そこに山があるから、大志を抱け、水に痕無し

 マロリー(一八八六〜一九二四)は、イギリスの第一回チョモランマ(エベレスト)遠征(一九二一年)以来、チョモランマ登山につづけて参加してきたが、第三回の遠征(一九二四年)で第六キャンプを出発したまま行方不明になった。彼が第二回の遠征(一九二二年)から帰って後、アメリカのフィラデルフィアで講演会をしたことがある。終わって演壇を去ろうとしたとき、聴衆の中から一人の婦人が質問した。――「なぜ(それほどにも)あなたはエベレストに登りたいんでしょうか」
 このとき、質問者をあわれむようにして、イライラしながら答えた彼の“放言”が「存在するから」なのだ。すなわち、彼は世界最高峰としての「チョモランマ」に登る理由に対して答えたのであって、「山に」登る理由を説明したのではない。もっと正確にいおう。彼は「処女峰チョモランマ」に登る理由を説明したのであって、四度目や五度目の登頂をねらうための弁明では断じてない。マロリーのあの言葉は、従ってチョモランマがヒラリーらによって初登頂された一九五三年五月二九日をもって化石となったのである。

本多勝一新版 山を考える』より

マロリーの名言 "Because it is there." は、日本語では「そこに山があるから」として人口に膾炙しているわけですが、実は大変とげとげしい言葉だった、という話。

発せられた言葉が本人の意図を超えて「名言」に変わった例としては、清水義範が『日本語必笑講座』で、クラーク博士の "Boys, be ambitious!" を挙げています。清水によると、この言葉は、恩師との別れにあたってメソメソと泣く生徒たちに、クラーク博士が「男の子だろ! シャキッとせんかいっ」という感じで叱咤した言葉だとか。

引用文ではマロリーに質問をしたのは、「婦人」となっていますが、ジョージ・マロリー - Wikipediaでは、ニューヨークタイムズの記者とされています。もはや当時の状況を知るすべはなさそうです。言葉は生きものですから、もともとどんな意図で発言されたかは、今となってはそれほど重要でないのかもしれません。

とはいえ、なぜそのような誤解が生まれたのかを考えることは、発言者の心でなく、言葉を解釈する我々の心のありようを教えてくれる助けにはなるでしょう。例えば、クラーク博士の真意がどこにあったにしろ、"Boys, be ambitious!"を「少年よ、大志を抱け」と訳した明治日本の希望は今の我々にも伝わってきます。

マロリーの言葉を「そこに山があるから」と訳すことが日本人に受け入れやすいのは、そこに対象への没入だけがあり、自己の価値判断や損得がないからでしょう。禅的な境地と言っていいかもしれません。冒頭文で本多勝一の書くマロリーは、「未踏の最高峰エベレストがそこにあるからだ」と言い放つ、創造精神みなぎる登山家として描かれていますが、これは実は日本人にはあまり好まれない人間像なのかもしれません。

「月潭底を穿って水に痕無し(つきたんていをうがってみずにあとなし)」という禅語があります。月光が水底まで貫き通しても、水は乱されることがない。この言葉は、登山という行為の輝きに心底まで魅了されながらも自己の思念のゆらぎをいっさい見せない「そこに山があるから」という言葉と、透明な心という点で似たものを感じます。

"Because it is there."を「それがそこにあるから」と直訳してしまっては何のことだか分かりません。しかし、"it"の指すものを正確に「エベレスト」と訳してしまうのも、味がない。「そこに山があるから」というのは実に名訳かと思います。