天国の100万円アパート、ナウなヤングにバカウケ、KAWAII

そのため、「マンション」と呼ばれていればその名にふさわしい(つまり、その語の意味にかなった)ものが存在しているはずだと思い込む。これを逆に利用すれば、あまり立派とはいえない住宅でもそれを「マンション」とさえ名づけておけば、聞いた人は実際以上によいものがあると想像するかも知れない。名前が日常生活に馴じみの薄い外来語で何となく立派そうに聞こえるものであれば、それはそれだけよいわけである。しかし、何度も繰返されればそのようなからくりもだんだん知られて効果がなくなってくる。「マンション」という語についてそのようなトリックが働きにくくなったら、今度は何か別の立派そうな語でそれを置きかえてやってみるということになる。そのようにして、このような分野には新しい名称が次々に登場してくるのである。

池上嘉彦意味の世界』より

日本語の「アパート」という言葉と「マンション」という言葉は、どちらも集合住宅を表す言葉ですが、一般的に言えば「アパート」のほうがボロっちい感じがいたします。このようなニュアンスの相違はどこから生まれてきたのでしょうか。

例えば、新明解国語辞典によると、「アパート」は「(共通の出入口がある)現代風の(二階以上ある)棟割長屋。普通、管理人が居る。」もの。一方、「マンション」は、「高級性を志向した高層アパート。」です。確かに「マンション」のほうが高級です。しかし、さすが新明解ですね。語義に「普通、管理人が居る」とはなかなか書けません。ンなもんマンションにだって管理人はいるだろ?と思いますが、日本における「管理人さん」の最大公約数であるところの、「美人+未亡人+大きな竹ボウキ」という属性にふさわしいのは、高級マンション管理人では断じてないわけです。

池上嘉彦の説明によりますと、まず、集合住宅は最初「アパート」と呼ばれていた。ところが、そのうち「アパート」という語が日常的なものとなり、魅力がなくなっていった。そこで、耳慣れない「マンション」という名前が用いられるようになった。すなわち、この2つの語の意味の違いは、発生順序から来ています。

日本で最初の集合住宅「上野倶楽部」の落成は明治43年(1910年)11月6日で、この11月6日は「アパートの日」とされています。昭和28年(1953年)に建てられた地上11階建ての「宮益坂アパート」は「天国の100万円アパート」と謳われたそうです。今だと冗談にしか聞こえませんね。「天国って、……死ぬんすか?」って感じです。この頃は「アパート」という語のイメージがまだ悪くなかったことが分かります。「マンション」が普及を始めるのは、広辞苑によれば1960年代後半以降のことです。

この「アパート」と「マンション」の栄枯盛衰を見てみると、そこには「日常的になったものには魅力がない」「外から来る新しいものは魅力的だ」という法則があることが分かります。現在では、さらに「マンション」とう言葉が日常化してしまい、「ハイム」だの「パピヨン」だの「アビタシオン」だの集合住宅には次々に新しい言葉が必要になるわけです。

この、「新しい言葉を用いることで商品を魅力的に装う」という広告戦略が、特に住宅分野で著しいように見えるのは興味深いことです。もちろん、単純に値段の高い商品ですから、あの手この手で売ろうとしている、ということなんでしょうが、私には、多くの人が住宅を購入するとき、値段の割にあまりちゃんと考えていない、ということもあるような気がします。

人間はだいたいにおいて、数字が大きくなるとその大きさを正当に評価できません。お金が増えれば増えるほど、差に鈍感になります。例えば、1000円の商品を10円で買えたら嬉しいですよね。では、1億5000万円の住宅を1億4990万で買えたらどのぐらい嬉しいですか? 数値のみで判断するならば、後者は前者の100倍以上嬉しいはずなんですが、どうでしょうか。このあたりの我々の経済感覚の不条理については、ゲーリー・ベルスキー、トーマス・ギロヴィッチ『賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか』が例が豊富で面白いです。もっとも、人間はあまりごちゃごちゃ考えないですぱっと決断したほうがいい判断ができるそうですが。

さて、この「日常的なものには魅力がない」というのは、日本という国が有史以来、外国文化をキャッチアップすることで成長してきた歴史が関係しているのでしょうか? だとすると多言語ではこのような傾向はあまりないことになりますが、あいにく不勉強で分かりません。

昔はいい意味だったのに、今ではすっかり価値がなくなった言葉といえば、「あはれ」「をかし」があるでしょう。古文を勉強した人は、これらの2単語が、平安時代あたりでは最高クラスのほめ言葉だったことをご存知であると思います。他にも「御前」や「貴様」も、その漢字を見ての通り、かつては尊敬語でありました。「適当」「いい加減」なども字義からしてもともとは「ちょうどいい」という意味が主であったはずです。

どうも日本語では「良い」という意味の流行語がものすごい速さで風化するようです。2006年現時点で、広告に「ナウなヤングにバカウケ!」と書いてあったら、数ナノ秒でギャグだと分かります。「ナウい」は1970年代の流行語ですが、もう完全に風化しています。他にも、「チョベリグ!」なども今や大変よろしくない。ああ、こうやってタイプするだけで、むずむずしてきます。もっとも、例外はあるもので、今でも普通に使われる「かっこいい」は実は1960年代の流行語であったようです。

過酷な転変を生きる日本語たちですが、価値が上昇した単語もあります。「かわいい」は、古く鎌倉時代頃には既に使われていました。当時の意味は、「おもはゆい、見るに耐えない、気の毒だ」という感じでした。「楽しい→楽しそう」と「かわいい→かわいそう」の用法の違いはこんなところに根があったわけです。ですから、この時代「かわいい」は、けして単純に「良い」意味とは言えませでした。それが今や、ほめ言葉として不動の地位を築いています。

日本語の流行語の変遷が、新奇なものをありがたがる心理から発しているものなら、この「かわいい」の地位の上昇は、日本人が独自の価値観をつくりあげた証拠だ、と解釈することもできそうです。KAWAIIが世界を駆けつつあるのは、日本人の精神史の一大転換点なのかもしれません。

そういえば「萌える」も万葉の時代からある言葉でしたね。まあ、この言葉が表している文化の中身にはついてはさておき、「ナウい」や「チョベリグ」などの外来語由来の言語に比べて、「かわいい」や「萌える」のほうが私は好ましい気がしますがどうでしょうか。