雪月花の時、ドレミ〜ドレミ〜ソミレドレミレ、バベルの図書館

 俊頼朝臣語りていはく、「白河院、淀に行幸ありけるに、五月ばかりのことにやありけむ、女房、殿上人の舟、あまたありけるに、暁になるほどに、向かひの方に、ほととぎす一声ほのかに鳴きて過ぐ。俊頼、一首詠ぜまほしくおぼえしに、女房の、舟のうちにしのびたる声にて、
  淀の渡りの まだ夜深きに
と、ながめられたりし、時に臨みて、めでたかりき。人々感嘆して、今に忘れず。新しく詠みたらむにはまされり。」となむ言はれける。
  いづかたへ 鳴きて行くらむ ほととぎす
といふ古歌の末なるべし。

『十訓抄』より

鎌倉時代の説話集『十訓抄』よりの引用です。現代語にしておきます。

俊頼朝臣は語って、「白河上皇が、淀川にお出かけになったときのことだ。五月ぐらいだったろうか、おつきの女房たちや殿上人たちの舟がたくさんあった。夜が明ける頃、むこうのほうを、ほととぎすが一声鳴いて飛んでいった。私が一つ歌でも詠みたいものだと思っていたら、舟の中からある女房がひそかな声で、『淀の渡りの まだ夜深きに』と詠んだ。実にタイミングがよく、すばらしかった。人々は感動して、今でも忘れていない。こういうほうが新しい歌をよむよりずっといい。」とおっしゃった。この歌は、「いづかたへ 鳴きて行くらむ ほととぎす」という古い歌の下の句であろう。

本歌「いづかたへ 鳴きて行くらむ ほととぎす 淀の渡りの まだ夜深きに」は、壬生忠見の歌です。ここでは、新しい歌をつくるより、時宜にあった歌を引用するほうがまさっていると述べられています。

もう一つ、枕草子から。

 村上の前帝の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、様器に盛らせたまひて、梅の花をさして、月のいと明きに、「これに歌詠め。いかが言ふべき。」と、兵衛(ひょうゑ)の蔵人(くろうど)に賜せたりければ、「雪月花の時。」と奏したりけるこそ、いみじうめでさせたまひけれ。「歌などよむは世の常なり。かくをりにあひたることなむ言ひ難き。」とぞ、仰せられける。

訳しておきます。

村上天皇の時代に、雪がたくさん降った。天皇は、雪を容器に盛って、梅の花をさして、月が明るいときに「これを題材にして歌を詠め。どう詠む?」と、兵衛の蔵人に与えたところ、兵衛の蔵人は「雪月花の時。」と申し上げたので、天皇は大変すばらしいとお褒めになり、「こういうとき、和歌を詠んだりするのはありふれている。時宜にかなったことを言うほうが難しいのだ。」とおっしゃった。

この「雪月花の時」というのは、白居易の「雪月花時最憶君」=「雪月花の時、最も君を憶(おも)う」から取られています。ここでも、新しい歌をつくるより、タイミングのよい引用をする能力が評価されています。

もうずいぶん昔で記憶もさだかでないのですが、とあるニュースグループでこんな議論がありました。ある有名歌手にパクリ疑惑があがりまして、あの歌に似ている、いやこの歌に似ているという感じで盛り上がっていたのですが、ある人が「あれはパクリではない。オマージュである。そもそも、音楽において基本的なメロディラインは出つくしている」ということを言い出しました。そのニュースグループでは「ヘリクツ言うなボケ」みたいな反応がほとんどだったのですが、私にはけっこう印象に残る発言でした。

実際、メロディというのはどれだけの種類があるのでしょうか。まずは音楽の種類をうんとせまくして計算してみます。「ドレミ〜ドレミ〜ソミレドレミレ」と聞けば、「さいた、さいた、チューリップの花が」なわけですが、これを「ドレミファソラシ+休符」の8種類が、16個並んでいるとみなすと、8の16乗。これは、これは、日本語の清音・濁音・半濁音・拗音、約100音をでたらめに7文字並べる組み合わせと、だいたい同じぐらいの個数です。

もっとも、完全にランダムな配列が意味をもつ確率を考えると、音楽のほうが言語よりは融通がききそうです。また、4分音符でなく8分音符まで許せば、場合の数は一気に2乗になります。たぶん、4小節で作れるメロディは、俳句と同じぐらいの数じゃないかという気がします。コード進行はたぶんとっくに枯渇しているはずですが、メロディのほうはまだもちそうです。ちなみに、俳句の組み合わせというのは、今から全人類60億人が1秒に1000句ずつ俳句を作ったとしても、太陽系がほろぶ50億年後までに俳句のすべての組み合わせを網羅することができないぐらい、たくさんあります。

こういう話をしていると思い出すのは、ホルヘ・ボルヘス伝奇集』に収められた「バベルの図書館」です。その図書館には、この世界にありえる本がすべて収蔵されているとされます。この世界の文字の数は有限、その組み合わせも有限。長編は分冊することにすれば、この世界にありうる文章の数は有限。したがって、あくまで理論上の話に過ぎませんが、そのすべてを所蔵する有限の図書館を考えることは可能です。

さて、あなたはまだ誰も解いたことのない難問をかかえて、その図書館を訪れます。そして、一人の司書にその問題を話したところ、司書は一冊の本を探しだして、あなたに渡してくれます。なんと、その本には、あなたの問題の答えが既に書いてあったのです!

たとえ話をもう一つ。あるコンピュータは、この世界に存在するすべての文字列を打ち出しています。最初にこの世界にあるすべての文字を打ち出し、次にそれらの文字を2字組み合わせた文字列を打ち出し、次にそれらの文字を3文字……とやっていくわけです。理論上、コンピュータが打ち出す文字列の中には、シェイクスピアの作品がすべて含まれている。いや、そればかりでない。そこには、シェイクスピアがもし長生きしたら書いたであろう新作すら含まれているのです!

さて、ここで考えてみます。バベルの図書館には、あなたの問題に対する答えが「あった」と言っていいでしょうか? あるいは、このコンピュータはシェイクスピアと同じ能力をもっていると言っていいでしょうか?

答えは明らかにどちらもノーです。あなたの悩みの解決法を知っていたのは、図書館ではなく、司書です。また、コンピュータがシェイクスピアの新作を打ち出したとしても、そのことをだれかが教えてくれないと話になりません。その「だれか」が、シェイクスピアと同じ能力をもっているはずです。

ここにあるのは、「創造」という行為に最も近づいた形での「引用」です。文章を創作するとは、有限の言葉の組み合わせの中から、最もふさわしいものを選択することです。ここまで極端ではなくとも、「引用」という行為は十分創造的であると言っていいと思います。

既に見たように日本では、時宜にかなった引用をする技術というものが高く評価されてきました。それは、的確な引用をなすということは、過去の文学作品に対する巨大なデータベースをもち、さらに、それを検索するという高度な技術を必要としたからです。しかし、現代では、情報技術の発展が、徐々にその困難をカバーしつつあります。その意味で、情報リテラシーのいくつかは、1000年前から価値あるものとされていたのです。

たぶん、まったくゼロからの「創造」なんてものは、人間には無理なのではないかと思います。人間の知的活動の根本が「引用」であるならば、情報化の進む現代はまことに幸せな時代であると言えるのではないでしょうか。