素顔同盟、理性にまつろわぬもの、生とは無数の誤解

「表情」とは「感情を表すもの」であるはずですが、しかし本当にそうなのでしょうか。顔文字や「(笑)」は何を表現しているのでしょう。今日は、「表情」が人間にとってもつ意味について考えます。

 その朝も目を覚ますと仮面をつけ、鏡に向かった。にせものの笑顔がそこにある。人工的すぎる、口もとだけでしか笑っていない。その他の部分は、目もほおも無表情ですらある。そしてなによりも、その無個性な笑顔はみんなと同じなのだ。人と同じであることは幸福なのだとみんなは言うが、ぼくはそれに息苦しさを感じている。

すやまたけし『素顔同盟』より

中学校の教科書にも採用された作品なので、ご存じの方もいるかもしれません。この「素顔同盟」の全文は、作者の公式サイトで公開されています。大変短い作品です。未読の方は、ぜひ一度読んでみてください。

この「素顔同盟」の世界の人々は、無個性な笑顔の仮面をつけて暮らすことを義務づけられています。このような世界を味気なく感じ、「寂しい時は寂しい顔を、悲しい時は悲しい顔をした」いと願う主人公に、私たちは共感を覚えます。

「表情」とは人間にとってどのような意味をもつのでしょうか。

表情のもつ情報量は膨大なものです。オーケストラの指揮者には、「棒など振らなくても顔の表情で指揮できる」という人もいるそうです。では、「表情」の役割は、自分の感情をあますところなく相手に伝えることにあるのでしょうか。そうではなさそうです。ためしに、伝達される情報量を最大にしてみましょう。「素顔同盟」の仮面の世界とは逆に、自分の感情が相手にすべて伝わってしまう世界です。

時雨沢恵一キノの旅』に「人の痛みがわかる国」という話がありました。国民全員が「人の痛みがわかる薬」を飲んだ国の話です。心を他人に読みとられることになった結果、人々は他人から離れてばらばらに暮らすようになります。筒井康隆七瀬シリーズ(『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』)は、テレパス(精神感応者)である女性を主人公にした傑作です。この作品には人間の心理のドロドログチョグチョが露悪されています。例えば、彼女は非常な美人であるため、周囲の男性の性的な欲望をまともに浴びることになります。

「素顔同盟」の主人公が「寂しい時は寂しい顔を、悲しい時は悲しい顔をしたい」と感じるのはいたって自然な感覚ですが、「エロい気分のときはエロい顔をしたい」とは思わないでしょう。そんなときは、無表情仮面上等のはずです。表情というワンクッションを置いて感情を表現すれば、自分の感情がだだもれになるのは避けられます。

では、「表情」とは感情をコントロールして外に出す装置ということでいいでしょうか。

ユダヤの諺に「表情は最悪の密告者である」というものがあります。これは「表情」が人間の支配下にないことを物語っています。こらえてもこらえても涙があふれることがある。逆に笑うべきでないところで笑ってしまうこともあります。確か2chのコピペですが、とある葬儀で弔電を読む段になって、司会の人がうっかり「たくさんの祝電が届いております」と言っちゃったそうで、本番でこんなことされたら、私には笑いを堪える自信がない。

また、心理学では、身体反応は感情に先行するとされます。「寂しいから寂しい顔をする」のではなく、「寂しい顔をするから寂しい」のです。こうなると、コントロールもくそもありません。「表情」という身体反応が勝手に生起し、意識があとからそれに理屈をつけるのです。

「表情」というのは感情を伝える手段です。しかし、メディアとしての「表情」は実に奇妙なものです。感情をすべて正確に伝えてもいけないし、かと言って完全に理性で支配することもできない。

というか、むしろ、「表情」というのは感情を正確に伝えないためのメディアなのではないでしょうか。肉体というまつろわぬものを介在させることによって、理性の支配を撹乱する。それが「表情」の目的なのではないか。

顔文字を例にとります。顔文字は、よく「文章だけでは伝えられない感情を表現するため」などと説明されています。しかし、顔文字によって感情が表現されるのなら、なぜ首相談話で「自衛隊の活動はイラク国民から高い支持を得ていますヽ(´ー`)ノ」とか「テポドン発射なら経済制裁だ( ゚Д゚)ゴラア」とかやらないのでしょう?

それは「表情」をつけることによってメッセージの論理性が失われるからです。表情によって感情を表現しても、意味が追加されてくっきりしたりはしません。むしろ意味内容が拡散する。社長から「今日でお前クビ!m9(^Д^)プギャーーーッ」というメールをもらっても、即座に信用できますまい。

「(笑)」について考えてみます。感情をはっきり表現するのなら、「(喜)」とか「(楽)」とか「(幸)」のほうがよいような気がするのですが、後三者は「(笑)」ほど見かけません。同じことは、 「(泣)」が「(悲)」「(悔)」より多いことについても言えます。カッコ内の文字は、なぜか表情に関するものが多いのです。

このことは、「(笑)」や「(泣)」が感情の範囲を狭めるためのものではなく、むしろ言葉のニュアンスを曖昧にするためのものであることを示しています。例えば、「やめてくれよ(笑)」という表現は、単純な好意でも敵意でもありません。

他人の表情から心理が読めなくなる病気として、アスペルガー症候群があります。この病気の患者は、秩序をだったものに対して偏執的な関心を示すことがあります。例えば、アイシュタインがアスペルガー症候群だった可能性が指摘されています。このことは、「表情」というものが秩序の対極にある可能性を示唆します。

要するに、「表情」というのは、普通の意味での情報伝達ではないのです。それは、情報を撹乱し、変質させます。むしろ、情報の中味を曖昧なものにして、誤解を誘うためのものとすら言ってもいいでしょう。

「素顔同盟」には、ちょっとひっかかるところがあります。主人公は、一人の少女が仮面を外しているのを目撃します。その数週間後、川の上流から流れてくる仮面を拾います。そのとき、主人公は「それはまちがいなく彼女のだった」と断定するのです。しかし、彼女の仮面は「みんなと同じ笑顔だった」と文中にある。そもそも仮面というのは「無個性」で「統一」されているもののはずです。ならば仮面を見て「彼女のだった」と分かるものなのでしょうか。

しかし、たとえ、それが思い込みだろうが誤解だろうと、主人公は素顔同盟に加わるべく一歩をふみだしたのです。もはや、その仮面が本当に彼女のものであるかどうかなど問題ではありません。たぶん、「本当かどうか」などという質問は、人生において大した重要性はないのでしょう。生きるということは無数の誤解の積み重ねです。だから、「表情」というものは、こうなっているのではないでしょうか。