無数の「驚異」、赤い絵の具、数学とは何か

 私が思うに、科学とは「万能」という名の魔法でもなければ「厳密性」といった堅苦しいものでもない。この世に存在する無数の「驚異」に対するひとつのアプローチの仕方なのである。特に生命科学は、目の前にある生命現象を「理解」したいという単純な欲求から始まっている。驚きを驚きとして認めた後、その驚異を理性的に考え、理解しようと努める姿勢こそが科学なのであり、その意味において、人文社会系もいわゆる「理科系」の科学と等しく科学なのである。
 文学や哲学、宗教学は決して科学と相反しない。例えば「文学は人間を描くもの」とはよくいわれるフレーズだが、科学もまた人間や自然を対象にしていることを決して忘れてはならないと思う。生命科学の論文は、文学と等しく「人間を描いている」はずであり、またそうでなければならないと私は考えるののだがどうだろうか。

瀬名秀明の文章(出典不明)より

瀬名秀明は『パラサイト・イヴ』でデビュー。薬学博士でもあります。人文科学と自然科学の交わるところを語るのに、これほど適任な人もそうはいないでしょう。

この文章では、科学もまた人間を対象にしていると主張されています。瀬名によれば、科学とは「驚きを驚きとして認めた後、その驚異を理性的に考え、理解しようと努める姿勢」のことです。まずその発端に「驚き」という、ひどく人間的なものがある以上、「科学」と「人間」は切り離すことはできないのでしょう。

このことをもっと深く考えてみるため、科学の例として極北にあるであろう「数学」について考えてみます。数学ははたして「人間を描いている」のでしょうか?

一般には、この答えは「ノー」でしょう。すなわち、人間とは無関係に数学は存在していると考えるのが普通の感覚です。

例えば、グレッグ・イーガン万物理論』。この本に登場する科学者モサラは、20代でノーベル賞を受賞し、万物理論という宇宙を理解する最終理論を提唱することになる天才という設定です。彼女はこう語ります。人間と違う新しい種がいたとして、彼らは人間とまったく異なる文化・宗教を作り出すかもしれない。しかし、彼らが「万物理論」を生み出したとするなら、それは私たち人間の「万物理論」と「あらゆる点において数学的に等価」であろう、と。

もう一つ、宇宙人との最初の出会い、いわゆるファーストコンタクトにおいて、どのようなメッセージを送ればよいか?という問題を考えてみます。下手すると、「こんにちは」という音のつながりが、宇宙人に対してひどく失礼なものになるかもしれない。人間の笑顔が、宇宙人にとって不快な表情になるかもしれない。そんなとき、円周率を2進数で符号化して送ればよいという答えがあります。UFOを作るほどの宇宙人なら、当然円周率は知っているはずだし、円周率を何千億桁も計算できる生物であれば、高度な文明をもっていることもただちに分かるはず、というわけです。

数学の普遍性です。たしかに「1+1=2」は、宇宙のどこに行っても「1+1=2」でしょう。

しかしですね。例えば、「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句は、別に宇宙のどこに行っても「古池や蛙飛び込む水の音」であることに変わりはないのではないでしょうか。いや、もちろん、これはすぐ反論が返ってきそうです。例えば、この俳句は、宇宙どころか日本以外のほとんどの国では通じません。外国人にこの句を直訳すると、「それで?」「だからどうしたの?」という反応が返ってくるそうです。

これは「『意味』というものはどこにあるか?」という問題です。「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句の「意味」は、この十七音の中にあるわけでなく、それを受け取る側がどの程度俳句に関する教養をもっているかで違ってきます。「受け取る側」の問題であるということです。

ならば、数学だって同じではないでしょうか。

たしかに宇宙のどこでも「1+1=2」です。でも、それは、単に「宇宙のどこに行っても、赤い絵の具は赤い」と言っているのと同じぐらい当たり前なことです。その「赤い絵の具」を、見た人がどう受け止めるか、リンゴか、血か、夕焼けか。その差が個々人にとっての感性の差ということです。

要するにこういうことです。同じ数式を見ても、それを見た人によって、その数式から受け取るものは違う。その一人一人違う何かを「数学」というのではないか。だとすれば、やはり数学も「人間を描いている」と言っていいような気がします。

このことが正しいとすれば、「数学を学ぶ」ということの意味をよく考えてみる必要があります。「数学を学ぶ」というのは、「だれにとっても不変かつ普遍な対象について学ぶ」ということではありません。ある数学的な構造を見たときに、一人一人が心の中につくりあげていく何かが「数学」であり、それをつくることが「学ぶ」です。

そうなると、数学が宇宙のどこでも同一であるかどうかは疑問です。そりゃ、その数式が表している数学的事実は、宇宙どこにいっても同一でしょう。赤い絵の具はいつも赤い。しかし、宇宙人に地球の数学を教えたら、こういう答えが返ってくるかもしれません。「それで?」「だからどうしたの?」

そもそも、数学というのは、実は「何もしていない」んですよ。例えば、方程式を解くということは、「x+8=12」→「x=12-8」→「x=4」と式を変形することです。しかし、よく考えるとこの3つの式が表している数学的内容というのは同一で、ただ言葉を言いかえているだけです。我々が最後の形を「答え」と呼ぶのは、それが最も「簡単な」形をしているからに過ぎません。では、「簡単な」というのはどういう意味でしょうか。文字数が少ないということですか?

高木貞治という有名な数学者は「数学とは、問題の不断の変換である」と言いました。1+2+3+4+5+6という式は、(1+6)+(2+5)+(3+4)と変形したほうが、計算は「簡単」になります。このとき、いったい何が変化したのでしょうか。式が表している数字自体は変化していません。変化したのは、我々の「受け取り方」です。ならば、この「受け取り方」がのほうが、数学の本質であるはずです。だとすれば、そこには俳句などの芸術と、何の違いがあるのでしょうか。

やはり、私は、数学においてすら、それは「人間を描いている」と言ってさしつかえないように思います。瀬名秀明の書くとおりであれば、それはまず、「驚き」という人間的な感情の動きから始まるはずです。願わくば、数学を学ぶ多くの人々が、そこに人間的な何かを感じとってほしいと思います。