虹は何色、太陽のヒゲ、似顔絵を描くコツ

虹は空中の水滴が太陽の光線に対してプリズムのはたらきをして、太陽光線をそれぞれ異なった波長の光に分解してできた色彩の帯(輪)です。そこには人間の肉眼で見える波長の最も長い赤の光から、反対に最も短い紫まで、異なる波長の光(色)がずうっと切れ目なく連続しているのですから、本当は色の数を七とか五とか数えることができないものなのです。それを特定の数に区切って、虹には色が七つある。いや五つあるというぐあいに言うのは、見る人々の使う言語の習慣、つまり特定の文化によって決定される解釈にすぎないのです。

鈴木孝夫『自己基準と他者基準』より

定番中の定番。虹の色が国によって違うという話です。アメリカでは6色、ドイツでは5色。ここから、「語は世界を区分する記号である」ということで、ソシュール記号論にもっていくのも定跡となっています。

「にじのなないろ」という言葉の響きが明るいからか、日本人にとって「虹=7色」は遺伝子レベルに刷り込まれた公理系かと思われていますが、古代の日本では、アカ、アオ、クロ、シロの4色が基本であったそうです。「明るい」「暗い」が「アカ」「クロ」であることや、緑色を「アオ」と表現する(青リンゴ、信号の青など)など、古代をしのばせる色彩感覚が今の日本語にはあります。

じゃあ、その時代、虹は何色だったんだというと、私はあいにく知りません。だいたい古代人は虹に対して現代人のようなポジティブなイメージをもっておらず、むしろ虹に呪術的な力を感じ、禁忌の対象としていたようです。大林太良『銀河の道 虹の架け橋』あたりを読むと、「虹」と「蛇」がともに虫へんなのが納得できます。ですから、古代人が「虹はきれいだなー」と思っていた可能性はあまりなくて、したがって色なんてどーでもよかったんじゃないか、と私は想像しています。

実際に虹の7色を数え上げてみると、たいていの人は最後の1色が出てきません。島根県、もしくは、はなわ出現前の佐賀県もかくやと思わせるマイナーっぷりで、思わず泣けてきます。たまには思い出してあげてください。google:虹の七色

虹を7色としたのは、ニュートンであるとされています。彼は、当初、プリズムによる分光実験で、太陽光が赤、黄、緑、青、紫の5色に分離している、と観察しましたが、音階ドレミファソラシドの7と呼応させるために、橙と藍を加えて、7色にしたそうです。ニュートンは晩年、錬金術にハマったような人ですし、聖数7に対する思い入れがあったのかもしれません。

ところで、日本人は太陽を赤で着色しても、さして違和感を感じません。しかし、夕焼けのときですら、本当に真っ赤な太陽というのはまずないわけで、やはりこれは「日の丸」の影響なんだろうなあと思います。それと、子供が太陽を描くと、「ヒゲ」を描きますよね。中心から外側へ伸びた、太陽の輝きを表現しているあの線です。あんなもん、私は本物の太陽からはえているところを見たこと、一度もありません。

つまるところ、人間は世界をあるがままに見るのではなく、なにがしかの予断・思い込み・色メガネを通して見ている、ということのようです。その色メガネは、文化と呼ばれたり、言語と呼ばれたりします。

似顔絵をうまく描くコツというのがあります。相手の写真を撮り、それを上下ひっくり返してから模写するのです。で、できあがった絵をひっくり返してみると、びっくりするほどよく似ています。上下を反転させることで、「これは鼻だ」「これは眉だ」といった予断を、脳にさせないでおけるからです。画家が、別になんでもないようなオブジェを大量に模写する練習をするのは、自身がもっている予断をこそぎ落としていく作業であるのかもしれません。

ここで、重要なことは、この予断・思い込み・色メガネは、ものごころついたころには既に脳にがっつり刷り込まれているということです。学校で教わったから、じゃないんですね。3歳の子供の世界で既に虹は「なないろ」であり、太陽には「ヒゲ」があるんです。

こういう知らないうちにこびりついた思い込みを一つ一つ落としていくことが「知る」ということだと思います。学ぶということは、人を自由にします。そういうことです。