本当に生きた日、ダイヤモンド、すべてを放つ

世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう


指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう


本当に生きた日は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ


茨木のり子見えない配達夫』「ぎらりと光るダイヤのような日」より

「戦後現代詩の長女」と評され、今年の2月に亡くなられた茨木のり子さんの、これは代表作の一つと言っていいでしょう。

この詩は予言です。しかも、ノストラダムスなんかメじゃありません。100%成立する強烈な予言詩です。これまでに死んだすべての人間にとって、そしてこれから死ぬであろうすべての人間にとって、この詩は真実であったし、真実となるであろうことを断言できます。そして、真実は常に残酷なものだというありふれた箴言を思い出させます。

「本当に生きた日」とは、どんな日なのでしょう。

詩中では、5つの例が挙げられています。「恋人との最初の一瞥(いちべつ)のするどい閃光」、「銃殺の朝」、「アトリエの夜」、「果樹園のまひる」、「未明のスクラム」。

まず気づくのは、「朝」「夜」まひる」「未明」という時間の制約があることです。「恋人との最初の一瞥」にいたっては、ほんの一瞬、それも一生に一度しかありえない「最初の」一瞬です。本当に生きた「日」は、とある24時間ではなく、かなり短い時間であるようです。

また、「恋人との一瞥」「銃殺」「アトリエ」「果樹園」「スクラム」とならべてみると、実はそこに意外な共通点が見てとれます。それは、ある対象と真っすぐ向きあう、ということです。それぞれの場面場面には想像の余地が残るものの、すべて、ある何かを目の前にして、それと真剣に対峙する情景を連想させる語群です。

「自分が本当に生きた日」とは、「ぎらりと光るダイヤのような日」でもあります。この「ぎらり」という音は、読むものの心を波立たせます。では、いったい、ダイヤモンドは、なぜ、「ぎらり」と形容されるほどの魅惑的な輝きを放つのでしょうか。

ダイヤモンドの色自体は、無色透明です。その鉱物としての特徴は、非常に高い屈折率にあります。宝飾用のダイヤは、それを活かす特殊なカッティングを行います。最も代表的とされる「ブリリアントカット」は、ダイヤモンドの上半部分「クラウン」から入った光を、内部ですべて反射して、再びクラウンから放つように設計されています。具体的な図は「Jewelry Bar / 喜平のアクセサリー取扱い豊富なジュエリーバー」などをご覧ください。

言われてみれば当たり前ですが、ダイヤモンドは自分で発光しているわけではありません。ダイヤモンドは、外界の光を受け止め、内部で屈折させたのち、それをあらぬ方向に逃がすことなく、ただ、すべてを元の方向に返しているだけです。ただし、鏡のようにまっすぐ光線を反射させるのではなく、複雑な屈折を経ることで、燃えるような光芒を放つのです。「きらり」が全方位に光をふりまくアイドルのようであるのに対し、「ぎらり」に、まるでこちらをにらみつけるような強さが感じられるのは、その屈折ゆえです。

「本当に生きた日」とは、ある人間が屈折した心をかかえつつも、自分をとりまくこの現実と、真摯に相対した瞬間に生まれるきらめきです。内から輝き出る才能も、素直でまっすぐな心も必要ありません。それは、ただ、自分の目の前にある何かと向きあい、自分のすべてをそれに向かって放つことなのです。