人はなぜ死ぬのか、絶望、祈り

 自分が、いままさに死にゆかんとしていることを知らないままに死んでいく人間などいないと、ぼくは思う。そうでなければ、人間が死ぬ必要などどこにもないではないか。人間は、そのことを思い知るために、死んでいくのだ。有吉の死後、ぼくが読書すら放擲して考えつづけたことは、それだった。だが何のために、そんなことを思い知らなくてはならないのか、ぼくには判らなかった。それを考えると、なぜかぼくは何かに祈りたくなるのだった。

宮本輝星々の悲しみ』より

人はなぜ死ぬのでしょうか?

単細胞生物には死がありません。より進化した生物であるヒトが、死の機構(たとえばテロメア)をもつのは、それが進化上有利だったからでしょう。たとえば、紫外線などにより劣化した遺伝子を後世に遺すことは、種として不利なのかもしれません。

仏教においては、万象は生住異滅・諸行無常・生々流転が本来ですから、死は一つの自然です。しかし、これでは「死ぬから死ぬんだ」と言われているような気もします。

もし私が造物主なら、人間を死すべきものとしてつくるでしょう。そうしないと、人間は自分を信仰してくれないような気がします。

フーテンの寅さんがこの質問に答えていたのをご存じの方もいるかもしれません。人間がいつまでも生きていると、陸の上が人間ばかりになってしまい、おしくらまんじゅうしているうちに海に落ちるやつが現れて、アップアップして死んじゃう。

よく、「人は死ぬ。だからこそ限りある命を精一杯生きようとするんだ」というようなことが言われますが、本当かなあと思います。少なくとも私は、寿命が有限の今でも精一杯生きている自信がありませんし、寿命が無限になったらなったで、この世界の理論的限界につきあたるまで勉強を続けたいと思います。マハトマ・ガンジーの言葉に、「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学びなさい」というのがあります。少なくとも、学びに関しては長生きが望ましいところで、これが人という生物を長寿にしている理由の一つでしょう。だから、私は、ニンゲン別に死なんでもいーのになー、と思います。

冒頭に引用した「星々の悲しみ」で、主人公の「ぼく」は親友である有吉の死に直面します。「ぼく」が病院を見舞ったとき、有吉は末期のガンでした。有吉の深い絶望を見て、「ぼく」は何かに祈りたくなります。「逃れようのない決定的な絶望に勝つためには、人間は祈るしかないはずだった」と「ぼく」は感じます。

ここには、「人間が死ぬ必要」がはっきりと書かれています。人間は、「自分が、いままさに死にゆかんとしていることを思い知るために、死んでいくのだ」。

「ぼく」と同じく、私にも、なぜ人がそんなことを思い知らなければならないのか、理由は思いつきません。しかし、ここで「いままさに死にゆかんとしている」という言葉には少しこだわっておきたいと思います。自分が「いままさに死にゆかんとしている」かどうかは、どのように判別されるのでしょうか?

小説中、「ぼく」が有吉を見舞うシーンでは、有吉の病状が深刻であるむね描写されており、有吉が「いままさに死にゆかんとしている」であろうことは、そもそも疑問の余地がありません。しかし、考えてみれば、末期ガンでも治っちゃうことはあるわけですし、死ぬといっても今日・明日というわけでもありません。

日本人の平均余命を調べてみますと、20歳では、男性21500日、女性24100日。30歳では、男性18000日、女性20500日。40歳では、男性14600日、女性17000日ぐらいです。

では、この余命が何日以下になったら、人間は「いままさに死にゆかんとしている」ことになるんでしょうか。ナンセンスな問いですね。一休和尚が正月にいやがらせをしてまわったように、人間は、生まれた瞬間から冥土への旅、「いままさに死にゆかんとしている」のです。

人間にとって、「いつか死ぬ」ことに意味があるのではなく、「自分はいつか死ぬのだと思い知る」ことにこそ意味があるのかもしれません。そこには、絶望があり、祈りがあります。ただ、それがどんな意味をもつのか、私には相変わらずよく分かりませんが。