せみのぬけ殻、捨てられるはしご、せつなさとともに

うすい白っぽい緑色の羽は、空気にあたると、すぐにうす茶色に変化していった。余りにこまかいことは、私は忘れてしまったが、その美しさと生まれて来る瞬間が、表現しがたいほどの素晴らしさであったことだけは、よく覚えている。そして立派に脱皮した大きい蝉を、庭の杏の木そっと止まらせてやった。私は襖にじっと止まっている蝉のぬけ殻を、眺めていた。それは実に不思議なものとして、目に映った。たった今まで大事な役目をしていながら、脱皮が終わると同時に、それは無用のものとなるのである。

室生朝子『父 犀星の贈りもの』より

室生朝子は、作家室生犀星の長女。彼女が幼い頃、母親とともに蝉の脱皮を見ている場面です。

内田樹はブログ「Archives - 内田樹の研究室」で、「真に人間的な仕事」とは、「自分の存在理由を消去するために全力を尽くす」仕事だと指摘します。親の仕事は「子供が自分を必要としなくなること」です。医者も警察官の仕事もそうです。その仕事が理想的に完成した世界では、その仕事に存在意義はありません。

引用文の「蝉のぬけ殻」は、「真に人間的な」存在と呼んでもいいのではないでしょうか。このような存在を内田樹は「苦役でありかつ至福」と表現し、室生朝子は「不思議」と表現しました。もう一つ、江國香織は、おそらくこれと本質的に同じ感情を「せつない」と表現しています。

浜田廣介『泣いた赤おに』という絵本があります。ぜひ実物を読んでもらいたい名作ですが、あらすじを紹介しておきます。

あるところに、人間と仲良くなりたいと思っている赤おにがいた。お菓子やお茶を用意して、人間を誘ってみるが、人間たちはこわがって近づかない。そこで、友人の青おにがあるアイデアを思いついた。青おにが人間を襲い、わざと赤おににやっつけてもらう芝居を打つのだ。こうして、人間は赤おにが敵ではないことに気づき、赤おにのところ毎日遊びにいくようになった。赤おには楽しく暮らしていたが、ふと青おにのことを思い出し、訪ねる。ところが、青おにの家はもぬけの空で、ただはり紙だけが残っていた。それは、青おにの「自分とつきあいを続けると、君が人間たちに疑われてしまうだろうから、ぼくは旅に出ます」という書き置きだった。赤おには、それを読み、しくしくと泣いた。

江國香織は、エッセイ集『都の子』「泣いた赤おに」の中で、この絵本を読んだ感想をこう記しています。

とりかえしがつかない、というのがどういうことか、私はあの瞬間に学んだと思う。せつない、という感情の、とても強烈で残酷な学習だった。

青おには、友情を完成させるために、自らの存在を赤おにの前から消してしまったのです。

哲学者ウィトゲンシュタインに「はしご」の比喩があります。彼は言います。「人ははしごをのぼりきったあと、そのはしごを投げ捨てなければならない」。真の思想とは、それを理解したあとには、それが不要であることが判明するようなものだ、と。

私は、国語を教えています。単に解き方を教えるだけでなく、なぜそのような解かなくてはならないか、という根本的な思考法を教えているつもりです。もし、生徒がそのような思考法を完璧に理解したら、教える人間としての私は不要となります。教師とは、そのような「せつなさ」とともにある仕事だと思います。