逆接、deep blue、虚なるもの

 世界で、神性のシンボルとして、たとえばエジプトでは、スカラベや蛇を、また、牛や鳥など、動物や卍や十字などを神の遣いとする風習は多い。それらは、あるものであり、偶像である。しかし、その偶像そのものが神ではない。ある「もの」に意味を代表させているにすぎないのである。
 ところが、わが国での神々しさ、聖性というものは、鏡と剣などという、ある映し出す「虚なるもの」を神器とする。神をある具体的なものとしてではなく、そのなかを森羅万象がすぎいき、うつりいく空なる場として考えるのが、私たちの神々しさなのである。

栗田勇の文章(出典不明)より

98年の早大本庄高校の入試に出題された文章です。

引用文の第二段落は「ところが」で始まっています。入試に出題された当時は、この部分が空欄になっており、次の5つの言葉の中から、正しいものを選ばせる問題になっていました。

しかし おそらく なぜなら ところが つまり

「しかし」と「ところが」が同時に選択肢にあるのは珍しいです。「しかし」と「ところが」はどちらも「逆接」で、ほとんど同じ意味の単語だからです。この問題では、空所の直前に「しかし」がありますので、同じ言葉が連続するのがキモチ悪い、という理由で「ところが」を選べばよいでしょう。

では、「しかし」と「ところが」に意味の差はないのでしょうか。

例えば、次のような文章を考えてみます。「患者の容体はますます悪化していった。しかし、医者たちは必死になって治療した」。別におかしくはないですね。では、この文章の「しかし」を「ところが」に変えるとどうでしょうか? 「患者の容体はますます悪化していった。ところが、医者たちは必死になって治療した」。かなり異様な感じがすると思います。

次に、文の順番をひっくり返して、「医者たちは必死になって患者を治療した。ところが、患者の容体はますます悪化していった」とします。そんなに変な感じはしません。この場合は「しかし」でも大丈夫なようです。

結論をざっくり申し上げますと、「しかし」は客観的な対立関係(容体悪化と治療)のみを逆接でつないでいるのに対して、「ところが」は書き手の主観的な驚き(治療しているのに悪化!?)がこめられているというところに、この2つの接続語の差はあります。容体が悪化したら、治療するのは当たり前ですから、そういうときに「ところが」を使うことはできないわけです。

ここで述べたような「しかし」と「ところが」の使い分けは、多くの日本人が出来ていると思います。ですが、きちんと理詰めで使い分けている人はあまりいないのではないでしょうか。これは驚異的なことだと思います。このような例を見ると、「学習」とは何だろうという気になります。

私たちは「しかし」と「ところが」の使い分けを「理解」していたのでしょうか? 実際に使い分けが「できる」のは間違いありません。しかし、使い分けを誰かから学んだわけでもなく、普通は、使い分けの基準を説明することすらできないのです。

チェスを指すコンピュータで、初めて人間の世界チャンピョンに勝利したのはdeep blueという名のコンピュータです。deep blueの指手を見て、我々は人間は、「彼は中央を支配しようとしているな」とか「ルークの働きを高めようとしているようだ」とか、「意図」を見てとってしまいます。ところが、deep blueは、そのような高度な「意図」はプログラムされていませんでした。deep blueは、単純な形勢判断(駒の損得など)に従って、猛烈に深く手を読んだだけです。

世界チャンピョンに打ち勝ったdeep blueは、十分にチェスを「理解」していたと言えるのでしょうか。言えるのだとしたら、その「理解」はどこからやってきたのでしょう。deep blueは「駒の働き」などの概念をどこで「学習」したのでしょうか。

栗田勇によれば、我々日本人は「虚なるもの」の中に神を見出すそうです。それと同じように、私たちは空っぽのdeep blueに「理解」を見出しているに過ぎないのでしょうか。でもそれは、私たち自身の「理解」と何か違いがあるのでしょうか。