canとmustとwill、自分探し、欲望を欲望

 自分の脳の「好み」を知ってそれを上手に活用することが「生き方探し」の勉強法の究極のコツになります。ところが、「生き方探し」に迷っている人や失敗する人は、たいてい「自分の脳」の「好み」ではなく「他人の脳」の「好み」を自分の脳の好みだと錯覚しています。だから、勘違いしないことが第一のコツなのです。

中山治『「生き方探し」の勉強法』より

どのようにしたら人生において「成功」できるか、「幸福」になれるかという問題は、古今大勢の人々によって議論され、本が出版され、宗教が作られ、解答が求められ続けてきたことでしょう。もちろん、私ごときにこんな難問の答えなぞ分かるはずがありません。以下の文章は、ちょっと議論のちゃぶ台をひっくり返すだけのものです。

例えば、canとmustとwillという分かりやすいフレームがあります。人は人生において、何をなすべきか。畢竟、我々は自分ができることしかできません。これがcan。また、我々は、他人から求められていることをなすべきでしょう。これがmust。そして何よりも、自分がやりたいと欲することをやるのがよいでしょう。これがwill。

このcanとmustとwill、3つの円の交点にこそ幸せはある、というわけです。

canの円を大きくする方法は、勉強です。努力です。mustの円は自分だけでコントロールできるものではありませんが、今の世で何が求められているかは重要な情報であります。そして、大きな夢をもち、willの円を大きくするわけです。

竹内均は『人生を最高に生きる法』で、「理想の人生」を次のように定義しています。

  1. 好きなことをやって
  2. それで食べることができ
  3. しかもそれが他人のために役立ったとしてほめられる人生

これらは順にwill,can,mustでありましょう。

さて、私がここで問題にしたいのは、willが存在するということはそんなに自明なものか?ということです。

冒頭に引用した中山治の文章が言っていることは、まあもっともだと思います。ですが、では、そもそも自分の欲望と他者の欲望を区別する方法はあるのかと考えてみると、よく分かりません。

例えば、オタクというのは通常、一般人と共有できない独自の欲望をもつ人として理解されているわけです。しかし、例えば、アニメオタクであれば、アニメ、すなわち、テレビ局を通じて配信され、DVDとなって販売されているもの、要するに欲望が普遍的に存在すると認知されているものを欲望しているわけです。要するに消費社会に組み込まれている。ならば、オタクの欲望ですら、この社会の、他者の欲望と言えます。

ここで、近代という時代は欲望が社会の構造に組み込まれている時代であり、我々は他者の欲望を欲望しているのであって……、というお約束の解説に入るわけですが、これでは「人生をいかに生くべきか」と悩む我々の手助けにならないのは明らかでしょう。なんとなれば、あんなにみんな「自分探し」をし、本当の自分を「見つけよう」としているわけですから。

冒頭に引用した中山治は、「『自分の脳』の『好み』」が存在することを疑ってはいないようです。竹内均においても同様です。ちょっとひねって、例えば、河合隼雄は『こころの処方箋』でこう書きます。

 しかし、自分にとって実に多くの未開発の部分があるなかで、特に何かが「羨ましい」という感情に伴って意識されてくるのは、その部分が特に開発すべきところ、あるいは、開発を待っているところとして、うずいていることを意味しているのである。

これは非常に示唆的な文ですが、ともかく河合隼雄にとっても「羨ましい」という感情の「存在」は自明のものとされているようです。

ですが、そもそも、willってちゃんと「ある」ものなのでしょうか。すなわち、私たちは、何かをきちんと欲望しているのでしょうか。「好み」をもち、何かを「羨ましい」と思うということを、ちゃんとしているのでしょうか。私なんか、ここ最近、食欲・性欲・睡眠欲以外で何かを激しく欲したことってありますか?と聞かれると、答えにつまるんですが。

「幸福」になりたい、「成功」したいと考える人間は多いと思います。書店の自己啓発本コーナーを見ると、書籍の奔流です。もちろん、あの中に人生の秘鑰がうもれているのなら、私も宝探しをするのにやぶさかではありません。

ですが、これら成功本には、それらが存在していることそのものから必然的に導かれる前提があります。それは、「人間には『成功した状態』というものが存在する」ということです。しかし「成功」するには定義上、欲望が必要なはずです。

なぜ、あんなに大量の成功本が書かれるのでしょう。それは、canもmustも十分に肥大した人々が、あとはwillだというわけで、自分の欲望を必死で「探している」からではないでしょうか。でも、自分探しは永久に終わりません。だって、最初から自分なんてもんがないんですから。

我々には大それた欲望なんてないのに、この社会は人間には欲望があるということを前提にしてまわっているわけです。で、その社会に必死に適応しようともがき、自分には欲望があるはずだと探しまわる。現代人は、他者の欲望を欲望しているのではなく、自己の欲望を欲望しているのかもしれません。