影響の輪、「どうでもいい」、きみのバラ

 詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきことなり。いかほど学びかたよくても怠りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才によりて、その功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし。されど大低は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有るものなり。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。又いとまのなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすものなり。されば、才のともしきや、学ぶ事の晩きや、いとまのなきやによりて、思ひくづをれて、止むすものなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくづをるるは、学問に大にきらふ事ぞかし。

本居宣長うひ山ぶみ』より

本居宣長による国学の入門書。「初山踏み」とは、初めて学問の道に入ることの喩えです。

才能があるかないか、始める時期が早いか遅いか、自由な時間があるかないか。本居宣長は、これらについて、条件の不利な人でも「うまくいくこともあるから心配すんなよ」と励ましています。本居宣長も書いていますが、才能や環境は「力に及びがたし」なことが多いものです。スティーブン・コヴィー『七つの習慣』の言葉を借りれば、影響の輪の外にあることにエネルギーを集中することは、影響の輪を小さくしてしまう。だから、そういうことを気にして勉強を止めてはいけません。

ここで注目すべきなのは、「学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきことなり」と書いてあることでしょう。私も、一応教師ですんで、これは聞きずてならない。『ドラゴン桜』などベタな例をあげるまでもない。「勉強法」で検索すると200万件以上ヒットする(google:勉強法)以上、「学びよう」が大事なのは言わずと知れたことではないでしょうか。

しかし、このように様々な勉強法があるということは、勉強法というものが実はどうでもいいものであるということの証左なのかもしれません。服というものの種類があれほどたくさんあるのは、ほとんどの人にとって服がどうでもいいものだからです。逆に、今から南極旅行に行こうとしている人にとって、服装は致命的に重要ですが、「南極の寒さに耐えられる服」にはおそらく選択の余地がほとんどないでしょう。

要するに、人間は、「どうでもいい」ものほど、多様なバリエーションをつくり出す性向があるようです。このことは、「どうでもいい」という言葉を「価値がない」と解すると理解しがたいですが、文字通り「どんなやり方をしても良い結果が出る」と解せば、実に自然な性向です。

余談ですが、私はもっと変なことも考えています。人間というのは、勉強法にしろ何にしろ、あるやり方が自分の能力を本当に引き出すものだと分かったとたん、それをやめてしまうのではないか。だから、勉強法や自己啓発にはあんなに多くの種類があるのではないか。自分でもまだよく分かってませんが、そんな気がするんですよ。

もう少し現実的に解釈するならば、勉強法にはたしかに差があるのだけれど、勉強をしようとする人間がそれについて悩むのは無意味である、ということかもしれません。今いる部屋から外に出るために、理想の足の運びを研究する人はいません。出りゃいいんです。

人間は、何かを選択するとき、ほとんど条件が同じでどちらを選んでも大差ないようなときほど、時間をかけて悩むものなのだ、という心理学の実験結果があります。迷ったら、どちらを進んでも正解なんです。

この文章は、朴訥で心に沁みるいい文章だと思います。「学問てのはね、勉強法じゃないんだよ。どれだけ時間をかけられるかが大事なんだ」。なんというか、励ます言葉の内容にではなく、相手が自分を一生懸命に励ましてくれること自体が嬉しいってときがあるじゃないですか。そういう感じで、じわっときます。

「きみのバラをそんなにも大切なものにしたのは、きみがきみのバラのためにかけた時間だよ」(山崎庸一郎訳『小さな王子さま』)。そんな言葉を思い出しました。