フルスピードでのろのろと、年速1kmの言葉、カタツムリの速度で

かたつむりの速度は時速何メートルでしょう? 今日は、ガンジーの「きことはカタツムリの速度で動く」という言葉をヒントに、言葉や文化の伝播速度をかたつむりと比較することで、この世界をフルスピードでのろのろと進む「善きもの」について考えます。

  デンデンムシ   まど・みちお

きみは デンデンムシ
ひっそりと
雨戸をわたっている
どこかの淋しい国へ
逃げてでも行くように


だが きみはいま
必死で横断中なのだ
はっぱ 一まい
つゆ 一しずくない
この 垂直の砂ばくを
アンテナ高くおしたてて
新しいオアシスの探検へと
フルスピードで のろのろと
いま きみの中で
きみの社会と理科と
算数と図工と体育たちが
どんなに目まぐるしく
立働いていることだろう


教えてくれ
ミスター・フルスピード・ノロ
きみの行手が近づくだけずつ
きみの後へのびていく
きみの道のまぶしさを


きみの勇気の光なのか
天からのくんしょうなのか

さて、かたつむり。動きが遅いことの代名詞的な生き物です。例えば、英語で"snail mail"と言ったら、瞬時に届くe-mailに対して、人が配達する普通の郵便のことを指します。また、日本で言う牛歩戦術は、英語では"snail's pace voting"と言うそうです。

いったいカタツムリの速度はどのぐらいのものなのでしょうか。検索してみると、「国立予防衛生研究所昆虫部」(現、国立感染症研究所でしょうか)がカタツムリレースをして「時速6m」という結果が出たのと記事があります。しかし、二次資料であり、ちょっと信憑性に欠けます。一方、Wikipediaの英語版によると"1 mm/s is a typical speed"だそうです。前者は分速10cm、後者は分速6cmということで、まあそんなものかという感じです。ここでは、典拠がはっきりしている「1mm/s」のほうを採用します。これは時速3.6m。1年でおよそ31.5km進む速度になります。

タツムリの歩みは、着実、堅実なものとしての好印象があります。「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」とは、彫刻家北村西望の俳句です。また、インド独立の父ガンジーは、「善きことはカタツムリの速度で動く」との言葉を残しています。

柳田国男に有名な『蝸牛考かぎゅうこう』があります。柳田は、「カタツムリ」を表す方言の分布が、京都を中心とした同心円上に乗っていることに気づきました。これは、京都で使われていた言葉が、次第に周辺地域に広がっていき、京都でその言葉が廃れても、周辺に方言として残る、という現象です。方言周圏論と呼ばれます。

例えば、松本修全国アホ・バカ分布考』によれば、「バカ」は関東だけでなく、近畿以西でも使われる言葉であり、古く京都で「バカ」が使われていたのが、次第に「アホ」に変化したのだと指摘しています。カタツムリの場合、京都から東西に離れるに従い、デデムシ→マイマイ→カタツムリ→ツブリ→ナメクジと変化します。

さて、カタツムリの速度は、1年におよそ30kmでした。では「かたつむり」の速度はどうでしょう。すなわち、「かたつむり」という言葉が伝播する速度は?

「かたつむり」は近世初期に京都で使われていた言葉だそうです。どこまでを近世とするのか微妙ですが、まあ江戸幕府の開闢1600年あたりを起点とするならば、約400年前のことです。今「かたつむり」は関東で使われています。京都〜東京間は400km。すなわち、言葉の伝播速度は1年間におよそ1kmということになります。そのものズバリの書名もありました。井上史雄『日本語は年速一キロで動く』がそれです。

となると、言葉が伝わるというのは、かたつむりどころではない。長い長い年月をかけて、ようやくここまで届いた。もう大変な偉業であることが分かります。「善きことはカタツムリの速度で動く」のだとすれば、言葉の伝統というものは、すぐれて善きものといえるのでしょう。

文化の伝播はどうでしょうか。例えば、仏教の日本伝来について考えてみます。釈迦の生誕の時期については議論があるようですが、だいたい紀元前500年ぐらいのようです。日本への仏教伝来時期も異説がありますが、だいたい西暦500年より少しあとぐらい。およそ1000年と見ていいでしょう。ニューデリーから東京までの距離は6000km弱というところですので、1年間に6kmです。やはりカタツムリよりは遅いようです。

アメリカ」文化はどうでしょう。コロンブスアメリカ大陸を発見したのが、だいたい1500年頃。ニューイングランドアメリカ合衆国北東部の6州)への入植者が募集されたのが、1616年です。それから、400年。アメリカは、西へ西へ、インディアンを殺戮しつつ、大陸を怒涛の勢いで開拓、太平洋を越えて日本を植民地化し、さらに朝鮮半島ベトナムアフガニスタンを蹂躙して、ついにイラクに到達しました。*1

ニューヨークが西経75°あたり。イランの首都テヘランが東経50°あたり。経度で言うと、この西進は360-(75+50)=235°に相当します。地球1周は4万kmですから、緯度を無視しても2万5000kmを超えています。400年で2万5000km。これは1年におよそ60kmの速度です。かなり速いですね。どうもパックスアメリカーナは速すぎて「善きもの」とは言えないようです。

人類そのものの展開速度はどうでしょうか。「グレートジャーニー」をテレビでご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。およそ500万年前、タンザニアに誕生したといわれる人類が、ユーラシア大陸を横断、ベーリング海峡を越えて、北米大陸南米大陸を縦断し、南米最南端に到達した旅。この遥かなる旅路を遡行しようという、探検家、関野吉晴氏のチャレンジでした。

フジテレビのグレートジャーニーの番組公式サイトによると、「人類400万年の足跡を遡る5万キロの旅」とのこと。400万年で5万kmというのは、どのぐらいの速度でしょうか。ずばっと計算しますと、1年に12.5mです。遅ッ! なるほど、確かにほとんど生物種は地球規模で分布などしていません。ヒトという種が世界中で生活しているというのは、偉大な祖先のなした偉業であったようです。これぐらいの速度がヒトという生物にはちょうどいいのかもしれません。

話が急に飛びますが、面白いネタがあります。「一笑いで、ニューロン、4km。」です。アカゲザルの脳を物理的に観察して、猿を喜ばせることでニューロンがどのぐらい伸びるか調べたところ、だいたいヒト換算で4km伸びるというのです。ちなみに、脳の神経の全長は、九州大のとある講義の質疑資料(pdf)によると、大脳皮質だけで少なくとも1万4000kmだとか。

いくら話しても分かってくれない。言葉を重ねても伝わらない。相手に言葉が届かない。――そんなときは、この話とかたつむりのことを思い出しましょう。相手に言葉が届き、好意的な反応をしてくれるというのは、ニューロン4km分ぐらいの変化に相当するのです。そして、「善きことはかたつむりの速度で進む」のだとしたら? カタツムリの速度で4kmを進むには、46日かかります。

今この瞬間にも、世界中を無数の「善きもの」が、フルスピードでのろのろと進んでいる。そう思えば、そのぐらいの時間は待ってやろうじゃありませんか。

*1:アメリカの西漸」という歴史観は、内田樹の研究室「与ひょうのロハス」を参考にしました。