自由とは何か、「GUITAR KIDS RHAPSODY」、心照らして

 日本の禅寺での修行が、いかに厳しいものであるかは、よく知られている。修行は未明からはじまり、厳格に定められた時間割にのっとって、僧堂での読経、座禅、洗面、食事、作務、そのくりかえしで一日が終わる。すべての時間が行であり、顔を洗うにも、食事をとるにも、用を足すにも、決められたとおりの作法を守らなければならない。掟に従った生活が修行なのだ。
 ところが、インドのアシュラムでは、一切がその人自身にまかされているのだ。日本の禅修行が頭にあったぼくは、ただただ面食らうほかなかった。
 そこで、ふたたび受付の僧をつかまえて、日課は? と尋ねた。すると、そんなものはない、というのである。毎朝四時から山の上のホールで行われる聖典『バガヴァッド・ギーター』の講義を聞く人もいれば、ヨーガをやる人もいるという。最後に、彼はこう付け加えた。「修行をしに来たのは、あなたではないですか。ここはあくまで修行の“場”なのです。何を修行するかは、まったく、あなたの自由です。修行しようがしまいが、それはあなた自身の問題ですからね」

森本哲郎この言葉!』より

早稲田大学高等学院の小論文試験で使われた文章からの引用です。このとき、受験生に課せられた問いは、「皆さんは、自由とは何かと問われたときに、どう答えますか」でした。

さて、「自由」とは何でしょうか? この文章におけるインドのアシュラムの生活は自由で、日本の禅寺の生活は不自由。これでいいのでしょうか? そもそも、同じ「修行」なのに、やっていることに、なぜこんなに大きな違いがあるのでしょうか?

まずは、「自由」というものが、そもそも本当に存在するのか、という点について考えてみます。ちょっと長くなりますが、おつきあいください。

ラプラスの悪魔」というヤツがおります。こいつは現時点での宇宙の量子の全配置を把握しており、さらにその量子が物理法則に従ってどう動くかを計算することができてしまいます。この悪魔には、不確定な未来というものは存在しません。宇宙は、精密な時計のようなもので、すべての事象は必然です。まあ、もちろん架空の存在です。

これが決定論といわれる考え方です。確かに、ぱっと見には、宇宙は物理法則に従って動いているように見えます。神様が本当にいるかどうか私は知りませんが、少なくとも我々の世界の挙動で物理法則から外れるものは、あまりないようです。神様は自分で作った法則を忠実に守っていて、この世界に介入することはないように見えます。

もし、この世界が決定論的だとして、そういう世界に「自由意志」というものはありえるのでしょうか? 我々が何かをしようと「決めた」としても、それは単に物理法則に従って機械的に動いているのに過ぎないんですよ? この問題は、「自由意志」とは何か?というところから考える必要がある難問ですが、少なくとも、決定論的世界では、素朴な意味での「自由」というものが消えてしまったように見えるのは確かです。

ですが、これはなかなか困った事態です。例えば、すべてが決定論的なら、犯罪者に懲罰を課す意味がありません。だって、彼は神様が決めた通りに行動したのですから。また、未来はすべて決まっているなんて言われると、なんだ未来は変えようがねえのかよ、なら努力なんかやーめた、という気になっちゃいます。

ここで、登場するのが量子力学不確定性原理です。不確定性原理によれば、我々は、ある種の2つの物理量を同時に正確に測ることはできません。例えば、粒子の「位置」を見ようとして粒子に光を当ててしまうと、その光そのものが粒子の「運動量」を撹乱してしまう。ところが、コペンハーゲン解釈によれば、事態はもっと過激です。そこでは、「粒子の状態を人間は知ることができない」のではなく、「粒子の状態は元々決まっていない」とされます。つまり、不確定性はこの世界の本質そのものです。粒子の状態は、我々が観測した瞬間に確定する。すなわち、観測者の意識が宇宙の状態を決めるのです!

ここに、「自由」が復活する余地があることは明らかです。この考え方に立てば、例えば、粒子の位置と運動量のどちらかを確定させようとすると、もう一方が確定せずにゆらぐ。この「ゆらぎ」こそが自由の生まれるところであることになります。

さて、かけ足で、「自由意志」と「量子力学」の関係を見てきたわけですが、ここで冒頭の問題に戻ってみたいと思います。我々は「自由」を手にするために、何をすればよいのでしょうか。

日本の禅寺では、一挙手一投足にがちがちの制限をかける「修行」を行っていました。このように行動を極限まで確定させると何が起きるんでしょう。不確定性原理によれば、「行動」という物理量を確定させることで、別の何かに「ゆらぎ」が生じるはずです。

粒子の場合、「運動量」を確定させることで、「位置」にゆらぎが生じました。ならば、人間の場合は、「行動」を確定させることで、例えば「精神の位置」にゆらぎが生じるのではないか。禅寺のように、「決められたとおりの作法」「掟」に従った行動をとることは、不自由でも何でもない。このゆらぎこそ、悪魔から逃れる、自由への道なのです。

それでは、インドのアシュラムで行われていたことは何だったのでしょうか。それは「自由」な生活だったのでしょうか。森本哲郎は、アシュラムでの修行について、次のように述懐しています。

 じっさい、それは、どれほど辛い修行であることか。一分一秒といえども、自分から離れることができない。すべての時間が、自分との戦いの場となるのである。

これは、とてもじゃないですが「自由」な状態には見えません。このような「戦いの場」から私がまず連想するのは、ニートです。玄田有史は、ニートとは真面目すぎる者たちであり、働く意味を深く考えすぎて身動きが取れなくなっている状態だという意味のことを述べています。私には、このときの森本の苦しさが、それと似た状態に思えます。かつて、ひきこもりを即身仏にたとえた記事を読んだことがありますが、修行者とひきこもりには何か共通点があるのでしょうか?

「束縛されないことが Baby 自由じゃない」(GUITAR KIDS RHAPSODY)と歌ったのはB'zですが、このときの森本も自由とは言えないと私は思います。では、自由とは何でしょう。森本は書きます。

 自分の心の赴くまま自由に行動でき、しかも、自分の心に照らして納得できるような生活を送れるようになったとき、それを「悟り」というのではあるまいか。

ここで「心に照らして」という表現が使われているのが、とても示唆的です。森本がアシュラムの修行で行ったことは、常住座臥、自分と離れることなく、自分の心を照らすことでした。このことは、量子力学の比喩に戻れば、自分の精神を確定させることに相当します。そのとき、何が生じるか。不確定性原理によれば、「行動」に「ゆらぎ」が、すなわち「自由」が生じるはずです。

森本はアシュラムの修行場において、一見、最初から行動の自由があったように見えます。しかし、決定論的な立場からすれば、それは自由でもなんでもありません。もし、真の自由が不確定性原理の「ゆらぎ」からのみ生じるものであるとすれば、我々が行動の自由を手に入るためには、心の位置を確定させる作業が必要になるはずです。それは「心を照らす」ことです。そのとき初めて、我々は、森本が書くように「自分の心の赴くままに自由に行動でき」るようになります。精神の場合も、粒子の運動量の観測と同じく「光をあてる」必要がある、この表現の類似はちょっと面白いことです。

このように、量子力学を比喩としてとらえなおすと、インドと日本で行われている「修行」は、まったく対極にあるように見えながら、実はどちらも「自由」を手に入れるための道であったのだということが分かります。

心や行動を束縛していく中で、だからこそ脈動する可能性のゆらぎ。私たちの求める本当の「自由」はそこにあります。