名前のない忘れ物、世界にただ一つの名、この「名もなき詩」を

ローマ帝国大英帝国の衰退期には空前の健康ブームが起きたそうですが、まあ関心が内側をむくというのは滅びの予兆でしょうね。例えば、突然ネット論などを語り出すブログは要注意です。今日は、前回のエントリを受けて、ネットと「名前」の関係について考えます。

 私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議に思ってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
 あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田たつる」なの。あれは私がつくった「キャラ」である。あそこで私が「……した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじえてつくった「お話」なのである。「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」にすぎない。そういう簡単なことが分からない人がたくさんいる。
 私は匿名で発信する人間が大嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルの問題ではなく、「本当の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、とその人が信じこんでいることが気持ち悪いからである。私は「内田樹」という名前で発信してもまるで平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。

内田樹「おじさん」的思考』より

入試でも大人気、内田樹の文章です。

ここで「私のホームページ」と言っているのは、内田樹の研究室のことですな。はてなアンテナ登録数1942人、RSS登録数864人。どちらの数字も、この吹風日記のおよそ10倍。怪物サイトです。

この引用文の直前で行われた議論を簡単に紹介します。内田は、相手ごとに一回的で特殊な関係をそのつど構築する力こそ、成熟したコミュケーション能力であると言います。いわば場面ごとに「別人格を演じる」こと。ところが、近代になって、「単一で純粋な統一された人格」をいかなるときでも貫徹することがよいことだ、というイデオロギーが支配的になってしまった。「自分らしくふるまえ」とか「自己実現」とか。うーん、なるほど。

しかし、この、「ネット上で実名で発信してもまるで平気」「あれはキャラ」と言い放つ強さはどうですか。村上春樹も似たようなことを書いていまして、『村上朝日堂 はいほー!』には

 僕は原則的に村上春樹という作家と、村上春樹という個人を完全に二つに分けて物事を考えることにしている。つまり僕にとって作家・村上春樹は一つの仮説である。仮説は僕のなかにあるが、僕自身ではない。僕はそう考えている。

とありました。私は、むしろ、内田樹村上春樹の、「自己」に対する強烈な自信を感じて、なんだかいじけてしまいます。……オレなんか実名出すどころか、MrJohnnyだもんなあ。だれだよお前。

というわけで、今日はネットにおける「自分」というものについて、ぐだぐだと思いつきをならべることにします。

えー、最近私はすっかり組織のボトルネックになってしまい、ろくに考える時間もとれません。踏み込みの甘い更新になりますが、ご容赦ください。なお、id:yosituneさんのブクマコメントによれば、ブログというものは「管理人が「私生活が忙しい」だの何だのと「言い訳」を始めたら寿命の兆候だと思う。」とのことなので、このブログもヤバげです。

つうかですね、もともとこのブログは、中学生相手の授業で使えるネタをストックするために始めたものだったのでして、今「どこがやねん!」というツッコミが右脳に住む神々から聞こえましたが無視することにしますけど、ですから、この日記で時事ネタを扱わないというのもそういうポリシーの一貫だったわけです。それがなんだ、GIGAZINEとか、mixi個人情報流出とか、この潰しのきかないネタどもは。ええい、おかみを呼べっ!て感じです。

これは私の持論なのですが、中学生の興味を惹くような話ができないのならば、語り手の能力が足らないか、その話題が人生において大した意味のないネタなのかのどっちかです。そのぐらい子供信頼してなきゃ授業なんかやってられませんよ。ともかく、その基準でいうと、ネット論などというのはあまりよい素材とは言えません。でも書くんですが。

ところで、前回のエントリの想像を絶する大反響、ブクマ200usersにはびびりました。私がローカルで書いている日記の12日15時21分には「なんかリロードするたびに(ブクマ数が)増えていくのが恐ろしい。絶対みんな何かに騙されてると思う。だいたい、文脈から切り離して文章読むなんて、普通の人間には、ほとんど不可能だろうが。」と書いてあります。自分のエントリの内容に自分でツッコミを入れているあたり、狼狽ぶりがうかがえます。まあ、でも、前回のエントリは主張のラジカルなところに共感が集まったのでしょうね。はてなブックマーカーは真面目な方が多いですから。

トラバもたくさんいただいて嬉しかったです。特に、前回のエントリ中で「激しくオススメ」したishさんのブログで、「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」と、「webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望」という2本立てのエントリで吹風日記に言及してもらったのが幸せです。よく読むと、私のエントリを根底からひっくり返すような内容になっているのですが、私的には、脳内幸せ回路で友情エントリに変換されているので問題ないです(オイ)。とりあえず、ishさんに言及してもらったことで、吹風日記を書き続けた半年分の苦労ぐらいは軽くペイした気分です。

トラバの中で、もう一つみなさまに読んでいただきたいのが、hyorohyoroさんの「沈黙は金、雄弁は銀」です。この「沈黙は金、雄弁は銀」について、実はこの格言が使われていた時代は銀のほうが価値があったので、この言葉は「雄弁が偉い」という意味なのである、という説明をどこかで聞いたことはありませんか? 私もずーっとその説明を信じていたのですが、実はこれは誤りで、やっぱり「沈黙が偉い」という格言なんだ、ということを検証したエントリです。面白かったです。

さて、本題に入りましょう。まずは、2chmixiについて考えます。

内田樹は、「私は匿名で発信する人間が大嫌いだ」と書きます。匿名で語る人間は、どこかに「純粋でリアルな本当の自分」というものが存在していると信じこんでいるからだ、というのです。「匿名で発信する人間」を以下「2ちゃんねらー」と書くことにしますが、2ちゃんねらーが「本当の自分」というものを信じている、というのはどういうことでしょうか?

私は、2chにあるのは固有名詞への信仰だと思います。相変わらず唐突な話の展開で申し訳ないです。こういうことです。

まず、「純粋でリアルなただ一つの何か」が存在するとき、それに必ずある固有の「名前」がついているはずだ、と考えるのはそんなに非常識な話ではないと思います。「名前」がなければ我々はそれについて思考することもできないだろうからです。この考えの対偶をとると、固有の名前のないものは「不純だったり、仮想上のものだったり、場面によって実体がコロコロ変わったりするもの」となります。これが2chの「名無し」さんです。

ここで、おそらく、この逆も信じられているのです。ある固有の「名前」がついた存在は、「純粋でリアルなただ一つの何か」でなければならない、ということ。以下、これを「固有名詞への信仰」と呼ぶことにします。それは、sho_taさんのエントリ「ネットの自分がリアルな自分と統合される時」の言葉を借りると、「立場が変われば主張が変わる。こんな当たり前のことが、ネット上では厳しく制限されるわけです。自然、ネット上での「個」は果てしなく平板化していく。」などと同じことを言っているつもりです。

ところで、mixiで実名書いちゃうような人も、この固有名詞への信仰があるのではないでしょうか。ここでいう固有名詞はもちろん自分の実名のことです。プライバシー侵害事件というのは、この暴力的な「平板化」「フラット」化の圧力の産物であると言えます。なぜなら、mixiの事件の場合、彼女のプライバシーというのは、まさに恋人の前で「別人格を演じた」からこそ生まれたものだからです。

2chmixiは対極にあるコミュニティだけど、上記のような見方をすると、「名づけられた単一の人格があるはずだ」という固有名詞への信仰の、裏と表に過ぎないのではないか。

次に、ソーシャルブックマークについて考えます。

前回のエントリで、私は、ソーシャルブックマークの目指すものは「人格の解体」「権威の解体」だと書いたわけですが、そのエントリが200usersという少なからぬブクマをもらったのは、それが本当に理想かまた実現可能かどうかはさておき、まさに当事者たるブックマーカーの心理に何か訴えるところがあったのだろうと思います。

はてなでは、ある程度のブックマークをもらうと、はてなダイアリーのトップページにエントリ名が掲載されます。以前は、ここに日記名も掲載されていましたが、今はエントリのタイトルしか掲載されなくなりました。これは象徴的です。ブログタイトルが消える。それは、すなわち、ブログ、そしてブロガーという人格が消えていく方向を示しているかのようです。

Phenomenonさんの「ブロガーにアイデンティティーなんていらない。早く死ねばいいのに。」というエントリには、「私が思うのはブログはその混沌を「エントリー」単位で回すべきなんじゃないかということです。」という興味深い提案があります。「『作家性』なんていうものは、理想にとってじゃまなだけだ」というのです。

萌え理論Blogさんは、「大手ニュースサイトからブログに来た読者の97%は他のページを読まずに帰る」というデータを挙げています。うちの吹風日記もだいたい似たようなものです。ということは、既にブログは、ニュースサイトとソーシャルブックマークによって、エントリ単位で寸断されつつあるのです。

あと出しじゃんけんみたいですが、私自身、この吹風日記は極力、1つのエントリが独立して機能するように書いてきました。だから、この、「ブログはエントリ単位で回すことを理想とする」という考え方には強く共感できる。

しかし、上で紹介したishさんのエントリで言っていることの一つは、この理想を完全に達成することはぶっちゃけ不可能、というものなのでした。今から70年ぐらい前に、ヒルベルトという数学者が数学の無矛盾性を証明しようとしたとき、ゲーデルという数学者が「数学は自己の無矛盾性を証明することはできない」ことを証明して、数学界に大きな衝撃を与えましたが、そのときのヒルベルトもこんな気分だったんですかねえ。

しかし、未来のウェブは、現在よりもずっとこの理想に近い位置に来るのではないか、とは思いたい。どうだろうか。

今度は、「無断リンク問題」について考えます。

数日前にホッテントリにて「無断リンク問題」がありました。とあるサイトの管理人さんが、はてなブックマーカーにむかって「あんたら、迷惑なんだよ。」「多くのWebマスターが、コンテンツやブログページ単体にリンクを貼られてどれだけ迷惑してっか、わかってんの?」と主張したところ、ブックマーカーたちが面白がってブクマしまくったという事件です。

この問題は、「無断リンク問題」と通称されているようなので私もそう書いたのですが、どうも件の管理人さんの意見をよく読むと、問題は「無断リンク」ではなく、「ディープリンク(サイトのトップページではなく、個別記事に直接リンクすること)」であることが分かります。ディープリンクは訴訟に発展する例があるぐらいナーバスな問題です。

渦中の管理人さんは、「サイトは、ページ単体ではなく、いくつものコンテンツが揃い、利用者が守ってこそ初めて成り立つ物なのです。」と主張します。この管理人さんのサイト観と、ブックマーカー達のサイト観には、大きな相克がありますが、それは2chmixiにおける統一された自己を信じる人間観を、ソーシャルブックマークが打ち破ろうとしていることを示しているのでしょうか?

最後に、検索可能性(ファインダビリティ)の問題を考えます。

私はこのエントリで、「固有名詞への信仰」などという奇矯な言葉を選択しているわけです。「権威への信仰」とか「人格への信仰」と言えば、もっと分かりやすい。しかし、ここで「固有名詞」という言葉を選んだのは、検索について考えたいからです。固有名詞というのは、検索エンジンとものすごく相性がいい。というか、今のウェブの検索システムは固有名詞以外ではまともに機能していないと思う。

mixiが本名登録を推奨したのは、「お知り合いがあなたを発見しやすく」なるからです。

2ちゃんでは独特の隠語が使われます。もちろん隠語は仲間意識の醸造に役立っているのでしょうが、私はテキストマッチング(検索語との一致)から逃れようとする意識が根底にあると思う。分かりやすい例で、「氏ね」。これは2ch起源ではなくあめぞう起源のようですが、もともとは「死ね」が投稿規制にかかっていたのを回避するために生まれた表現です。例えば、叩きスレのようなクローズドな世界をつくりたいとき、固有名詞は多くの場合、置換されます(例、sony → 糞ニー)。

ここには、固有名詞が検索を通じて世界と接続されている、という発想があるわけですが、これも固有名詞への信仰の一部です。mixi2chはやはり同じコインの裏表になっている。一方、内田樹の言う、同じ名前でも別の人格、という状態は、根底のところで検索エンジンと相容れないわけです。

今後、ネットがどのように進化していくかは、私などにはさっぱりですが、おそらく、固有名詞の信仰はうまく機能しないだろう、ということは想像がつきます。だから、検索エンジンは、もちろん機能はするだろうけど、常に何かを取りこぼし続けるでしょう。そして、私がほしいものも、だいたいそのこぼれている方にある。それに対して、何かできることはないのか。

つうわけで、とりとめもなく書いてきました。ブロガーにとっては、考えるよりも書くことのほうが大切なときもあるでしょう。今回挙げた問題群がまさにそうですが、答えというのは、解答欄に書かれるものでなく、我々自身の次の行動そのものなのですから。