変わること、盲点、雪しずり

 知識というものは、実は自分を変えるものなのである。たとえばガンの告知を受け、自分がガンであるということを知れば、知った瞬間に咲いている桜が違って見える。それは桜が違うのではなく、知ることによって自分が変わるからである。

養老孟司異見あり―脳から見た世紀末』より

この文章は、正岡子規の有名な短歌「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」を想起させます。病床の身であった子規の「我目には」、その春が「今年ばかりの春」だと感じられたという、胸うつ歌です。

話は飛びますが、人間には「盲点」(盲点 - Wikipedia)があることはよく知られています。人間の視野には、目の構造上、どうしても見えない部分がある。では、その「見えない」部分はどこにあるんでしょうか。あなたや私の視界には、「見えない」部分がある。「見えない」んだから、その部分だけまっ黒になっていてもおかしくないはずですが、そんな場所はどこにも見あたりません。

他にも、人間の視覚には興味深い性質があります。池谷裕二進化しすぎた脳』によると、人間の網膜の周辺部分には、色を感じる細胞がないそうです。少ないのではなく、「ない」。つまり、人間は、視野の周辺では色を感じていないはずで、実際、色のついたペンを視界の外からそっと視界の中に入れてみると、何色だか答えることができません。なのに、私には、視界のすみずみまで色が「見える」という感じがします。

なぜ見えていないはずのものが見えるのか? それは脳が無意識下で周辺の視覚情報をもとに勝手に情報を補ってしまうからです。要するに、人間は、「見えないものは見えない」わけですが、もっと強く、「見えてないということそのものが見えない」わけです。

これはたぶん人間の認識一般に言えるのでしょう。我々の認識の中にあるのだけれど、実は見えていないもの。しかし、我々はそれが見えてないということを認識できないもの。そういうものがある。

もちろん、目で見えるかどうかの話は眼球の生物学的な構造によって決まっていることですから変えるのは難しそうです。でも、脳のニューロンの接続なら変えうるのではないでしょうか。

私は子供の頃、辞書で、「雪しずり」という言葉を知りました。「雪が木の枝などからくずれ落ちること(広辞苑)」です。この言葉を知る前の私の世界には、「雪しずり」はなかった。いや、もちろん「雪が木の枝などからくずれ落ちる」という現象はありましたが。それを「雪しずり」と命名することが、その音のイメージが、突如として私に、その現象のひそやかな、かそけき美しさを感じさせることになりました。

フランス話では、会話の途中にふと訪れる沈黙を"un angel passe"と言うそうです。直訳すると「天使の通過」。会話から排除すべきと思われた沈黙を、天使が通りすぎる心豊かな瞬間と見なすためには、この言葉を知っていることが大きな力になります。

「滝の上に水現れて落ちにけり」とは、後藤夜半の句です。私はこの句を知って以来、滝が地形にそって流れている水というふうに認識できません。滝は、滝だけで、確固としてその場に立っているようにしか思えないのです。

ただ一つの言葉によってすら、自分は変わっていきます。

実のところ私は、変わっているのは、認識ではなく、本当は対象そのものではないかと思うのです。いやいや主観が客観を変えるなんて、そんな馬鹿な話はない、でしょうか。

この日記は、そのささやかな実験です。