れ、『独むまれて独死す』の思いを新たに自分にいいきかせることだけである」と述べています。

では、現代の我々にとって、旅とは何か?

広辞苑によれば、「旅」とは「住む土地を離れて、一時他の土地に行くこと」です。ここには「住む土地」「他の土地」という対比があります。「日常」と「非日常」の対立が旅の本質であるというわけです。

池澤夏樹は「読書と旅は似ている」と指摘しています。どちらも、一時、別の自分になる行為だ、というわけです。宮脇俊三は、旅の意義とは「異質な風土、人情・風俗に接すること」であり、それによって「日本が広くなる」のだ、という表現を使っています。

それでは、「非日常」とはどういうことでしょうか?

それはつまるところ、予測不可能性、ということだと私は思います。冒頭に引用した星野道夫の文章が言う「バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っている」ということ。自分には測れぬ世界との出会い。それが旅の本質ではないか。

これは、現代の我々にとって特に意味のあることです。アルビン・トフラーは『第三の波』の中で、学校教育が行われる目的を次のように述べています。学校の目的は、決められた時間に、決められた場所で、決められた作業を黙々と行うこと、つまり、工場労働にたえうる人間を養成することだ、と。このような「管理された未来」が現代社会の特徴であるとすれば、未知なるものに出会う旅というのは、まさに現代人に最も必要とされる行為のはずです。

しかし、考えてみれば、人生とはもともと予測のつかぬものです。

亀井勝一郎は、「自分の未来というものは謎だ」「いわば道のないところに道を求めて歩いてゆくのが人生というものだ」、そして、その「求道ぐどう」の歩みが「旅」である、と言います。堀秀彦は、「私たちのこの人生にしたって、結局はいろいろな事件やいろいろな人との出会いの連続にほかならない」「だからもし私たちが旅に出ているときのような新鮮なこころのまなざしをもって、私たちの日常生活をいとなむとしたら、私たちはおそらくもっとゆたかな生活を送ることができるのかもしれない」と指摘します。沢木耕太郎は、旅においても人生においても、「もし予定通りに行かないことがあれば、その予定外の旅を楽しめばいい」と教えます。

その意味で、旅は人生の縮図です。

そうなると、初めにあった「日常」「非日常」という対立は消えてしまいます。すなわち、日常の中にも旅はある、ということです。吉行淳之介は、「近所の街角にある煙草屋に行くことも旅である。旅だとその人が思えば旅である」と述べています。

つまるところ、旅というのは、自分の人生に予測不可能なものが横たわっている、日常の中にも未知なるものがあふれている、ということを教えてくれるものなのでしょう。ついつい「世界とはこういうものだ」と決めつけてしまう我々に、旅は、別の可能性を示唆し、日常をひらいてくれるのです。

立松和平の随筆にこんな言葉があります。「未知とは美しさなのであった」。そう、見えない未来こそ美しい。

今回は、「旅」についてのさまざな引用を行いましたが、私が最も秀逸だと思う「旅」の定義は森本哲郎のそれです。いわく、「旅とは何かを見残してくることだ」。この世界には、まだ残っているものがある。自分の知らぬものがある。その可能性に気づける自分になること。日常そのものを変えてしまうこと。それが、旅だ。

というわけで、私もしばらく旅に出ることにします。一週間ほど、更新とコメントの返事をお休みする予定ですので、一つよろしくおねがいします。