名言ジェネレータ、無限フィードバック、釈迦アルティメット

吉田兼好徒然草』の「高名の木のぼりといひし男」の話は、ご存じの方も多いのではないでしょうか。「あやまちは、やすき所に成りて、必ず仕る事に候ふ」。今日は、この名言を徹底して一般化し、極限まで飛ばすことで、世界の究極の法則について考えます。

 高名の木のぼりといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼせて梢をきらせしに、いとあやふく見えしほどはいふこともなくて、おるゝ時に、軒だけばかりになりて、「あやまちすな。心しておりよ。」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るゝともおりなむ。如何いかにかくいふぞ。」と申しはべりしかば、「その事にさうらふ。目くるめき枝危きほどは、おのれがおそれ侍れば申さず。あやまちは安き所になりて、必ずつかまつることに候。」といふ。あやしき下臈げらふなれども、聖人のいましめにかなへり。まりもかたき所を蹴出して後、やすくおもへば、必ずおつと侍るやらむ。

吉田兼好徒然草』百九段より

ヘルシー吉田、相変わらずキレまくりですね。この人が現代に生まれてブログを書いていたら、きっとアルファブロガーと謳われていたことは間違いないでしょう。

訳しておきます。

有名な木のぼりの名人が、人を高い木にのぼらせて枝を切らせていた。高くて危険そうなところでは何も言わず、降りはじめて、軒先ぐらいの高さになってから「失敗しないように、気をつけろ」と声をかけていた。「このぐらいの高さなら、飛び降りたって降りられる。どうしてこんなときに言うのかね」と聞いたところ、「そこなんです。目がくらむほど高い場所や、枝が折れそうなところでは、自分で注意しますから私は何も言わないのです。失敗というのは安全なところになってから、必ずやるものなんです」と言う。いやしい人間の言葉であるが、『易経』の「君子、安くして危うきを忘れず」に適う名言だ。サッカーでも、ゴール前ドフリーの状態で、絶好のボールだ、と思った瞬間にアウトサイドで蹴って外してしまうものだ。

というわけで、今日は、この「あやまちは、やすき所に成りて、必ず仕る事に候ふ」という言葉について考えます。兼好法師トラックバックを送れないのが残念です。

「あなたが最も安全だと考えているところこそ、実は最も危険なところなのだ」。実に至言です。逆説的な言いまわしの中に、人間の感情の機微を巧みにとらえています。

しかし、これ、この形の文章であれば、内容はどうでもいい気がしてきました。

  • 「あなたが最も困難だと考えている仕事こそ、実は最も容易な仕事なのだ」 → 困難な仕事は最初から手をつけないことが多いため、心理的バリアが高く、仕事量も的確に見積れていないことが多い。思いきってやってみれば、案外簡単に終わるものだ。
  • 「あなたが最短距離だと考えている道こそ、実は最も遠回りな道なのだ」 → 最短距離だと思ってそこばかり通っていると、自分自身が成長せず、環境の変化にも対応できない。あえて遠回りをすることで、結局は目的地まで早く行くことができる。
  • 「あなたが最も気に病んでいることこそ、実は最も重要でないことなのだ」 → いつまでもくよくよと気に病むのは、それについてあなたが努力できることが何もないから。もしできることがあるなら、それをやるべきだし、できることがないのなら、すぱっと忘れてしまおう!
  • 「あなたが最も許せないと感じている人こそ、実はあなたが最も許すべき人なのだ」 → だれかに憎しみを感じるときは、あなた自身の問題がそこに隠れていることが多い。その問題に正面から向きあうためにも、まずは相手に心を開くこと。そうすれば、息子のいじめも解決! 9割が泣く!

おおっ、なんでもできるじゃないですか。「無知の知を知れ」だったら、「あなたが知っていると思っていることこそ、実はあなたがきちんと理解していないことだ」になりますし、古今の名言の大部分がこの形に書けるような気がしてきます。

この「あなたが最もXだと考えるものこそ、実は最もXではないのだ」という形式は、名言ジェネレータと言っていいのかもしれません。もともと、名言というのは、認識の転換をせまるものですから、逆説的になるわけですし、そんなに無茶な話でもなさそうです。

しかし、よくよく考えてみると、この教え、なんだかちょっとおかしい気がしてきました。私は、次の「ホフスタッターの法則」を思い出します。ちょっと、考えてみてください。

ホフスタッターの法則「ものごとは予想以上に時間がかかるものである。たとえ、ホフスタッターの法則を考慮に入れたとしても」

こいつは、デスマーチに陥って破綻したプロジェクトの渦中にあるシステム屋さんには、大変身にしみる法則かと思いますが、さて、この、「この法則自身を考慮に入れたとしても」という文言を、「高名な木のぼり」の教えに適用すると、どうなってしまうのでしょうか。

まず、木にのぼっている人は、最初に「低いところは安全だ」と思うわけです。ところが、「高名な木のぼり」の教えによれば、そこは安全ではありませんでした。したがって、その人は認識をあらため、「低いところこそ危険だ」と考え直します。ということは、「高いところ」はより安全になるわけですが、もしその人がそう考えたら、その瞬間、教えが発動し、「高いところ」は危険な場所となります。

要するに、この教えは、結論を意識にフィードバックさせた瞬間に、一気に無限循環を起こして停止しなくなってしまうのです。

では、この教えは無意味なのかというと、もちろんそんなことはありません。

この教えをもう少し厳密に考えてみます。この教えは、「あなたが、あるものAをXだと思ったならば、AはXではない」という教えと、「AがXでないのなら、あなたはAをXだとは思わない」という当たり前の思考の組み合わせです。この2つはどうみても矛盾していますが、もしそうだとしたら「高名の木のぼり」の教えは無意味です。

ところが、この2つは実は矛盾していないのです。どうしてかというと、「あなたが、あるものAをXだと思った」という前提が成立しなければいいからです。無限循環の最初のところで止めてしまうわけです。

木のぼりの場合は、「ある場所は安全だ」などと考えずに「すべての場所は危険だ」と考えればいいわけでした。しかし、「すべての場所は危険だ」ということであるならば、そもそも「安全」か「危険」かを考えている意味がありません。何も判断していないのと同じです。

ということで、「あなたが、あるものAをXだと思う」ということ自体を止めるのが肝要なのですが、ここでAとXはなんでもよかったのですから、この結論の言わんとしていることは、すべてのAとXについて「AはXだ」という判断自体を停止しろ、という結論であったことが分かります。とんでもない結論になってきました。

これは仏教で言う諸法無我なのでしょうか。だとすれば、釈迦の教えというのは、世界の名言が究極的に言わんとするところを、ほとんど包含していることになります。さすが仏陀です。

木にのぼっているときは、「ここは安全か?」などといちいち考えず、常に木の形状と自分の姿勢に最適化された動きをすることに専念せよ、ということでしょう。バッターボックスに立ったときは「自分にはヒットを打てるか?」などと考えずにバットを振れ、ということです。夢にむかって進むときに「自分には可能性があるか?」などと考えず、目の前のことに全力を放て、ということです。ブログを書いているときは、「これはいい文章か?」などと考えず、とにかく「更新」ボタンを押せ、ということです。おおっ、こりゃラクだ。

というわけで、今日はこんな感じで。ポチっとな。