ダイオキシン、合理性、教育の力

 私たちはなぜ環境問題に怯えるのでしょうか。それは具体的に資源が枯渇し、環境が悪化し、そして二一世紀には大量の餓死者が予想されるということでしょう。しかし、より根元的には環境破壊は私たち自体がつくったものだからだと考えられます。同じ恐怖でも宇宙人が襲ってくる恐怖はもう少しあっさりしたもののように感じられます。「インデペンデンス・デイ」というヒットした映画がありますが、物質文明生活が極度に発達し、ある星を占領してその星の資源を使い尽くすと、次の星に移るという宇宙人が地球を襲う映画です。映画の筋もなかなか面白いし、脚本にもよるのでしょうが宇宙人との戦いは激しいけれどもあっさりしています。そこでは、宇宙人を殺すのに、地球人は全く良心の呵責とか、道徳の問題などは感じません。ひたすらどうしたら宇宙人を撃退できるか、ということを考えるだけです。これに対しに小説『フランケンシュタイン』の中の主人公ヴィクターは自分を苦しめるフランケンシュタインを攻撃できません。それは、怪物は他ならぬ自分がつくった物であり、自分の心の鏡のようなものだからです。

武田邦彦リサイクルしてはいけない』より

いろいろ物議を醸した『リサイクルしてはいけない』です。リサイクルの是非はさておき、私は、この文章を、環境問題は我々の心の問題である、というふうに読みました。

武田邦彦は、なぜ人間は環境問題に対してヒステリックに対応するのかを述べています。問題の真の原因が自分たちにあり、その原因を取り除くのがイヤなときには、代償物を攻撃し満足する。しかし、それでは解決ならないことを本能的に知っているので、勢い感情的になるのだ、と。確かに、私自身の経験から言っても、何かを強く恐れたり、感情的に反発するときは、自分にある種の「責任」があることが多いようです。

ダイオキシンに対する反応は典型的です。

「史上最強の猛毒」と形容されるダイオキシンですが、かつて北イタリアのセベソの工場爆発事故で、22億人分の致死量とも言われるダイオキシンが飛散したことがあります。結果は死者ゼロ。また、所沢のほうれんそうのダイオキシン含有がマスコミで話題になったことがありましたが、その催奇形性はほうれんそうを3000万kg以上摂らないと出現しないレベルでした。ダイオキシンは、WHOによって発ガン性ありとされていますが、発ガン性について言えば、アルコールやタバコ、焼き魚のコゲのほうが日常生活においてははるかに危険です。

日本の土中ダイオキシン濃度は、1970年代をピークとし、現在は半減しています。しかし、ダイオキシンが「問題」となったのは、そんなに昔のことではありません。

また、BSE(俗に言う狂牛病)についても同様のことが言えます。

現在、全頭検査を行っている国が費やすBSE予算は、1500億円以上あるはずです。これまでに世界全体でBSEによると推定される死亡者数は約150人ですが、いかにも予算の規模が大きすぎます。日本の自殺者数は、年間3万人を超えていますが、国別の人口規模も考慮して、BSE対策と同じ規模で自殺対策を予算化すると、1000兆円以上の予算になってしまいます(BSE死者数は通算であり、自殺者数は年間ですが、それは無視しています)。

私はダイオキシン対策もBSE対策も必要だとは思いますが、現状のそれはヒステリックすぎます。マスコミの注目度やお金の配分のバランスが偏りすぎて、非合理的に見えます。

武田邦彦の指摘の通り、我々は「真の原因」から目をそらしているのかもしれません。ダイオキシン問題については、現代の大量消費・大量廃棄社会の構造が根底にあることは間違いありません。BSE問題については、肉食(あるいはもっと一般に先進国の美食)の問題があるかと思います。牛肉1kgを生産するために、その10倍近い穀物を消費する必要があるらしいですが、そういう社会構造を真っ向勝負でなんとかするのは正直しんどいので、「代償物」を攻撃するわけです。

さて、私は、ここで「非合理」という言葉を使いました。しかし、このような現状が「非合理」だと感じるのは、この問題を「環境問題」、すなわち「物の問題」だと考えているからでしょう。これは我々自身の「心の問題」であると考えれば話は変わります。つまり、例えば、ダイオキシンが問題なのは、ダイオキシンがその生物学的毒性によって我々の肉体を蝕むからではなく、ダイオキシンがもっている「史上最強の猛毒」というイメージが我々の精神を脅かすからだ、と考えるわけです。頭に「本末転倒」という言葉が浮かんできますが、これなら話が通ります。

環境問題が心の問題であれば、現状のマスコミ報道や予算の配分は、別にアンバランスなものではありません。我々が不安に思っている対象を、マスコミは的確に報道し、政府は予算をつけて対策をしていることになります。極めて合理的な行動です。

心の安らぎを得るためにお金を出すことはよくあることです。というか、現代の我々が購入するほとんどのものは、生存のために必要不可欠なものではなく、精神的な価値を求めてのものだと言ってもいいと思います。

であれば、ダイオキシンのような「生け贄」をつくって排除することで、精神の安定を得ようとすることに目くじらを立てても仕方ないのかもしれません。生け贄を攻撃することで、「我々は環境に対していいことをしているのだ」という「気分」を買うわけです。健康食ブームなんかにも似たような構造があると思います。そこに物質世界の「合理性」を求めても意味はないでしょう。破壊されているのは環境ではなく、我々の心のほうですから。

私は、我々の環境問題への対応が非合理的だとは思いません。むしろ、ある種の合理性をもっていると思っています。それは我々が世界を認知する仕方から必然的に生じています。ただ、私は今のままでいいとも思っていません。それには、我々が世界を認知する仕方そのものを変える必要があります。そして、それは、教育の力にまつべきものではないかと思うのです。