目には青葉、12個の「ココナッツの実」、若さゆえの過ちというものを

「五月雨や 大河を前に 家二軒」の「を」、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の「は」など、日本語の助詞の働きは実に繊細です。一方で、日本語と検索エンジンは相性がとても悪かったりします。今日は、助詞の用法から日本語の面白さについて考えます。

 さみだれや大河を前に家二軒  (与謝蕪村『蕪村句集』)
 蕪村の句、「大河を前に家二軒」がいい。「大河の前に家二軒」としたのでは、句が死んでしまう。蕪村がこの句を詠んだ時、彼の娘が嫁ぎ先から離縁されるという事態にあった。そうした苦悩がよく表現された句である。
(出典不明)

「大河を」と「大河の」。「を」と「の」という助詞の微妙の差について、鋭い指摘です。

こんな入試問題がありました。次の3つの俳句の意味の違いを説明せよ。

  • 米を洗う前にホタルの二つ三つ
  • 米を洗う前をホタルの二つ三つ
  • 米を洗う前へホタルの二つ三つ

なるほど、確かに違う。「前を」というと「横切る」とか「渡る」など動きを表す言葉が連想されます。「前に」だとホタルがそこに「いる」ことに焦点があり、動きがない。「前へ」なら「前」が終着点で、向こうからすっとやってきて止まる感じ。「を」には躍動感があります。「海にゆく」「海をゆく」「海へゆく」でも同様の違いが感じられるでしょう。

「〜を前に」という言い方には、ものがこちらにせまってくるという「動き」のイメージがあります。「試合を前に」と言ったら、試合がもうすぐそこにきている緊迫感がありますが、「試合の前に」なら、試合までいくばくかの猶予を残す。「本人を前にして」と言ったら、その人が何かしらの印象や威圧感をこちらに与えていますが、「本人の前で」と言ったら、その人を差し置いてこちらだけで何かをしている感じです。

「大河を前に家二軒」というのは、五月雨を集めてどうどうと流れる大河が、今にも「家二軒」を飲みほしてしまいそうな感じがするということです。

助詞の用法について、さらに微妙なところをついてくる俳句があります。山口素堂の「目には青葉 山ほととぎす 初がつお」です。

この俳句は、よく「目に青葉」と間違われます。Googleで「"目に青葉" 山ほととぎす -"目には青葉"」を検索してみると、935件。私の職場の近所のとある学習塾は、広告に必ず俳句や短歌を掲載して一言コメントをつけているのですが、ある時この「目に青葉」があったので、まさに、orz、という感じでしたよ同業として。「山口素堂」という作者名つきで掲載する以上、原典を改竄かいざんしちゃいかんでしょう。

字余りが許されるのは、母音が連続する場合です。例えば、百人一首の「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人にはつげよ 海人あまの釣り舟」(参議たかむら)では、「こぎいでぬと」のところが字余りですが、「ぎい」が"gi-i"というi音の連続なので字余りでも許される。これは、本居宣長の指摘です。ですから、「めにわあおば」も、「わあ」のところがa音の連続なので大目に見ていい、はずなのですが、さすがに文節の切れ目のところだと違和感がありますね。

しかし、山口素堂は、違和感をものともせず「目には青葉」を選んだわけです。ここには、「は」の用法についての深い考察があったはずです。

「は」には「対比」の働きがあります。「ペンギンは空を飛べません」という文を考えてみます。この文の「ペンギンは」の「は」を「が」に変えることはできません。これは「ペンギン」を他の鳥と対比して語っている文章だからです。つまり、「ペンギンは飛べません」という文章は、その背後に「ニワトリは飛べます」「スズメも飛べます」……という文を隠している。

ということは「目には青葉」の場合も、「目」と対比される何かが隠れているということです。

「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」という句をもう一度よく味わってみると、「青葉」は視覚、「ほととぎす」は聴覚、「初鰹」は嗅覚であることが分かります。ということは、「目には」と対比されているのは「耳には」「鼻には」なのでしょう。五感全体を使って夏をフルに感じようとした素堂は、季重なりに頓着せず「青葉」「ほととぎす」「鰹」という3つの季語を使い、さらに字余りをも躊躇せずに「目には青葉」を選んだのだろう、と想像します。

さて、ここで、たった一文字のひらがなにここまで意味を込められるとは、日本語は実に楽しい言語ですね、めでたしめでたし、とシメれば、まあいいんですが、一方でこのような日本語の繊細さは、検索エンジンとの相性があまりよくなかったりします。

元々、日本語は「文章検索」に非常に不向きな言語です。まず、用字が尋常でなく複雑であることが挙げられます。同じ内容を表すのに、漢字、ひらがな、カタカナの3つがある。「貴方」でも「あなた」でも「アナタ」でもいい。しかも、微妙にニュアンスが違ったりするので、いっしょくたにはしにくい。

句読点(「。」や「、」)の位置にも正書法がありません。これは、日本語に、句読点というものが比較的最近(60年ぐらい前)まで存在しなかったことによります。英語のように単語を分かち書きしないのもきついところです。

さらに、助詞におけるわずかな相違が、繊細な意味の違いになって反映するというのは、本質的に「検索」という行為と相性があいません。例えば、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」という語句で検索すれば、当然「目に青葉」の句にはヒットしません。しかし、「目には青葉」と書いた人も、「目に青葉」と書いた人も、同じ俳句について語っているつもりなわけです。これを機械でつかまえようとすると、死ねます。

コンピュータのような大ざっぱなシステムがあつかうことを考えると、"There's More Than One Way To Do It."(やり方はいろいろある)な日本語という言語はあまり計算機向きとは言えません。

例を挙げると、ガンダムにおける名台詞の一つとして有名な「みとめたくないものだなじぶんじしんのわかさゆえのあやまちというものを」ですが、これがネットでどう表記されているかを調べてみます。ざっと調べただけでも、次のようなバリエーションがあります。

(認|みと)めたくない(もの|モノ|物)だな?(。|、|…|・・・|...)((自分(自身|自信)?|己)の)?、?(若|わか)さ(ゆえ|故)の(過ち|あやまち|アヤマチ|誤り|あやまり)と(いう|言う)(もの|モノ|物)(を|は)

上記の文章は正規表現で記述されています。例えば、「(認|みと)めたくない」という表記は、「認めたくない」「みとめたくない」の両方があったことを表します。また、「ものだな?」という表記は、?の直前の文字列が存在しない場合があった。つまり「ものだな」と「ものだ」の両方があったことを表します。

このうち、「自分自身の」を「己の」としてしまうとか、「過ち」を「誤り」にしてしまうとかは、まあ検索でひっかけたいところではあるものの、間違った引用であるということで無視してしまうのも手かと思います。しかし、「若さ故の」と「若さゆえの」の違いは、検索エンジンにとっては大違いにもかかわらず、ネット上で混在している状況です。

検索エンジンで調べものをするときは、同義語をすべて調査対象にしたいのです。例えば、「椰子の実」について検索するときは、「((ココ)?ヤシ|椰子)の(果?実|種子)|ココナッ?ツ)」という正規表現を展開したものを絨毯爆撃するのが望まれます。具体的には、「ココヤシの果実」「ココヤシの実」「ヤシの果実」「ヤシの実」「ココナッツ」「ココヤシの種子」 「ココナツ」「椰子の果実」「ヤシの種子」「椰子の実」「椰子の種子」の11種類です。すべてGoogleでヒットがあります。

余談ですが、Googleでは、「ヤシ」を検索しても、「ココヤシ」はヒットしません。さらに余談ですが、「ココナッツの実」で1万件以上もヒットするのには、頭をかかえます。そこまで面倒見きれねーよッ!って感じです。日本語では「ナッツ」と「実」が異なるものと認識されているということがよく分かります。

日本語は多様性がありすぎて、「検索」には不向きな言語なのです。

ところで、「認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを」(これが標準ぽいです)なんですが、この最後の「を」を、「は」にする間違いが散見されます。なるほど、どっちでも日本語として成立してますし、意味もほとんど変わりません。もちろん、当然ながら、「を」を「は」にすると検索結果はガラッと変化します。これだから日本語は困ったものです。

しかし、ここで、「を」という助詞を選んだのは、さすがの富野節(富野由悠季ガンダムシリーズの監督です)でしょうか。「ナントカを」という言い方には、「ナントカ」がせまってくるような語感があるのでした。「本を読まない」と「本は読まない」を比べると、「本は読まない」のほうは、「他のものを読むから別に本なんか読まないよ」という気楽さがあります。一方、「本を読まない」には「本という大事なものを読まないなんて」というかすかな切迫感がある。この「を」は、「若さゆえの過ちというもの」の苦さ、その痛恨を、切実に感じさせる1文字でありましょう。

検索との相性が悪い、という程度の代償で、こういう繊細な味わいが楽しめるのでしたら、いい取引かもしれませんね。日本語は面白いです。