遥かなるケンブリッジ、『国家の品格』、一条の軌跡

 彼女は深呼吸を二度した。三度目の深呼吸の後、さすがに手に汗がたまったのか、掌をドレスの腰に押しつけた。そして表情を一段と厳しくすると、ガルネリを左肩にかついだ。いよいよである。私は心の中で、「行け」と鋭く号令を掛けた。
 静まり返った中を、彼女が弦に当てた弓をすーっと引いた。物凄いとはこのことだった。「圧勝だ」と思った。音とも思えぬ、澄み切って玲瓏な何かが、縦になった弓の延長に沿って、茫々たる空変の中を、一条の軌跡を描きながら、ゆるゆると舞い上がって行ったのである。私は衝撃に息もできぬまま、耳を凝らしていた。ロイヤルフィルが共鳴箱にしか見えぬほどの素晴らしい音だった。私は音楽的感動と愛国的感動の波に手荒くもまれながら、じっとしていた。
 終了後に楽屋で彼女に、
「すごかった。ものの十秒で日本の圧勝を確信した」
と言ったら、さもおかしそうに笑ってから、
「聞いたことのない批評だわ。でも本当はそういうのが一番嬉しい」
と言った。
 帰りは最終電車になった。ケンブリッジ駅の長い長いプラットフォームに降りた時は十二時を回っていた。珍しい星空の下、ケンブリッジの町には冷気が張り詰めていた。私は寝静まった街路を足早に歩きながら、よし今度は自分が蹴散らしてやろう、と思った。

藤原正彦遥かなるケンブリッジ』より

藤原正彦は、数学者。彼がイギリス滞在中に、友人のヴァイオリニスト堀米ゆず子さんの演奏会を聴くシーンです。この時、イギリスでの講演を控えていた藤原正彦は、ロイヤルフィルオーケストラの中で演奏する堀米さんに、西欧文化に単身対抗する同じ日本人としての共感を感じています。

演奏が始まる直前の緊張感、ヴァイオリンが奏でる音の見事な表現、最後の場面から伝わってくる若い血がたぎる熱さ。どれも最高です。

この文章は、日本女子大学附属高校の入試問題で出題されました。堀米さんの「でも本当はそういうのが一番嬉しい」という発言に傍線を引き、「そういうの」の説明として最も適切なものを選べ、という問題でした。高校側が用意した解答は、「理屈ぬきで日本人としての共感と感動を伝えるもの」。

「理屈ぬき」というところが的確といいますか、少し面白いです。「そういうの」という指示語は、直前の「日本の圧勝を確信」という発言を指しているわけですが、当然ながらヴァイオリニストとオーケストラの利害が相反していることはないので、勝った負けたという表現は確かに変と言えば変です。

なお、文中に「共鳴箱」という表現が使われています。数学の世界では、数学を進歩させるのはごく一流の天才のみであり、三流以下の数学者はその結果のあとを追いかけているだけだ、という考え方から、「共鳴箱」という揶揄があるようで、それをふまえたものでしょうか。この日記なんかが質の悪い共鳴箱の例ですね!

藤原正彦は現在『国家の品格』がベストセラーになっています。その批判として、著者の議論が非論理的であるとか恣意的に過ぎるとか言われていますが、まあ、「愛国」などというものは、もともと理屈なんてないようなものなんじゃないかという気もします。だって「愛」ですよ「愛」。愛に理屈いらんでしょ。

私が思うに、藤原正彦の真骨頂は、冒頭に引用した部分で言えば、「掌をドレスの腰に押しつけた」とか「一条の軌跡を描きながら、ゆるゆると舞い上がって行った」とか「町には冷気が張り詰めていた」とか、感覚的なディテールと結びつき、臨場感の中でこそいきいきと働くものです。そこから主張だけとり出して『国家の品格』みたいに言いたい放題やれば、そら「ちょっとまってくれ」と言いたくなる人が続出するのも分からんでもありません。

考えてみれば、数学者が意識する「論理的かどうか」の基準というのは、世間一般の基準からすると、とてつもなく厳密なほうにズレているはずです。そういう意味では、数学者というのは、世間一般の「論理的」レンジから見て、チューニングがおかしいのかもしれません。同じ数学者の加藤和也岡潔のぶっ飛び具合はもはや感動的です。

個人的には『国家の品格』より、この『遥かなるケンブリッジ』か、『若き数学者のアメリカ』がベストセラーになるといいなーと思います。