無限の時間を取り出せないか、オメガ・ポイント、確実な「死」を

我々の人生は有限に決まってますが、しかし、ここから無限の時間を取り出すことはできないものでしょうか? 今日は、人間にとって時間とは何か? そして、永遠の生を得るために必要なものについて考えます。

  去年今年こぞことし貫く棒の如きもの   虚子

 子どものころは、一年がもっと長かったように思うが、最近は、年のたつのがずいぶん早いように感じる。ここ数年、年末からお正月にかけて静かにものを考える時間に恵まれると、私の思いは、どうも過ぎていく時間にとらわれてしまうようだ。そんな場合、心の中で私が向き合っているのは冒頭の祖父の句である。
 去年、今年といっても何も変わったわけでもない。ただいつもとおなじ時間の経過があっただけなのに、人は連続した時間に区切りをつけて新しい意味をもたせる。しかし、いくら区切ってみてもそれは棒の如きもので貫かれた断つことの出来ない時間である。このようにずばりといわれると、普段、仕事に追われて惰性で時を過ごしている私は、はっと胸をつかれるのである。(中略)
 人は、時間の中を旅する旅人であるが、旅人にとって、体験する時間は決して均質に経過するものではない。意味ある時間を多く過ごした人ほど、より善く、より長く生きてきたことになるのではなかろうか。時間という旅人と、その中を旅する人の出会いは、まさに一期一会である。
  わが果てぬ旅路なるべし去年今年  汀子

稲畑汀子の文章より

俳人高浜虚子の孫娘である稲畑汀子が、祖父の句について語った文章です。

稲畑汀子が書くように、この「貫く棒の如きもの」とは、人間がいかに区切ろうとも断つことのできぬ時間の連続性と解釈されるのが一般的です。

大岡信は『折々のうた』の中で、この句について「新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう。」と評しています。

外務大臣麻生太郎が、「靖国に弥栄(いやさか)あれ」と題された文章の中で、この句を引用していました。麻生は、靖国にあるのは「日本人の『集合的記憶』」であり、それをむげにすることは、「日本という国が、自分を見失」うことにつながると書いています。そういう、死者にまつわる「一切合財を含む記憶の集積」を、彼は「棒の如きもの」とたとえたのです。

さて、私は、こうも思います。この句は、「時間」という連続したものであっても、人間は、「去年今年」という区切りの中でしか認識することができない、ということを言っているのではないか、と。

例えば、この句を「時間とは貫く棒の如きもの」としたら、何がなんだか分かりません。「貫く」とは「こちら側から反対側まで突き通る」(大辞泉)ことなのであって、そもそも何らかの「区切り」があって、初めて意味をもつ言葉だからです。

すなわち、連続する時間というものがまず存在して、それを人間が区切るのではなく、「区切り」というものがまずあって、初めて「時間」というものを人間は認識できるのではないか。そして、その「区切られた時間」というものこそ、人間にとって正しく時間の姿なのであって、過去へ未来へと永続する時間というものは虚構なのではないか。

ところで、みなさんは「初頭効果」「終末効果」という言葉をご存じでしょうか? ある決められた時間内で作業をするとき、開始直後と終了直前に生産性が上がる、という現象です。

いきなりショボイ話になりますが、この、時間を区切ることで生産性を上げるというメソッドは、自己啓発関係ではけっこう有名なものだと思います。私は、この手の話が大好物なので、ちょっと思いつくまま例を挙げます。

野口悠紀雄続「超」整理法・時間編』では、「自分で期限を切る」こと、例えば「他人と約束をすること」で、時間を無為に過ごすことがなくなると説きます。池谷裕二海馬―脳は疲れない』では、1時間の作業をやるとき、30分が2回あると思うことで能率が上がると指摘します。吉田たかよし脳を活かす! 必勝の時間攻略法』では、15分ずつに区切ってタイマーで計ることで時間を認識しやすくなると述べます(筆者は「角砂糖効果」呼んでいます)。

まだいくらでも挙げられますが、このように区切りを入れることで生産性を挙げる、という手法が存在することは、人間の時間認識のしかたについて、何かのヒントになるように思います。

もっとも、「終末効果」という言葉を単純にうのみにすることはできないと、私は思います。例えば、Googleで"終末効果"を検索して出てくる200件ほどのページすべてにざっと目を通しましたが、この効果に関する定量化された根拠を見つけることはできませんでした。

だいたい、単に「時間を区切れば終了直前に生産性が上がる」のであれば、夜寝る直前にバリバリ活動することになってしまいます。それに極端な話、この理屈でいけば時間を1分ずつ区切って仕事をすれば、めちゃくちゃ生産性が上がるわけですが、そんなことないですよね。

どうやら、単に時間を区切ればいいというものではない。その「区切り」には、ある条件が必要なのではないか、と。

ずばっと、私の考えを書けば、必要なのは「死」です。その先に、「死」があること。

ラインホルト・メスナーナンガ・パルバート単独行』に、興味深い記述があります。登山中に崖から転落して、奇跡的に生還した人間の主観的意識についての記述です。

「まず痛みを感じない」「不安も絶望も苦痛もない」「思考活動は非常に活発で、頭の回転の速さは平常の数百倍にも達する」「客観的時間が主観的にはずっと長く引き延ばされている」「電撃のごとく行動し、正しく熟考している」「判断はあくまで明確に客観性を維持し」「電光石火のごとき行動をとることができる」

さて、いったい何が起きているのでしょうか? 例えば、転落時の痛みを感じない、ということを生理学的にどう説明すればいいのでしょうか。βエンドルフィンなどの脳内麻薬が分泌された? しかし、脊髄に直接これらの物質を注入しても、効果が出るのに1分はかかるそうなんですけど。また、現在知られている脳内物質では、このような思考速度の加速が説明できるとは思えません。

ならば、人間には、もともとそれだけの力がある。そう考えるしかないでしょう。

この話は、物理学者フランク・ティプラーの「オメガ・ポイント」を思い出させます。オメガ・ポイントとは、ここでは、宇宙がビッグクランチ(ビッグバンの反対で、宇宙が1点に収縮すること)で終わるとした場合、その時空の最後の1点を言います。

Wikipediaの「宇宙の終焉」の項から引用しますが、ティプラーは、オメガ・ポイントにおいて、「ビッククランチから膨大なエネルギーを取り出し、終末が近づく以上に、生命活動をクロックアップし、有限の残り時間から無限の主観時間を取り出す」可能性に言及しています。

クロックアップ」というのは、例えば、こういうことです。最初の半年で主観時間を2倍にする。すると、次の半年が、1年間に感じられる。で、その1年間のうち半年を使って、再び主観時間を2倍にする。すると、次の3ヶ月が1年間に感じられる……。これを続けていけば、わずか1年が、永遠へ変わります。

もちろん、このクロックアップは、現状の人間の脳では、ハードウェアの制約上、難しいと考えられます。ですから、ティプラーは、計算機内のシミュレーション内の生命体が、現実と同じ意識をもつ、との仮定の上で話しています。また、最新の観測結果によれば、おそらく宇宙は、ビッグクランチで終わらないだろうとも言われています。そのへん、実現可能性は厳しい感じです。

しかし、なんとも魅力的な考えです。有限の時間から、無限の時間を取り出す!

まあ、ここまで強烈なものではなくとも、〆切直前に力を発揮する、なんてのは、我々の日常茶飯事です。この力は、単に時間を区切るから発揮できるのではない。区切られた時間の向こうが、ある意味「死」にあたるものだからこそでしょう。その時点に達したら、自分の何かが「終わる」という感覚が大事だということです。

というわけで、問題は、いかにして、我々は日常に「死」をとり入れるか、ということになりました。それも、不確定な未来の「死」、キャンセルできる曖昧な「死」ではなく、確定した、ある1点に待ち受ける確実な「死」を、です。

冒頭に引用した文章で、稲畑汀子は、人が体験する時間は決して均質ではない、と指摘しています。その通りでしょう。では、「より善く、より長く生きて」いくためには、いったい何が必要なのか。それが、確実な「死」ではないか。

もっと普通の言葉を使えば「死ぬ気でやれ」。あらら、ずいぶん凡庸な結論ですな。というわけで、「死ぬ気でやれば、なんでもできる」っていうのは、イイスギではなくて、論理的に、文字通り、真実なのかもしれないよ、ということを、今回の結論にしたいと思います。だって、死を前にした我々には、無限の時間があるのですから。