ショアー、カタルシス、語りえぬもの

なかなか見分けられませんが、ここでしたね。そう、ここですよ、人を焼いたのは。
大勢の人がここで焼かれました。そう、まさにこの場所です。

いったん、ここへ来たが最後、だれも生きては出られませんでした。

ガス・トラックが到着したのは、ここ……。
大きな焼却炉が、二つありましてね……。
着くたびに、死体を投げ込んだんです。炉の中にね。
すると、炎は天まで立ち上がりました。

     [インタビュアー]天まで、ですって?

そうです。恐ろしかった。

あれ、あれはね。言葉にするわけにいきませんよ。
どんな人にも、ここで行われたことは、想像できません。
無理です。だれにも理解は、不可能です。
今、考えたって、ぼくにももう、わからなくなっているんですから……。

クロード・ランズマンショアー』(高橋武智訳)より

ショアー」はナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(いわゆるホロコースト)をあつかった映画です。冒頭に引用したのは、40万人が殺されたと言われる絶滅収容所ヘウムノからの、たった2人の生還者のうちの1人、スレブニクが、映画の冒頭で監督ランズマンのインタヴューを受けるシーンです。

スレブニクは、「ここで行われたこと」について、「言葉にするわけにいきません」「想像できません」「理解は、不可能です」と語ります。大変印象的なシーンです。しかし、かつて確かに行われたはずのことが、言葉にできず、想像もできず、理解すら拒絶するというのは、いったいどういうことでしょうか。

ホロコーストを題材にした映画ではスティーヴン・スピルバーグシンドラーのリスト」も有名です。岡真理は『記憶/物語』の中で、スピルバーグの「プライベート・ライアン」の「リアルさ」について、次のように語っています。

言いかえれば、スピルバーグの描く戦場シーンは、言葉で説明できるもの、炸裂する砲弾、四股をもぎとられる兵士、舞い上がる粉塵……等々、再現できるものしか再現されてはいない。説明できない出来事、抑圧された記憶は、登場しない。あたかも、そのようなものは存在しないかのように。出来事の現実〈リアリティ〉とは、まさにリアルに再現される〈現実〉からこぼれおちるところにあるのではないか、という問いはスピルバーグには存在しない。

岡真理は、現実とは再現されたものから、「こぼれおちるところ」にあると言います。ホロコーストを、言葉であれ、映像であれ、再現した瞬間に、もうそれはホロコーストではないということです。

小林康夫船曳建夫知の論理』で、高橋哲哉は、「ショアー」が「事象そのものが《見えない》ということを証言する映画」であると述べています。そして、「シンドラーのリスト」は、観客を感動させ、カタルシスを与えることで、結果として「ホロコーストが何であったか」を忘却させてしまう、というランズマンの批判を紹介しています。

私は、その事件の当時者ですらホロコーストを語ることができない、ということに驚きます。もちろん、ホロコーストという事件は特異点だ、例外だ、と考えることもできます。しかし、ランズマンが「シンドラーのリスト」に対して行った批判にある、感情の浄化による排泄(カタルシス)という構造は、私たちが自分の過去を思い出すときにも、必ずついてまわるもののように思います。

私たちは、過去をふりかえっては、「あの頃の自分はこんなものに夢中になった」とか「つらかったけど、だから今の自分がある」など、物語をつくっていきます。それはとても楽しい作業であり、すべからく全ての過去は「いい思い出」となります。ですが、それは実は、過去を浄化していく、もっとはっきり言えば、忘却していく行為であったのかもしれません。

就職活動などで「自己分析」を行ったり、退職後に「自分史」を書いたりすることで、「自分が分かった」という気になるのは、実は、自分の過去を「思い出した」からではなく、過去に存在した現実を忘却し、そぎ落として、自分という存在を単純化したからではないか。

もっとも、私たちは、毎日フロに入っては、垢(かつて自分だったもの)を洗い流しているわけです。過去を忘れることで、未来に向かう活力が湧いてくるのなら、それを批難する筋合いは別にありません。過去をまったくもたない赤ちゃんこそが最も幸せそうです。人間にとって、「自分」などというものは重すぎるのかもしれません。

ただ、そうやって感動の涙で洗い流してはいけないものも確かにあります。ホロコーストはそういうものですし、我々日本人にとっては、例えば太平洋戦争の記憶などがそういうものかもしれません。私自身の個人史にも、そういう「語りえぬもの」はあるようです。