ああ らりるれろ、Google、揺れる心

「ああ らりるれろ」という言葉を聞いて、どんな気持ちになりますか? 実はこれは、ある少女の死をうたった詩の中の一節です。今日は、私たちの心が言葉のネットワークとふれあうとき、そこで何が起きているのかについて考えます。

 悼詩     室生犀星
ボンタン実る樹のしたにねむるべし
ボンタン思へば涙は流る
ボンタン遠い鹿児島で死にました


ボンタン九つ
ひとみは真珠
ボンタン万人に可愛がられ
いろはにほへ らりるれろ
ああ らりるれろ


可愛いその手も遠いところへ
天のははびとたづね行かれた
あなたのをぢさん
あなたたづねて すずめのお宿
ふぢこ来ませんか
ふぢこ居りませんか


室生犀星或る少女の死まで』より

この詩の解説は、山本健吉日本の恋の歌』から引用します。

犀星がまだ無名時代に、下宿していた谷中の家の隣に山元ふぢ子という可愛い少女がいて、彼に非常になついていました。親の郷里は鹿児島で、少女はよく郷里のくだものボンタン(文旦、ザボンのこと)の話をし、犀星は彼女を「ボンタン」と呼んでいました。その一家が、郷里に引き上げることになり、別れたのですが、まもなく父親から、少女が死んだという知らせがきます。そのとき作った悼詩です。

山元健吉は、この詩について「幼い者への切ない思慕が、一筋に貫き、全体の気分を統一しています。これ恋愛詩というのは、はばかられますが、それに準ずる切実な思いをこめている」と書いています。私は、この評に、特に「切ない」という評には、つけ加えるべき言葉をもちません。

それにしても、すごい詩です。「いろはにほへ らりるれろ、ああ らりるれろ」ですよ。私は、たぶん人並みにたくさんの文章を読んできたと思いますが、いまだにこの詩以外で「ああ らりるれろ」という文字の並びを見たことがありません(google:"ああ らりるれろ")。少女が国語の教科書を読みあげるこの声は、まさしく犀星の「絶句しているような、感情の高調」(山元健吉)そのものです。

さて、ここで、なぜ「らりるれろ」という文字列がこんなに「切ない」表現になることができたのか? ということについて考えてみます。それは、言葉の意味というものが、その言葉だけで決まるのではなく、周囲の言葉との関係、すなわち文脈で決まるからですね。

よく道路に「とまれ」って書いてありますね。白い色のシールが貼ってあるやつです。VOW系の有名なネタですが、あれを貼るときに工事の人が間違っちゃうことがある。例えば、「れまと」とか「ままれ」とか「とまと」とか、「ま」の字の一部分がズレてしまって「と」のほうに移動した結果「どよれ」とか。そういうことが起きます。

私が興味深いのは、「ままれ」を見ても別に通行人がままったりしないということです。いや、確かにままろうにも、どうままればいいのか難しいところです。しかし、やはり人として「ままれ」と言われればままりたくなる、ままらないではいられないのが正しいのではないのか。ママレモン持って踊ったらいいじゃないか。いや、何がいいのかよく分かりませんが。

これから分かることは、人はそこに書いてある文字だけから意味を見出しているわけではないということですね。というか、その文字が「何であるか」ということを、ほとんど読んですらいない。そこに「ままれ」と書いてあろうがなんだろうが、道路に、白字で、3文字のひらがなが書いてあったら、その意味は「とまれ」であろう。そうやって、周囲の文脈から意味を修正していく。大事なのは言葉と言葉の「関係」です。

これと同じ発想をしたのが、Googleページランクです。ページランクは、ウェブページを内容のみで評価するのではなく、ページとページの関係、すなわちリンクによって評価します。リンクのないページには価値はない。

ページランクの決め方の技術的な詳細は、「http://www.kusastro.kyoto-u.ac.jp/~baba/wais/pagerank.html」などにありますが、大ざっぱに言えば、ページが池みたいなもので、そのページとページの間をリンクという川が流れているような感じです。たくさんのページからリンクされたページは、たくさんの水が注ぎこんでいるのと同じで、水量が大きくなり、評価が上がります。逆に、1つのページからたくさんのリンクが出ていると、水量が分割されてしまうので、リンク先にたくさんの水を流すことができません。つまり、たくさんリンクを出しているページのリンクの価値は低くなります。なお、この比喩だと誤解しやすいですが、たくさんリンクを張っても、別にそのページのランク自体は落ちません。

ここで、あるページに水をざばっと注ぎ込むとどうなるか。最初はそのページの水量が上がり、すぐに水がまわりに流れ出してまわりのページの水量が上がりという感じで、しばらくの間は波立っているんですが、じっと待っていればだんだん安定して、元の正当な評価に戻ります(大ざっぱに、これが上記ページにある「マルコフ連鎖の極限」ということです)。

私は、言葉においても、これと同じことが起きていると思います。私たち一人一人は、「日本語」というものについての判断基準を既にもっています。それを使って会話し、文章を書くわけです。中には、恋人同士のみで通じるようなひどく個人的な言語もあるでしょう。しかし、ふつうは、言葉が他人に対していくども使われていくうちに、徐々に安定し、波がおさまり、言葉の意味はある一つの(理想としては辞書にある)意味に収斂していきます。

Googleは、世界のネットワーク全体に対して、こういう作業をしている。ただし、検索する我々が見ているのは最終結果です。波がおさまり、ページランクが収斂した姿でしかない。ところが、詩の場合はそれでは意味がありません。

私たちのほとんどにとって、「らりるれろ」は「切なさ」では絶対にない。だから、私たちがこの詩を読んだとき、その意味のギャップに私たちはゆさぶられ、波立ちます。最初、「ああ らりるれろ」を読んだときの我々の反応は、おそらく、とまどいとか驚愕とか呆然とか不審とか怪訝とか、まあ、それに近い感情だと思うのです。それが、周囲の言葉とつなぎあわせられつつ、何度も何度も味読されるうちに、だんだん、ある意味に収斂していく。

ですが、詩の本質は、この「ゆさぶられる」ということそのものにあります。心が波立つ、そのダイナミズムの中にのみ、犀星の「切なさ」はあるのです。

この日記が現在置いてある「はてなダイアリー」には「人気記事」「注目記事」を選ぶシステムがあります。その上位に載る記事は、単にリンクしたユーザの数が「多い」からという理由で上位に載っているわけではありませんね。そうではなくて、リンクしたユーザの数がある一定以上「増えた」ときに、上位に載ります。ここで話している構造はこれと同じようなものです。

この「ゆれ」がおさまったとき、詩は死にます。「ゆれ」がおさまるというのは、「らりるれろ」が「ラ行」という意味ではなく「切ない」という意味に変化してしまうということです。端的に、この詩に「ああ 切ない」と書いてあったらと想像してください。それなら、誤解しようがありませんし、我々が訝しく思うこともありません。ですが、詩は死んでいます。もちろん、犀星はそんなことが絶対におこらないように「らりるれろ」という言葉を選び、それに「切ない」という気持ちをこめるという巧緻の限りを見せたわけです。

犀星は、既存の言語で表現できないおのれの「切なさ」を、新しい言葉の関係をつくり出すことで表現しました。文章を読む醍醐味は、そういう新しい世界に相対するときの、心の波立ち、動揺の中にこそあると思います。