あなたの一票は社会を変えない、なぜ選挙に行くのか、澄みゆく心

「あなたの一票が社会を変える」と言われますが、現実にそんなことはまずありません。それでもなお選挙に行く理由はあるのでしょうか? 今日は、外界にまったく影響を与えない行動を取る意味がどこにあるのかを考えます。

 心の中の世界を凝視するとき、人は外界の何ものをも本当に見ていない。目は開いており、視界にあるものを感じてはいるが、普通われわれが言う意味での見ることはしない。
 古語で言う〈眺め〉るだけだ。しかし、音はちがう。外界の音を聞くことで、人間の内面は逆にしんと静まり、心の中の世界を凝視する目は集中し鋭くなる。
  しずかさや岩にしみ入る蝉の声
 『おくのほそ道』のこの句などは、このへんのニュアンスを巧みに表現し得ている点で最もポピュラーな作と言えるだろう。この句の前に置かれた文章で、芭蕉は「佳景かけい寂寞じゃくまくとして心澄みゆくのみおぼゆ」と書いている。私には、澄みゆく心を凝視する俳人のまなざしがこの句に見えるような気がする。人が真に内面の何かを見るときに、静寂があるのだ。そして、その静寂は、外界の音によってむしろ逆に深められてゆくのである。

佐佐木幸綱の文章より

佐佐木幸綱は、外界の音が内面の静寂を深めると述べます。意識が外に向かっているように見えて、実は内面を凝視しているという指摘は、味わうべきものがあります。

さて、今回のお題は「どうして選挙に行くのか?」です。意味不明の前フリから始まって恐縮ですが、おつきあいいただければ幸いです。

さて、「あなたの一票が社会を変える」と、よくうたわれます。では、そもそも、一票の価値とはどの程度のものなのでしょうか?

ここでいう「価値」とは、その一票が最終結果に与える影響という意味です。「死に票」という言葉がありますね。落選した人間に投じた票は間違いなく死に票です。しかし、当選した人間に投じた票だって、たとえあなたが投票しなくてもその人は当選したという意味では「死に票」ではないでしょうか。その投票行動が外界に何らかの影響を与えた、と言えるのは、選挙結果が「一票差」で決まったときだけのはずです。では、そういう例はどのぐらいあるのでしょうか?

もちろん、市議選レベルでは、一票差で当選が決まる例はそれなりにあります。しかし、これで「世の中を変えた」と言っても、ちょっと説得力がありません。そこで、衆院議員選挙に限定して調べてみることにします。

ザ・選挙」にある衆院選データベースを使います。ここにあるのは、1947年の第23回衆院選から、2005年の第44回衆院選まで、22回分です。選挙区の数でいうと、3229選挙区のデータです。

結論から申し上げますと、一票差で当落が決まった例は、一例もありませんでした。すなわち、過去50年の衆院選において投じられたすべての票は「その一票があろうとなかろうと、結果は変わりゃしなかった」という意味で「死に票」だったと言えます。

ちなみに、今回の調査で最も接戦だった得票差は、二票差でした。1952年の第25回衆院選で、改進党の金子与重郎氏が32179票、自由党の藤枝泉介氏が32177票で当落を分けたのが最も惜しい場合です。

3229もの選挙区で1例もないわけですから、「あなたの一票が社会を変える」可能性は、まずゼロだと言っていいと思います。

ならば、選挙に行く意味というのは、まったくないのでしょうか。

さて、また、話が飛んで申し訳ありませんが、みなさんは、横断歩道を渡るとき赤信号を守りますか? もちろん、車がびゅんびゅん走っているのに赤信号につっこんでいくのはただのアホです。しかし、例えば、横断歩道のまわりは地平線のかなたまでさえぎるものがなく、1台の車もやってくる気配がない。そんなとき、青信号になるのをぼんやり待つか? ということです。

待とうが待つまいがひかれる確率に変化はないのであれば、さっさと渡ってしまうほうが明らかによさそうです。私も渡ります。信号にしばられるなんて、不自由ですからね!

しかし、ちょっとまってください。そもそも、このとき赤信号の横断歩道を渡るということ決定をしたのは「だれ」でしょう。自分自身に決まっていますか? ですが、もし車が来るのが見えていたら、渡らなかったはずですよね。ということは、信号を渡るか渡らないかは、車がいるかいないかによって決められた、ということで、つまりは、他人によって決められた、ということになるのではないでしょうか。これ、本当に「自由」ですか?

信号がないところで道を渡ろうとしている人がいたとします。この人は、車が次々にやってきてなかなか渡れないとなると、イライラするでしょう。この気分の悪さは、自分の行動が他人によって支配されていることから生じているはずです。

一方、「赤信号では横断しない」と最初から決めている人は、赤信号のときに車が来たとしてもイライラすることはありません。最初から渡ることをあきらめているからです。たとえば我々は、「空を飛べない」ということに対してイラついたりはしたりしません。それと同じことです。

私は「赤信号を渡るのは損だ」ということが主張したいのではありません。「赤信号は渡ることができると考えるのは損かもしれない」ということを指摘したいのです。「車が来なければ赤信号を渡ってよい」という「自由」を与えられてしまった人は、赤信号になると、まわりの状況を確認し、もし車が来ていればイライラするでしょう。つまり、行動を他人に支配されることになるのです。

となると、絶対に車にひかれる心配がないときでも信号を守る理由はあります。それは、「交通ルールだから」でも「運転手に迷惑だから」でも「ひかれるのがいやだから」でもない。社会のためでも、他人のためでも、己の肉体のためでもない。自分の内面のため、「赤信号は渡らない」と決めた自分の自由を保つためです。

選挙においても、似たような考え方ができると思います。

私たちの一票が外界を変化させる可能性は、ほぼゼロでありましょう。ならば、「選挙に行く」意味は一つしかありません。それは、自分自身を変えることです。

ふさわしい候補者を選ぶために情報を集める。誰に投票するか迷うなかで自分の価値観を発見する。政治の意志決定に参加したという自負を得る。自分が投票した政党や候補者に対する責任感をもつ。そういう、選挙を通じて得たすべての体験が、自分という存在の内面を磨いてくれます。

選挙は、世の中を変えるために行くのではありません。自分を変えるために行くのです。