ひとり遊び、あらねども、無心にして蝶を招き

 良寛は五合庵の山中に住み、その生活は托鉢で得たわずかのもの、まさに詩にうたったように「嚢中三升の米、炉辺に一束の薪」しかない生活であったけれども、米と薪、このほかには何が要ろうかと達観して、草庵を訪れる鳥や、それを囲む木や竹や、雲や雪やを友として高い境界に遊んだのだった。
  世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる
 自分は決して孤高な世捨て人ではない。草庵に侘び住まいをしているけれど、世間と絶縁しきったわけではない。訪れる人があればよろこび、求められれば人の家にも出かけてゆく。しかし、自分の本音を言わしてもらえば、わたしはやはりひとり遊びがよいのだ、という。吉野秀雄はこの歌については、「『ひとり遊び』の語が絶妙で、いわば良寛の人間全体から輝き出たものといえるであろう」と言っているが、これもそうだと思う。

中野孝次ひとり遊び』より

良寛(りょうかん)は、江戸時代の僧侶、歌人。号は大愚。生涯を無所有で過ごし、名声を求めず、日々子どもたちと遊び、詩歌をつくって過ごしました。彼の言葉として知られているものに、「災難に逢ふ時節には災難に逢ふが良く候」、「花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花尋ぬ」、「うらを見せ 表を見せて 散るもみじ」などがあります。

中野孝次は、良寛の生き方について、「時代を超えて共通する、高貴なる生の理想といったものがあるようにわたしには思われた」と述べています。たしかに、私もこのような生き方は一つの理想だと感じます。

文中で引用された歌には、共感する人も多いのではないでしょうか。「ひとり遊び」という言葉は正直絶妙すぎて口元が緩みますが、「世の中にまじらぬとにはあらねども」の「あらねども」という逆接にこめられた万感の思いには、私など、しみじみといっしょに酒を酌み交わしたくなります。

とはいえ、現代で良寛のような生き方をしたら、ほとんどニートスレスレです。生活の糧は施しに頼っているわけですしね。また、詩歌や書という趣味は高雅な印象ですが、それで生活しているわけでもなく、一歩間違えると自分の趣味に走るオタクです。少なくとも現代では、定職に就かず遊んでばかりいる近所のおっさんが自分の子供と仲良く遊ぶのを許す親はいないでしょう。ひょっとしたらロリコンかもしれませんし。

このように、良寛の生き方は百歩ゆずっても生産的とは言えません。しかし、良寛という生き方は確かに成立し、人々から愛された。これは、ウェブが進化する現代において、改めて考えていいことではないかと思います。

中野孝次は、こう書きます。

彼は托鉢によって、すなわち人から施しを受けることで生きている身で、自分から人に与えるものは何もない。彼が与えうるもの、それはその「ひとり遊び」から生まれた言葉だけだ。

もちろん、良寛クラスの言葉の力をもっている人は少ないでしょう。しかし、ウェブというテクノロジは言葉を多くの人に伝えることで、影響力を増幅してくれるはずです。また、梅田望夫ウェブ進化論』にあったように、多くの人から少しずつ対価を集めることは、お布施によって暮らした良寛の生活に近いものであるかもしれません。

もちろん、まだまだ新しいシステムが求められていくだろうとは思います。良寛の生活を支えたのは「托鉢」というシステムです。托鉢は「信者に功徳を積ませ」ているのであり、「修行者がいいことをしてくれたから、それに対してお布施をしている」のではありません。托鉢それ自体が修行であり、布施それ自体が功徳です。商品と貨幣の交換とはまるで違います。

ともあれ、我々はだれもが、良寛のような理想的な生き方を、たとえ常時でないにせよ、できる時代を迎えているのだと思います。良寛が残した数々の言葉は、現代の我々の心を豊かにしてくれています。そういう、たくさんの幸せな言葉であふれる時代の来ることを願ってやみません。

えー、というわけで、昨日のエントリ愛・蔵太さんに紹介された瞬間からアクセスが爆発し、匿名の方から初めてはてなポイントをいただきました。大変嬉しかったので、急遽ネットをよいしょする記事でも書いておこうと思ったわけです。本当にありがとうございました。