清水の舞台、世界で最初に空を飛んだ人間、飛べダンボ!
「清水の舞台から飛び降りる」とは、よく聞く慣用表現ですが、12世紀頃の書物に、実際に飛び降りた人の話が出てきます。しかも、その人は、鳥のように舞い降りたのだとか。今日は、清水の舞台から飛ぶということについてとりとめもなく考えます。
これも今は昔、
忠明 といふ検非違使 ありけり。それが若かりける時、( 清水 の橋のもとにて( 京童部 どもといさかひをしけり。京童部手ごとに刀を抜きて、忠明を立ちこめて殺さんとしければ、忠明も( 太刀 を抜いて、( 御堂 ざまに上るに、御堂の東のつまにもあまた立ちて向い合ひたれば、内へ逃げて、( 蔀 のもとを脇にはさみて前の谷へ踊り落つ。蔀、風にしぶかれて、谷の底に鳥のゐるやうに、やをら落ちにければ、それより逃げて( 往 にけり。京童部ども谷を見下ろして、あさましがり、立ち並みて見けれども、すべきやうもなくて、やみにけりとなん。(
『宇治拾遺物語』より
文中の「清水の橋」とは、有名な「清水の舞台」です。「清水の舞台から飛び降りる」と言えば、「非常な決意をして物事をするときの気持の形容」(広辞苑)ですが、この話の主人公、忠明は
訳しておきます。
今ではもうずいぶん前のことだが、忠明という検非違使(今でいうと、警察官&裁判官)がいた。若い頃に、清水の舞台のところで京都の不良どもとバトルになった。不良どもが刀を抜いて忠明を殺そうとしたので、忠明も抜刀し、本堂のほうへ上がっていくと、本堂の東のはしからも不良どもがわらわらやってくるので、内側へ逃げて、
『今昔物語』には、この話とほぼ同じ話が載っています。そこでは、忠明が御堂に向かって「観音助けたまへ」と念じたとあります。清水の舞台からの飛び降りは、観音信仰なのです。Wikipediaによると、「もし助かれば願い事が叶い、またたとえ死んだとしても成仏し観音様の元へ行ける」と考えられた、とのこと。うーん、個人的には、こんな脳天気な発想ができる時点で、人生勝ったも同然だと思いますけどね。
あちこちで引用されている数字ですが、清水の舞台では、1694年から1864年までに234件の飛び降りがあり、生存率は85.4%であったそうです。江戸時代の乳児死亡率は、少なくとも20%はあったでしょうから、このぐらいの数字なら、当時の人々には「命をかけてお願いしてみる」という感覚であったのかもしれません。少なくとも「自殺の名所」というほどの致死率ではないです。
そもそも清水の舞台は地上から13mの高さ。これは自殺には向きません。鶴見済『完全自殺マニュアル』によると建物の4階(だいたい12mぐらい)からの飛び降りの成功率は、50%程度。これは落下地点がコンクリートの場合ですから、清水の舞台の致死率は予想を大きく外すものではありません。したがって、鶴見済は最低でも20m以上の高さをとることを推奨しています。学校の4階から飛び降りて即死できず「痛い、痛い」と泣いて死んだ女子高生の話など聞くと、こんな中途半端な高さが「自殺の名所」と喧伝されるのは、ちょっと勘弁してほしいという感じです。
それではなぜ、清水の舞台が「自殺の名所」とされたのか? これについては、菊池寛が「身投げ救助業」の中で、「京都にはよい身投げ場所がなかった」と書いています。なるほど。確かに、そうかもしれません。基本的に平地ですからね。
さて、人類で最初に空を飛んだ人間として、よく日本人浮田幸吉の名が挙げられます。浮田幸吉が旭川の京橋から滑空したのは、1785年とされます。1903年にライト兄弟がライトフライヤー号を飛ばしたときでさえ、当時の学者は「飛行機が飛ぶことは科学的に不可能である」などと言っていたわけで、浮田幸吉の飛行が事実なら、その先駆性はすばらしいことです。
ですが、忠明のほうが早いかもしれません! 忠明のエピソードが掲載された『今昔物語集』は12世紀初めに成立したとされているのです。この話が本当なら、世界で最初に空を飛んだ人間は忠明です。清水の舞台(高さ13m)から自由落下したら、着地時の速度はおよそ時速58kmですから、衝撃は交通事故なみです。さすがに、なんとなく落ちてなんとなく助かった、ということはないでしょう。まして「やをら落ちにければ」ということは絶対にありえません。「やをら」は「静かに」という意味ですので。
とはいえ、「
そもそも、人間を空に飛ばすには、どのぐらいの大きさの翼が必要なのでしょうか。ものすごく大ざっぱに見つもってみます。
まず、翼による揚力で空を飛ぶものには「失速速度」というものがあるそうです。飛行機の速度がだんだん落ちていくと、翼から十分な揚力を得ることができず、飛行機は墜落します。失速速度は飛行を続けられるギリギリの速度です。
忠明の場合、最初に清水の舞台から飛び出す際に、自力で走るしかなかったというのが厳しい条件になります。しかも、巨大な翼をかかえてのダッシュです。ここでは、忠明が現代の短距離走者レベルの脚力をもっていたとして(なんせ観音パワーがありますから!)、秒速8mでダッシュして飛び出してもらいます。これを、失速速度としましょう。
次に「巡航速度」について考えます。これは最も燃費のよい飛行速度のことで、多くのグライダーでは巡航速度は失速速度の1.5倍あたりになるとのこと。忠明の場合は、秒速12mあたりでしょうか。
さらに、「翼面荷重」というものがあります。これは翼面積あたりの揚力で定義されます。で、翼面荷重は、巡航速度の2乗に比例するのだそうです。上記リンク先には、さまざまな鳥の重量と巡航速度が載っています。
忠明の数字をこの表にあてはめて計算してみます。これは要するに、忠明が脇にかかえる
問題は体重です。ここで、忠明の体重が50kgであったと仮定します。当時の日本人の体格はちっちゃかったですし、まあ無茶でもないでしょう。そうなると、翼面積は、8.95平方mと出ました。浮田幸吉のグライダーは2m×5mだったそうなので、まずまず説得力のある数字です。
うーん、しかし、やはり、こんなでかい板戸はありそうもないですね。だいたい、今の計算に翼自体の重さはまったく入っていませんし。忠明初号機説は無理なようです。残念。
ちなみに同じ計算をゾウ(秒速10m、体重3トン)に対して行うと、翼面積は343平方メートルになりました。だいたい18m四方の正方形と同じ大きさの翼が必要です。標準的な体育館の半分ぐらいでしょうか。清水の舞台とまったく関係なくなってしまいましたが、ダンボの耳は実は超デカい、というのを今日の結論にしたいと思います。