策士・裸の王様、「女王様も裸だ!」、馬鹿には見えないもの

アンデルセンはだかの王様」には、いくつもの謎があります。なぜ王様は「馬鹿には見えない布」などというヨタ話を信じたのか? 王様は、馬鹿になら裸を見られてもよかったのか? 今日は、裸の王様が、実は大変な策士であった可能性について考えます。

 「王さまは裸だ」とさけんだのは、小さな子供だった。賢い人にだけ見えるといわれて、ありもしない服を身にまとい、大手をふって街を歩いていた裸の王さま。王さまはそのとき、どんな気持ちだったろう? 憎いのは小さな子供じゃない。それまで王さまをだまして、偽物のおせじをふりまいていた連中だったと思う。

森絵都アーモンド入りチョコレートのワルツ』「子供は眠る」より

今日は、アンデルセン童話『裸の王様』についてです。

森絵都は、裸であることを指摘された瞬間の王様の気持ちに焦点をあてました。この「裸の王様に感情移入してみる」という体験はなかなか新鮮です。ふつう、この童話を読んだときの我々の視点は、「王様は裸だ!」と叫ぶ大衆の位置にあるからです。

私は、以前、「ウサギとカメ」の童話で、普通の人はカメと自分を同一視するが、それはおかしい、ということを書いたことがあります。我々は、自分だって努力すればウサギに勝てるのだと信じたいのです。本当は、努力することのほうが、よっぽど才能がいることなのに。

この「ウサギとカメ」もそうですが、童話を読んでいるときの目線の位置というものには、我々の無意識の願望が現れていて面白いものです。どうやら我々は、自分が「無垢ゆえに真実を見抜く子供」であることを願っているようです。

さて今日は、森絵都にならって、王様の立場からこの童話を考えてみたいと思います。

森絵都は「憎いのは小さな子供じゃない」などと書いていますが、私が王様だったとしたら、このガキはそうとう憎ったらしいと思います。「空気読めクソガキ!」という感じです。このような、空気を読めない子供に対していまいましさを感じる人間というのは、けっして少数派ではなさそうです。

id:sho_taさんは、「そもそもこの「少年」、「王の権威に服する」という世間知には無頓着なクセに、「服を着ないのは恥ずかしい」という中途半端な世間知には拘泥しているところがみっともなさを加速する」と指摘しています。胸のすく思いです。

よつばスタジオ ホームページに、次のような文章が載っていました。改行を修正して、引用します。

「王様は裸だ!」と言った子供が、続いて「女王様も裸だ!」と叫ぼうとした。よく見たら女王様は本当に裸だった。周囲の男たちから「よけいなことを言うな」と子供はおさえつけられた。女王様いわく、「ちゃ、ちゃんと服は着てるんだから! バカには見えないだけなんだからね!」……そんな国に住みたい。

私も住みたいです。

それはともかく、「裸の女王様」の場合、この子供の行為は明確に「余計なこと」とみなされています。しかし、どちらの場合でも、この子供がやっていることは真実の暴露であって、そこに違いはありません。違うのは、女王様が裸でいることには(多くの男性にとって)メリットがあるのに、王様が裸でいることにはメリットがない、ということです。

しかし、王様が裸でいることには、本当にメリットがないのでしょうか? いや、もちろん、裸自体に価値があるとは思えませんけど。

そもそも「裸の王様」の話には謎があります。よく指摘されることですが、「馬鹿には見えない服というが、王様は馬鹿になら裸を見られてもよかったのだろうか?」ということです。これは難問です。実際、「裸の女王様」という物語はまず考えられません。裸体を見られる羞恥心は女性のほうが上でしょうが、男性にもあることは間違いない。それとも、王様は露出狂だったのでしょうか? 「王様は裸だ!」「そうだよ」 うわー。

いったい王様は、何のために「馬鹿には見えない服」を着たのか。青空文庫の大久保ゆう訳『はだかの王様』をもとに、以下、考えていきます。

まず、「王様」は大変な衣装道楽でした。「一時間ごとに服を着がえて、みんなに見せびらかす」ほどであったようです。これだけ見ると、イメージ通りのボンクラ王なのですが、ところが、よく読んでみると、この王様はそんなに悪い王様ではありません。

王様は「戦いなんてきらい」だったとあります。平和主義者です。城下町は「とても大きな町で、いつも活気に満ちていました」とあります。国の経済も発展しているのです。よく考えてみると、衣装道楽など、王様の趣味としては、実につつましいと言えるのではないでしょうか。

では、なぜ王様は「馬鹿には見えない服」を着ようと思ったのでしょうか。実はこの理由もはっきり書いてあります。王様は、「もしわしがその布でできた服を着れば、けらいの中からやく立たずの人間や、バカな人間が見つけられるだろう。それで服が見えるかしこいものばかり集めれば、この国ももっとにぎやかになるにちがいない」と考えたのです。

王様が「馬鹿には見えない服」を着たのは、国のためだったのです! 偉いじゃないですか! 露出狂とか言ってゴメンなさい。

この王様は、実はかなり立派な王様なのです。ふつう「裸の王様」というと「馬鹿」の代名詞みたいな感じですが、そんなことはないのです。

アンデルセンの「はだかの王様」には原作があります。ドン・ファン・マヌエル『ルカノール伯爵』の第32話です。それによると、「馬鹿には見えない布」は、原作では、「嫡出子(父親の実の子)でなければ見えない布」でした。王様は、「非嫡出子には遺産の相続権がなく、遺産は王室が没収する」という法律を盾に、王室の財産増大を狙ったのです(詳細は「アンデルセンと「裸の王様」」)。実に狡猾な王様です。

いずれにせよ、単にめずらしい布でできた服が着たかった、などという素朴な王様像は、修正されなければいけないようです。

しかし、結局、王様はだまされたのではないか、という反論がありそうです。つまり、「馬鹿にしか見えない布」なんてものは最初からなかったのに、あると信じてしまった。それは、王様が愚かな証拠だろう、というわけです。

しかし、私が思うに、王様はそんな布が存在しない可能性など、百も承知だったのではないでしょうか。

詐欺師たちは、自分たちが「馬鹿には見えない布」を織ることができるのだと人々に信じこませていましたが、しかし、実際に布を見たものはいませんでした。最初に布を「見た」のは、王様に派遣された大臣です。そして、この大臣の人選が、実に巧妙なのです。

翻訳文から引用します。「そこで王さまは、けらいの中でも正直者で通っている年よりの大臣を向かわせることにしました。この大臣はとても頭がよいので、布をきっと見ることができるだろうと思ったからです。」

ここには、大臣について、3つの描写があります。「正直者(で通っている)」「年より」「頭がよい(と王様は知っている)」の3つです。

ここで、ちょっと考えてほしいのですが、この大臣が「馬鹿には見えない布」を見て、「見えませんでした」という報告をすることがありうるでしょうか?

大臣の立場になって考えてみます。もし、「布は見えませんでした」と報告したら、まわりの人はどう思うでしょうか? 大臣は、「正直者で通っている」わけですが、「知恵者で通っている」とは書いてありません。しかし、「年より」、とは書いてあります。したがって、人々は、ああ大臣は年をとってボケてしまったから、布が見えなかったのだろう、それをありのままに報告するとはさすが正直者だ、と思うでしょう。

しかし、大臣が「布が見えました」と報告したらどうか。大臣は「正直者で通っている」わけですから、人々はその報告を素直に信じるでしょう。あとになって、布が本当は存在しないことが判明しても、そもそも詐欺師に金を渡して布を織らせたのは王様ですし、「あのときは確かにあったんです」などと言い訳すれば、問題なさそうです。

したがって、大臣にとっては、「見えない」などと本当のことを言うメリットは何もありません。大臣は「頭がよい」わけですから、当然、以上のような思考を経て、必ずや「布は見えました」と王様に報告するはずです。

王様は当然ここまで考えて、この大臣を最初の観察者に選んだのです。「正直者(で通っている)」「年より」「頭がよい(と王様は知っている)」の3つの条件を満たした人間をわざわざ選んだのは偶然ではありえません。

つまり、王様は、「馬鹿には見えない布」が存在しない可能性を十二分に承知しつつ、それでも「見えました」と言わせるために、この大臣を派遣したのです。そして、この大臣の報告によって、「馬鹿には見えない布」の実在性は一気に増すことになったのです。王様、策士です。

要するに、王様は、実在しようがしまいが関係なく、「馬鹿には見えない服がある」という幻想をつくり上げようとした、ということになります。では、何のために?

おそらく、王様は、「権威」というものに根拠がないことをよく分かっていたのではないでしょうか。このこともちゃんと作品中に書いてあります。「王さまは王さまです。何よりも強いのですから、こんな布にこわがることはありません」 そう、「王さまは王さま」なのです。「王さま」である根拠は「王さま」であるということの中にしかありません。

私は、「王様は裸だ」と叫ぶ子供に欺瞞を感じます。まあ百歩ゆずって、わけのわかってない子供があらぬことを口走るというのは許しましょう。しかし、周囲の大人たちが子供の言葉に同調して、「王様は裸だ」と叫び出すというのは、ナンセンスなのではないのか。

例えば、ある日、子供が「お金に価値なんてない。一万円札はただの紙切れだ!」ということを「発見」したとします。それを聞いた大人が「本当だ! その通りだ!」と同調し、それをきっかけに貨幣制度が崩壊する……なんてことはありえないと思います。

お金と同じで、王様が王様である根拠は、王様が王様であるとみんなが信じている、ということをみんなが信じている、ということをみんなが信じている……という無限後退の中にしかないわけです。要するに、王様というのはもともと裸なのであって、そんなことはもうみんな知っていることです。わざわざ、声高に叫ぶことではありません。

王様にとっては、むしろ「馬鹿には見えない布」が実在しないほうが、自分の権威を強化する道具として都合がよかったかもしれません。「馬鹿」という言葉の語源の一説に、こんな話があります。『史記』によれば、秦の時代、宦官の趙高は皇帝に対し「馬です」と言って鹿を献上します。皇帝は「これは鹿だろう」と訝しく思いますが、群臣たちは趙高の権勢を恐れ「陛下、これは馬です」と言ったという話です。

おそらく、王様は自分がそういう実体のない権威の上に立っていることをよく分かっていたのでしょう。だから、この王様の趣味は衣装道楽なのであり、王様は「馬鹿には見えない服」を着たのです。その服が現実には存在しなかったことなど問題ではありません。そういう空っぽの威厳によって、この国は現にうまく動いているのです。王様の仕事として、それ以上、何が必要なのでしょうか?

結論です。王様はなぜ裸になったのか? それは、人々の幸福のためです。すべては計算ずくだったのです。すばらしいです。尊敬します。まさにノブレス・オブリージュです。というわけで、次回はぜひ、女王様もいっしょにパレードおねがいします。