「ぱふぱふ」はなぜ消えたのか、聞こえない音、エロい日本のドラクエ

ドラゴンクエストアメリカに移植されたとき、さまざまな修正が行われました。それをつぶさに調べていくと、ドラクエというゲームに隠れた「日本的なもの」の姿が浮かび上がってきます。今日は、我々を包囲する見えない文化について考えます。

 だが、コンピュータやインターネットの発達が、全体として人間にどんな影響を与えるかという命題に的確に答えられる人はいないだろう。ファミコンについても、それをずっと続けて育った子供がどうなるか、まだはっきりとわかっていない。
 主人公がいろいろな冒険をしたり、戦闘するRPGロール・プレイング・ゲーム)はたしかにおもしろい。出はじめたときは私も徹夜でやったものだが、一ついえることは、ゲームの構成そのもののなかに、また場面、場面のやり取りのなかに間違いなく文化的な要素が入っている。そして、それが必ずしも日本社会の伝統的倫理観ではないことである。子供は与えられたものを当たり前のこととして受け取る。その意味では価値観がグローバル化し、違った価値観が定着していく可能性もある。

養老孟司異見あり 脳から見た世紀末』より

養老先生が徹夜でRPGをやっていた、という話。

「(RPGが)出はじめたとき」とありますが、やはり普通にドラクエあたりですかね? ドラクエ第1作が発売されたのは1986年ですから、養老先生49歳のときです。当時は東大の教授だったはずですが、お仕事のほうは大丈夫だったのでしょうか。

実は養老先生は、日本ゲーム大賞の選考委員長を務めるほどのゲーム好きです。Wikipediaにも、徹夜でファミコンをしようとして奥さんにひどく叱られたが実家に逃げて続行した、などという、50近い大人がやることとは思えないエピソードが書かれています。そうか、これがゲーム脳の恐怖か! みなさん、お子さんがテレビゲームをやり過ぎると、そのうち東大教授になったり、400万部のベストセラー書いたりしちゃいますよ! 怖いですね。

さて、私など完全なファミコン直撃世代でして、養老先生の言う「ファミコンをずっと続けて育った子供」です。確かに私のようになったらおしまいですが、しかし、この引用文には、他にもちょっと気になる指摘があります。養老先生いわく、RPGには「日本社会の伝統的倫理観ではない文化的な要素」がある、というのです。

なるほど、やっぱ、仲間とつるんでスライム倒して金を奪ったりしちゃあいけませんよね! と一瞬思いましたが、よく考えてみると、桃太郎は仲間を集めて鬼退治して財宝奪ってるわけで、同じですな。しかし、まあ、こういうのは物語類型というやつでして、別に「日本的」なわけじゃありません。

というか、むしろ、RPGに日本の伝統的な文化要素なんてあるんでしょうか? 例えば、日本を代表するRPGであるドラクエは、思いっきり中世ヨーロッパの世界観なわけです。仲間に「魔法使い」がいて、イオナズンだのパルプンテだのを唱えている時点で伝統的文化要素もクソもない気がします。どうなんでしょ?

こういうことを考える上で非常に参考になる資料があります。八尋茂樹テレビゲーム解釈論序説』です。

この本の第一部・第一章「ゲーム機のイデオロギー装置的可能性」は、日本で発売されたRPGが海外に移植されたときにどのような変更が加えられているかを調べあげた労作です。同一RPGの日本版と海外版(アメリカ版)を比較すれば、彼我の文化の違いが浮き彫りになる、というわけです。面白そうです。

八尋はまず、宗教に関する修正を指摘します。例えば、ドラクエは、うさんくさいキリスト教的世界観が魅力の作品ですが、ドラクエ3の海外版ではグラフィックから「十字架」を始めとしたキリスト教色が一掃されてしまいました。神父さんは全員ただのおじいさんです。「勇者ロト」は、おそらく旧約聖書の登場人物と同名なのがまずかったのでしょう。"Erdrick"という、誰だお前は、な名前に変えられています。八尋は、「日本人にとって、十字架はRPGの世界観を演出する要素のひとつであり、……宗教的な意味合いや価値をそこに見いだしてはいない」と指摘しています。

また、飲酒に関する修正もかなり過敏なようです。ドラクエ4の「しごとのあとのおさけはさいこーですよ」という台詞が、海外版では"Good food after work is the best!"に変更されているそうです(酒→料理)。そこまですんのか、という感じですが、アメリカのテレビCMでは、アルコールをタレントが飲むシーンばかりか酒を注ぐ音の放送すら禁じられているそうで、そのあたりが反映しているようです。日本は未成年の飲酒に甘いんですね。

また、性的表現については、かなり修正が加えられています。マニアックなゲームの例で恐縮ですが、「SUPER伊忍道」(光栄)の日本版には、次のような台詞を話す人物が登場しました。「お兄さん、ちょっとちょっと! いい薬があるんですよ、これが。これ一服で毎晩ばっちり! 困ってたでしょ?」 この台詞が海外版では次のように変更されています。"Echizen castle and Mt. Ochi are west of here. Echigo castle is to the east."(越前城と越智山はここから西です。越後城は東です)。……いや、それはもはや別人では? なんか、「笑っていいとも」で生放送中に番組進行を邪魔した男性客がCM明けにぬいぐるみに変わっていたという話を思い出します。

もともと日本は、アニメやゲームにおける性的表現にかなり寛容な国です。あのポケモンですら、カスミの服の露出度が高すぎてアメリカの放送倫理規定に触れたため修正された、という事例があります(リンク先は文字だけです)。

そして、ドラクエにおいてもショッキングな修正がありました。なんと「ぱふぱふ」がカットされたのです!

……えーと、「ぱふぱふ」って説明すべきなんですかね。少なくとも辞書に載ってる言葉ではないですし、認知率ってどのぐらいなんでしょうかね。とはいえ、まさかリアル知人に「ぱふぱふ知ってますか?」と聞いてまわるわけにもいきません。私にも表の顔というものがあります。

もっとも、ドラクエ内においても、「ぱふぱふ」という行為の内容が具体例に描写されることはありません。「ぱふぱふ」についてはっきりしているのは、女性にしてもらうものであること、お金を取られることがあること、部屋を暗くして行うこと、とっても気持ちがいいこと、ぐらいです。

「ぱふぱふ」は、ドラクエのほぼ全シリーズに登場しますが、私の調べた限り、少なくともドラクエ1,2,3の海外版では存在ごとカットされたようです。また、中国版では「按摩」に変わっています。うーん、まあ、遠からず、という感じでしょうか。

ぱふぱふ」の考案者は、ドラクエのキャラクターデザインを担当した鳥山明であるようです。ドラゴンボール2巻が「ぱふぱふ」のおそらく初出でしょう。しかし、この「ぱふぱふ」の正体を知らない人間も多く、さらに、ゲーム内で具体的な描写が一切なされないにもかかわらず、「ぱふぱふ」は、初心うぶな少年たちの心をかきたててきたのです。

その理由の一つに、「ぱふぱふ」という音の魅力がある、と私は思います。

だいたいエロの本質は視覚ではなく、聴覚ですよ。例えば多くの男性は、ポリゴンをトゥーンレンダリングした画像(例えば、ドラクエ8がそうです)でも余裕で欲情できると思いますが、合成機械音の声に欲情することは難しいでしょう。「声優」という職業がなくならないのは、コストの問題ではなく、エロの根源にかかわるからなのです。納得できない方は、「もっともエロいひらがな」を味わうことで、音のエロさに目覚めてほしい所存です。

……お前が変態なのはよく分かったが、RPGにおける日本の伝統的文化要素の話はどうしたのだ、と気をもむ読者のみなさまもいらっしゃるでしょうが、ご安心ください。ここから無理矢理話をつなげるのが吹風日記です。

この、音のもつイメージの喚起力、というのは、実は英語より日本語のほうが上なのではないでしょうか? 例えば、ドラクエで敵を眠らせる呪文は「ラリホー」です。素晴らしいです。らりほー、ですよ? 聞くだけで体から余計な力が抜けていくようです。回復呪文は「ホイミ」です。みなさん、実際に口ずさんでみてください。身体が軽くなって癒されるようじゃないですか。うはは、ほいみ? ほいみー!

ところが、アメリカ版ドラクエ2では、「ホイミ」は"Heal"、「ラリホー」は"sleep"に変更されています。な、な、なんだそれは!? お前らの知能は牛レベルか? これはまさに文化の破壊。「ホイミ」の上位呪文である「ベホイミ」にいたっては"Healmore"です。ばばばば馬鹿野郎、この「ベ」がいいんじゃねえか「ベ」がっ。お前ら全員、死んでしまえ。

日本語は、擬態語が非常に多いことで知られています。ちなみに、「ワンワン」「ポチャン」などの音を表す言葉は擬音語で、擬態語というのは、「ザラザラ」とか「ピカピカ」とか、見た目や手触りなど、音以外の様子を表す言葉ですね。「ぱふぱふ」が擬音語・擬態語のどちらなのかについては、私は一晩中議論できる自信がありますが、ほとんどの読者のみなさまは心底どうでもいいと思ってらっしゃるでしょうから、ここではとりあえず日本語における音のイメージ喚起力に注目しつつ、先に進みます。

日本語の擬音語・擬態語の力は語彙のかなり深いところまで浸透しています。「ざわざわ、ざわめく」「うろうろ、うろつく」「ぴかぴか、ひかる」などのような、擬音語と同じ音をもつ動詞の存在は偶然ではありません。「ぱふぱふ」が海外版ドラクエから削除された理由は、それが性的表現であるという理由だけでなく、「ぱふぱふ」なみにイメージ喚起力のある「音」を、英語という言語が用意できなかったからではないか。

ちなみに、「スライムもりもりドラゴンクエスト」の海外版は"Dragon Quest Heroes: Rocket Slime"です。これだからアメリカ人は話になりません。「もりもり」がいいんじゃねえか「もりもり」がっ。死んでしまえ。

ぱふぱふ」という「音」の力に注目できたところは、やはり鳥山明の天才たるゆえんでしょう。ちなみに、漫画における擬音というとジョジョのゴゴゴゴゴなどが有名かと思いますが、最強はやはり手塚治虫が考案したと言われる無音を表す擬音「シーン」です。まさに神の仕事です。もっとも、静寂を音で表現する、という発想は歌舞伎に既にあり、音もなく降る雪を大太鼓の連打で表現する技法などがあるそうです。

(11月15日追記)この「シーン」については、「ンなもん日本語に昔っからあるやんけ。手塚がオリジナルとはどういうこっちゃ」というもっともなツッコミが各地から入っています。上記段落は、「漫画の擬音」という文脈の中ではありますが、やはり普通に読めば、「手塚がシーンという擬音自体を考案した」という意味にとれるわけで、これは拙い。絶望書店日記さんご指摘のように、日本には古くから「しん」「しいん」「シーン」で静寂を表す用例があります。古いところで平家物語巻第二の「森森として山深し」とか(これは「しんしん」ですよね? 「もりもり」だったら笑えますが)。というか私は、リンク先のWikipediaが明らかに間違っていることに執筆時点でまったく気づいておらず、とにかくダメ過ぎなのでした。今後もご迷惑をおかけするかと思いますが、生暖かい目で見てやってください。読者の皆様には失礼いたしました。(追記了)

えー、なんだか「ぱふぱふ」の話ばっかりになってしまいましたが、そろそろまとめに入ります。

先述の『テレビゲーム解釈論序説』には、興味深いことが書いてあります。アメリカでは、そもそもRPGというジャンルがほとんど売れていませんが、その理由としてアメリカ人の識字能力の問題があるのではないか、というのです。実際、『テレビゲーム解釈論序説』には、RPGが嫌いなアメリカの高校生の、「学校の教科書を読まされるだけでも嫌な思いをしているのに、家に帰ってきてまで文章を読むなんて、全く信じられない」という言葉が紹介されています。「全く信じられない」のはこっちです。

日本の識字率が、伝統的に高水準であったことはよく知られています。江戸時代に来日したシュリーマン(トロイア遺跡の人)は日本人の識字率の高さに驚いたそうですし、また、江戸時代の日本には約6000軒の出版業者があったそうですが、現代の出版社数が5000弱であることと、当時の人口が現在の5分の1程度であることを考えると、これは異常な数字です。それだけの読者人口がいた、ということでしょう。

要するに、物語主導のRPG、というジャンル自体が、かなり日本的と言えるのかもしれない、ということです。これぐらいの文章は読めて当然だよね?というしきい値が、日本とアメリカで、まったく違うかもしれないのです。

こうしていろいろ見てみると、当初は日本的な要素などまるでないように見えたRPGの世界ですが、実は隠れた日本的価値観に支配されていることが分かります。

我々は、見えない「日本」に包囲されているのです。

それは手塚治虫の「シーン」という擬音のようなものです。漫画表現における「シーン」は今や当たり前のように使われていますが、しかし、英語には同じ意味をもつ擬音はありません。そして、「シーン」が「聞こえないけれど存在する音」であったように、文化の本質というのは「見えないけれど存在するもの」なのです。

日本の伝統的な文化や思想を教えようとすると、「自分にはそんなもの関係ない」ということを言う生徒がいます。関係ないはずがない。気がついたときには我々は既に「日本」に束縛されているのですから。それは単に、自分が日本的価値観にがんじがらめになっていることに気づいていないだけです。

何にも縛られることなく自由にものを考える、というのは、簡単に見えて本当に難しいことです。というか、人間にはそんなことはできないのかもしれない。でも、もし、少しでも「自由」へと近づく方法があるのなら、それはきっと「学ぶ」ということ、「知る」ということであるはずだ、と私は思います。

知ることは自由になることです。

というわけで、アメリカ人は、直ちに「ぱふぱふ」の魅力を知るべきです。あと「らりほー」も忘れないように。これを結論としまして、今日の話を終わりたいと思います。