バナナはおやつを超越する、境界線上のバナナ、芭蕉の夢・バナナの旅
はたして、バナナは、草なのか?木なのか? 野菜なのか?果物なのか? 主食なのか?間食なのか? そして、松尾芭蕉は「松尾バナナ」という自分の名前に納得しているのか!? 今日は、バナナという越境する植物について考えます。
句意は、「芭蕉の葉が台風に揺れる中、たらいに雨漏りが落ちるのを聞く夜だ」という感じでしょうか。時は延宝8年(1680年)。松尾芭蕉が住んでいた江戸深川の草庵には、門人
この「芭蕉」はバショウ科の多年草ですが、これが「バナナ」と同じ仲間であるということはよく知られています。すなわち、やつの名は「松尾バナナ」。すばらしい。
余談ですが、作家のよしもとばななさんは、自らのペンネームの由来を「バナナの花が好きだったからです」と語っています。バナナの花の画像にリンクしておきます。
もっとも、我々が現在食べている熱帯植物バナナは東京の気候では生育しませんから、中国原産の芭蕉とは単純にイコールではありません。しかし、当時の江戸の町において、芭蕉というのはかなりエキゾチック(異国的)な植物であったと思われます。そこに「たらいに雨」という身近なイメージをぶつけていく松尾芭蕉という男は、やはり大変ファンキーな人間であったようです。
さて、ここで考えたいのは「松尾芭蕉」が「松尾バナナ」であると知って、なぜ我々はかくも喜ぶのだろうか、ということです。芭蕉は、「芭蕉」と名乗る以前「
これは「バナナ」という果物に、何かユーモラスなイメージがあるからに違いない。それは、いったいどこから来るのでしょうか?
今日のテーマは、バナナという果物の謎についてです。
さて、まずはバナナは草なのか木なのかについて考えてみます。ンなもん、木に決まっとるやんけ! そう思っていた時期が私にもありました。
ところが、wikipediaによると、「バナナは間違いなく草である」のだそうです。そ、そんなバナ……いや、今の発言はなかった方向で。しかし、これはいったいどういうことでしょうか。
調べてみると、「木」と「草」の分類はかなりややこしい問題のようです。しかし、年輪ができるのが木、という定義、あるいは、茎が何年も太くなり続け、しまいには死んだ細胞質が木化して、それによって生体が支えられているのが木、という定義、いずれの定義をとっても、バナナはれっきとした「草」なのだそうです。
ところで、この定義だと、竹は木と草の両方の性質をもつことになります。wikipediaによれば、上田弘一郎京大名誉教授(世界の竹博士)は『竹は木のようで木でなく、草のようで草でなく、竹は竹だっ!』と力説しておられたのだそうです。実に興味深い発言です。
植物学では、「
続いて、バナナは野菜なのか果物なのかについて考えます。
お約束の展開で申し訳ないですが、ここでもやはり「野菜」か「果物」か、という分類はこじれる問題なのでした。「野菜の定義について」というコラムが最もまとまっているように思いますので、詳細はそちらに譲ります。
農林水産省では、「一般に、野菜とは食用に供し得る草本性の植物で加工の程度の低いまま副食物として利用されるもの」としています。「くだもの」の語源は「木の物」ですから(「けだもの」は「毛の物」)、もともと木になるのが果物なわけです。既に見たようにバナナは草ですし、ナマで食いますから、我が国政府の公式見解に従うとバナナは野菜です。
もっとも、普通、野菜の定義としては「一年生の草本植物」が採られるようです。バナナは多年生ですから、これなら野菜にはなりません。なお、「一年生植物」というのは、「種子から発芽して一年以内に生長して開花・結実して、種子を残して枯死する植物」です。友達100人できる前に、枯れます。
なお、この定義であっても、メロン・スイカは野菜です。人生は常に不条理です。
さて、どうやら、バナナという植物については、もっと根本的に考えねばならないようです。そこで、バナナはそもそも「食べ物」か。ということについて、考えます。
おいおい、バナナが食い物じゃなきゃなんなんだ。武器か。と、
調べてみると、wikipediaに記載されているのは、沖縄・奄美大島に産する
ところで、そろそろ、「あの質問」にふれなければなりますまい。そうです。日本人を魅了してやまぬ、究極の問い。「バナナはおやつに入るのか」です!
これについては、ネット上でも大激論がかわされていまして、正直私の出る幕などありません。デイリーポータルZで、教えて!ティーチャー先生で、Yahoo!知恵袋で、コトノハで、2chの哲学板で、今日も熱いバトルがくりひろげられております。
ところで、デイリーポータルZのバナナ好きは異常とも言える域に達しています。バナナをキリン柄にペイントしてみたり、バナナで日曜大工をやってみたり、うまいバナナを求めて沖縄まで行ってみたり、真っ黒いバナナを求めて東京中をかけまわってみたり、−80℃でバナナを凍らせてみたり、落ちているバナナの皮をレポートしてみたり、バナナいろの作成にチャレンジしたり、いったいバナナの何が彼らをそうさせるのでしょうか。
このデイリーポータルZのバナナ記事で、ひときわ私の目を惹いたのが、コーヒーおむすびとバナナの味噌汁の記事です。それによりますと、みそ汁の中に入れたバナナは、イモのような味になっていたそうです。
wikipediaのbananaの項によりますと、人間が消費する作物は、米、小麦粉、トウモロコシ、バナナが4強なのだそうです。また、ウガンダでは、"matooke"という言葉が、「バナナ」と「食べ物」の両方を意味するのだとか。日本の「ゴハン」みたいなものでしょうか。こうなると、バナナは世界的に見て、主食の地位にある、と言えそうです。
しかし、一方で、バナナが間食として優れていることは論を待ちません。速攻のエネルギー源であり、また皮をむいてすぐ食べられる簡便さは、他の追随を許さぬものがあります。また、日本においては、おかずというものは米飯との調和がとれるものでなければなりませんが、バナナと炊きたて御飯の組み合わせは、お世辞にも相性がいいとは言えません。
「バナナはおやつに入るのか」を考察した中で私が最も秀逸だと思ったページでは、量子力学の不確定性原理における「シュレーディンガーの猫」を引き合いに出していました。
量子力学においては、物質の状態は観測されるまで決定されない、とされています。シュレーディンガーの猫というのは、箱の中のネコが生きているのか死んでいるのかは、観測してみるまで決まっていない、という話です。このページでは、バナナがおやつかどうかは観測されるまで決定されない、つまり、御飯といっしょに食べたなら「おかず」、間食されたなら「おやつ」というふうに、そのつど決定されると指摘します。
私も同感です。既に見たように、バナナとは、ありとあらゆる二項対立を超越する物体なのです。草なのか木なのか、果物なのか野菜なのか、食物なのか布物なのか、主食なのか間食なのか、AかBかという、すべての問いを転倒させ、越境していく存在です。
現在、日本人が最も多く食べている果物はバナナです。総務省の家計調査によると、1世帯あたりの果実の購入量(重量換算)では、2004年、2005年ともに、バナナがみかん・りんごを抜いて1位でした。かつて、バナナは大変な高級品でした。1950年頃、平均月収が1万円の時代に、バナナは卸値で1キロ約1000円もしたそうです。しかし、値段の低下とともに、今ではすっかり日本人に親しまれる果物となりました。
ここまで日本人に愛され続けるバナナの本質とは、対立する構造のどちらにも属さない、あるいはどちらにも属す、その融通無碍なところにあるのではないでしょうか。バナナは、諸行無常、万物流転という思考を、形にしたものなのです。
「XはAだ」という文章は我々の思考の根幹をなす、と言っていいでしょう。ところが、バナナは「Aでもあるし、Bでもある。Aでもないし、Bでもない」と、二項対立の境界を軽々に越えていきます。そのトリックスターぶりが我々の共感を呼ぶのではないか。
あの雨の夜から14年後の元禄7年(1694年)。芭蕉は死の床にあって、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と詠みました。旅とは、まさに境界を越えることです。旅に生き、旅に死んだ芭蕉の名に、その夢に、バナナほどふさわしい植物は、実はなかったのかもしれません。