最近の若者は本当にいたか、とカントは言った、皆が本を書いている

何千年も前の遺跡から「最近の若者は……」と書かれた出土品が出てきた、という話をご存じの方は多いと思います。でも、これって本当の話なんでしょうか? 今日は、「最近の若者」のルーツを追っかけながら、ネット社会と統一されない自己について考えます。

 人の話す言葉のどれが正しいとするかは、なかなかむずかしいことです。それはどこに基準点をおくか、いつの時代、どこの言葉を基準とするかによります。どれが正しいかというところに踏みこむと、保守的な態度の人、新しいことを好む人、いろいろあって、その人の人生や世界に対する考え方が言葉の選択の上に出てきます。今から何千年も昔のくさび形文字を解読したところ、「このごろの若者の言葉づかいが悪くて困る」とあったそうです。言葉は人間の行為だから、保守的、革新的という相違があるのは当然です。

大野晋日本語練習帳』より

日本語ブームの種火となった『日本語練習帳』です。

私もかつて当ブログで、「正しい言葉」という概念がいかに怪しいものであるかについて、いくつかエントリを書いてきました。「産経新聞が『乱れた日本語』だと指摘した表現を夏目漱石も使っていた」とか「お嬢様言葉は昔は『乱れた言葉遣い』として批難されていた」とかです。その点で、この大野晋の主張には深く共感できます。

ところで、ここに書かれた「今から何千年も昔の楔形文字を解読したところ、『このごろの若者の言葉づかいが悪くて困る』とあった」というのは、実に面白い話ですね。大人のよく使う「最近の若者は……」という言葉は、彼らが若者だった頃にも言われていたのだろうし、それどころか、人類発祥以来、もう何千年となく言われ続けてきた言葉なのです。「近頃の藍藻は酸素吐きやがる」(野尻抱介)。いやあ、愉快です。

うん、で、大野先生、ソースは?

いや、もちろん、私は大野先生尊敬していますし、今回引用した文章には深く共感しますし、この「最近の若者」の話は大変面白いですよ。でも、それとこれとは別です。この話の情報元は何でしょう? いったい、いつどこでだれが発掘した粘土板にこんな言葉が書いてあったのでしょうか? ぜひ知りたいです。

というわけで、相変わらず長い前フリですが、今日は、最古の「最近の若者」を探しているうちに考えたことを書くことにします。ひとつおつきあいよろしくおねがいします。

さて、軽くググると、まず発見したのは、2chのコピペでした。それによりますと、「古代アッシリアの粘土板 B.C.2800頃」「ソクラテス」「プラトン」の言葉がそれぞれ引用されています。とはいえ、「ソースは2chのコピペです」では、喧嘩売ってんのか、つう感じです。細木数子の占いのほうがまだ信用できます。

今度は、この2chのコピペを手がかりにして調べると、人力検索はてなで同じ疑問をもっている人が見つかりました。「最近の若者はなっていない」という感じの文章……の正確なソースを教えてほしいという質問です。ここでは、情報の出典として『アシモフの雑学コレクション』という本が挙げられています。おおっ、あのアイザック・アシモフですか。これは、信憑性が高そうです。

そこで、この『アシモフの雑学コレクション』(原題 Isaac Asimov's Book of Facts)を検索します。ラッキーなことに、英語日本語の両方で、この本から引用しているサイトを見つけることができました。

アシモフが紹介しているのは、次の3つの言葉です。引用します。

1つ目は、紀元前2800年ごろの、古代アッシリアの粘土板にある文。"Our earth is degenerate these latter days. There are signs that the world is speedily coming to an end. Bribery and corruption are common."(世も末だ。未来は明るくない。賄賂や不正の横行は目に余る。)

2つ目は、ソクラテスの言葉。"Children are now tyrants...they no longer rise when elders enter the room. They contradict their parents, chatter before company, gobble up dainties at the table, cross their legs, and tyrannize over their teachers."(子供は暴君と同じだ。部屋に年長者が入ってきても起立もしない。親にはふてくされ、客の前でも騒ぎ、食事のマナーを知らず、足を組み、師に逆らう。)

3つ目は、プラトンの言葉。"What is happening to our young people? They disrespect their elders, they disobey their parents. They ignore the law. They riot in the streets inflamed with wild notions. Their morals are decaying. What is to become of them?"(「最近の若者はなんだ。目上の者を尊敬せず、親には反抗。法律は無視。妄想にふけって街で暴れる。道徳心のかけらもない。このままだと、どうなる。)

2chのコピペの内容と一致しています。おそらく、この本が有力な元ネタでしょう。これらの言葉で検索をかけると、たくさんのページがヒットします。

なお、これ以外にも、ハンムラビ法典に「今の若い者は……」と書かれているそうだ、などの説も見かけました。ハンムラビ法典はネット上に英訳がありますが、私には正直、どこにそんなことが書いてあるのか分かりません。だいたい、ハンムラビ法典は「法典」です。法律に「最近の若者は……」などと書いてあるわけがないと思います。ちなみに有名な「目には目を」は196条です。his eye shall be put out!

さて、1つ目の、紀元前2800年ごろの古代アッシリアの粘土板については、現時点では、残念ながら疑う材料も信じる材料もどちらも手に入っていません。つうか、そもそもコレ、「最近の若者」についての言葉じゃありませんし、スルーします。

今回、私が問題にしたいのは、ソクラテスプラトンの言葉のほうです。

ソクラテスは自身で著作を残しませんでした。ですから、その言葉は、どうしても弟子のプラトンの著作などを通じた伝聞になってしまいます。となると、はっきりソースが見つかりそうなのは、プラトンです。

プラトンの著作は、そのすべてが英訳され、プロジェクト・グーテンベルグ著作権切れのテキストを収集するプロジェクト)で公開されています。青空文庫に『クリトン』しかない日本とは大違いですね。羨ましいです。

アシモフが引用したプラトンの言葉も、このテキスト群のどこかにあると考えられます。

ところがですね、実はこっからが本題なんですけど。ないんですよ、このアシモフの引用したプラトンの言葉が。プラトンの著作の中にないんです。

まず、アシモフの引用した文章を直接検索してもヒットしないことは、直ちに確認ができます。しかし、まあ、もしかしたらちょっと違う翻訳を使ったのかもしれません。

そこで条件をゆるゆるにしてスクリプト言語に検索させます。プラトンの言葉に使われた38単語のうち、一般的でなさそうな16単語(happening young,people,disrespect,elders,disobey,parents,ignore,law,riot,streets,lamed,wild,notions,morals,decaying)が、連続する100単語中に8単語以上出現する場所を探します。結果は、ヒット0件。

英語圏のやり取りも紹介しておきます。Google Answersに、人力検索はてなと同じ、「最近の若者は〜」という言葉のソースをくれ、という質問が立っていました。その質問に対し、古今の引用を列挙して答えた凄腕の解答者がいましたが、その人は、このプラトンの言葉に対して、"I think this is a direct quote, but can't find the reference at the moment."とコメントしています。直接の引用だと思うけど、今のところどっから参照した文か分からない、というわけです。しかし、私の確認する限り、"direct quote"ではなさそうです。

Slashdot.orgには、こんなやりとりがありました。このプラトンの言葉を引用したコメントに対して、"Where did this quote come from?"(この引用はどこから?)とツッコミが入っています。つっこんだ人は、"I've read Plato and the neoPlatonists (especially Plotinus) but can't recall a source for the quotes. "(プラトンは昔読んだけど、この引用は記憶にない)と言っています。

もちろん、これらの傍証は、アシモフの引用したプラトンの言葉が「ない」ことの証明にはなりません。なにせプラトンの著作はベタテキストで7MB以上あるのです。こんだけ大量の文章です。探せば、実はどっかにあるのかもしれません。

しかし、これはほとんど「悪魔の証明」です。いくら対象が有限とはいえ、7MBのテキストすべてに目を通さなければ反論できない、というのは過酷すぎます。ここでは、反証可能性というものがほとんど奪われていると言えるでしょう。

だいぶ話が長くなってきたので、いったんまとめます。まず、アシモフプラトンの言葉として「最近の若者は〜」を引用しました。ところが、それが、プラトンの著作の中に発見できない、という話でした。

私は現時点で、アシモフの引用は、かなりの確率でガセだろうと思っています。これは、いわゆる「カントは言った」のたぐいではないか。カントはありとあらゆる名言を残しているので、適当なことを言って「カントは言った」とくっつければサマになるというやつです。「やっぱり冬は熱燗に限る、とカントも言っている」みたいな。

しかし、私が本当に注目したいのは、アシモフの引用がガセかどうかではありません。そうではなく、このような誰もウラを取っていない怪しい情報が事実として拡散してしまう、ネット社会についてです。

唐突ですが、「最近の若者」つながりで、キケロの言葉を紹介しましょう。つうか、この言葉も本当にキケロが言ったのかどうか疑わしいようですが、検索してみると、もうキケロの言葉ということですっかり定着しているようです。こんな言葉です。

"Times are bad. Children no longer obey their parents, and everyone is writing a book."(拙訳:くそっ、なんて時代だ。子供は、もう親の言うことなんか聞きゃあしねえ。そして、みんなが本を書いている。)

この"everyone is writing a book."を見たときの衝撃は忘れられません。そして、キケロから2000年。時代は、"everyone is writing a blog."になったのです。"blog"じゃなくて"mixi"でもいいです。

以前から、「ネズミはチーズを食べない」というのはガセとか、ネットは洗脳社会だとか、同じようなことを何度も書いていますが、私は普通の人の、たぶん100倍ぐらいの量の検索をする人間なんで余計に痛感するんですよ。まず、ネットの99%はコピペです。そこでは不正確な情報がそのままの形であっという間に拡散します。これ、なんとかならんか、と。

理想を言えば、「アシモフが言ったから正しい」とか「朝日新聞が言ったから正しい」とか「アルファブロガーが言ったから正しい」とか「アー」とか、そういう判断のしかたをやめて、1つ1つの主張を検証するべきなんでしょう。要するに「だれが書いたか」で判断するのではなく「何を書いたか」で判断するということです。

ここでは、「アシモフ」という統一された人格は、むしろ邪魔です。

これは、いわゆる「はてブの衆愚化」問題と共通するところがある。なんで、GIGAZINEさんがやり玉に挙げられるかというと、ホッテントリGIGAZINEさんばかりだからなわけですが、それは、批判者の心の中に、GIGAZINEのエントリは内容でブクマされているのではなく「GIGAZINEだから」あんなにブクマされてるんだ、という思いがあるからだと思います。ぶっちゃけ、GIGAZINEさん以外が、例えば私が「svchost.exeの正体を探る」という記事を書いても、絶対に600usersにはならないと思う。

要するに、ソーシャルブックマークが目指す理想の方向性というのは人格の解体である、と考えられているのでしょう。「人格の解体」という言葉に抵抗があるなら、「権威の解体」でもいいですが。

話はmixiに飛びますが、非常に秀逸な考察があります。ishさんの「mixi疲れと友達の友達」では、「普通であれば相手によって色々な『自分』がいる」が、mixiでは「すべてのマイミクに対し一意な『自分』」しかいないと指摘します。けれど、そもそも、「全体の見えなさ」「見通しの悪さ」「常に部分的でしかないもの」の総体こそが「自分」なのだ、と。

ここでも、統一された自分とそうでない自分というものが焦点になっています。

ちなみに、この「ish☆走れ雑学女ブログ」は、謎の病原菌でたった一つのブログを残して他のブログが消滅するとしたら、どのブログを残しますか?という質問に対する、現時点での私の答えです。激しくオススメ。

mixiでは最近、日本の歴史において最高レベルであろうプライバシー侵害事件が発生しましたが、これはmixiに実名を書いてしまったことも理由の一つになっています。すなわち、「ネット外の自分」と「ネット上の自分」というものを統一してしまったことが問題の一因となった。

つうことで、このあたりは、共通する根っこがあるんじゃないかという気しますが、話が長くなりますので、また別の機会に書くことにしまして、とりあえず今日の話を強引にシメておきます。

私は、大野晋の書いた話、すなわち、楔形文字に「このごろの若者は……」と書いてあったという話は、嘘くさいと思っています。しかし、嘘と言えるだけの根拠は見つかっていません。もし、私が楔形文字についての造詣が深ければ、もう少しまともなことが言えたでしょう。また、もし、プラトンをきちんと読んでいれば、アシモフの引用について的確な批判ができたでしょう。

これで分かることは、勉強というのは、他人と違う意見を言うための武器なんだということです。勉強しない人間というのは、他人の意見を受け入れるしかないということでしょう。なかなかしんどい話ですが、私は今回のエントリを書くにあたって自分の無力さをいろいろ痛感しました。さらなる研鑚を積みたいと思います。