手放すこと、この文章はだれが書いているのか?、信じること

 私の好きな言葉に、「内心にひそむ確信を語れば、それは普遍に通ずる」という名言がある。アメリカの哲学者エマソンが『自己信頼』というエッセイで述べたもので、ものを考えたり、書いたりする際、いつも私の脳裏にあるのはこのエマソンの言葉である。自分自身の考えを信じ、自分にとって真理であることは、すべての人にとっても真理であると信じること、それが天才というものであって、人間にとってもっとも肝心なことは、自分自身を信じることである、とエマソンは言う。(中略)

 たしかに、なにごとかを確信して、自分の考えと呼べるようなものを獲得するのはたいへんむずかしいことではある。しかし、私自身の体験から、本当に自分で確信したことは、必ず他の人びとにわかってもらえ、少なからざる感動あるいは共感を得られる、と保証することができる。ただし、その際、いちばん肝心なことは、自分ひとりで徹底的に考え抜くということである。本当にこれは私自身の考えだ、と言うことができれば、それはエマソンの言うように、普遍に通ずるはずである。自分自身も驚くようなすばらしい自分の考えのみが、他の人びとをも驚かせ、納得させることができる。他の人がびっくりする前に、自分自身がびっくりするような自分の考えこそ、内心の確信に通ずるものである。

木原武一『孤独の研究』より

天才とは、自分自身の考えを確信することができる人間のことであり、そのためには自分ひとりで徹底的に考え抜くということが大切であると木原武一は述べています。

一方、最近では、ブログなどコミュニケーションツールの発達にしたがって、アイデアを早い段階で公開し、多くの人々と共同で磨きあげていくという方法が主流になりつつあります。例えば、川合史朗ハッカーは頭の中を掃除する」の「「直したい箇所はたくさんあるし、試したいアイデアもたくさんあるけれど、「現状は現状として認めてひとまず手放してみる」ということが要点だ。」などが端的です。これは、「自分ひとりで徹底的に考え抜く」という方向性とは、まったく反対に見えます。

いったいどちらが正しいのでしょうか?

この「手放す」という言葉は、親が子を思うような切なさが感じられる、すてきな言葉です。では、いったいなぜ、手放したことによって思考が深まるのでしょうか。例えば、ブログに記事を投稿することを考えてみます。投稿して、コメントがつく、あるいはトラックバックが入る、そして、それに触発される。あるいは、誤りが訂正される。これで思考が深まるのは、間違いないでしょう。それは、自分とは異なる視点によって、思考が吟味されるからです。

では、他人の反応がない場合はどうでしょうか。ここからはどこまで賛同者がいるか分かりませんが、私の感覚を書きます。

私の場合、反応があろうがなかろうが、文章を書くということそのもので思考が深まります。自分の思考を言葉にするということは、脳ミソから思考を「手放す」ということだからです。しかし、この場合、読んでくれる他人はいない。なのに、思考は深まります。

自分が書いた文章は、自分が読むしかない。しかし、考えてみると、その文章を読む「自分」というのは、最初に文章を書いたときの「自分」と同じではないのではないか。

「孤独」というのは、そこに自分しかいないという意味です。であれば、「自分」とは何かがまず問題になるはずです。文章を書くということは、未来の自分に向けて自分の思考を手放すことでした。では、この「未来の自分」というものは、はたして「自分」なのか? あるいは、目の前の文章を書いた「過去の自分」というものは、はたして「自分」なのか?

もっと端的に、今この瞬間の「自分」というものは、本当にたった一つの自分であるのかどうか。私は、文章を書いていると脳内麻薬がドバドバ出る人間ですので、毎日けっこうな量の文章を書いているのですが、しばしば、その文章を書き始める前にはまったく想像できなかった結論にいたることがあります。ある疑問を抱き、その答えを知らないまま文章を書き始めてみると、いつのまにか答えが出ていることすらある。この感覚は、むしろ何かとの「出会い」の感覚に近い。いったい、私のこの文章はだれが書いているのか?

木原武一は「自分自身を信じること」の重要性を説きました。私もそれに賛成します。「今文章を書いている自分自身」が信じられなくてもいい。ただ、10分後にこの文章を読む自分、あるいは、自分の中にいる全然別の自分を信じること。その信頼は、相手が「自分」だから生まれてくるものではありません。むしろ、10分後の自分はもはや自分ではない。しかし、だからこそ、その自分ではない何かを信頼すること。

小林秀雄は『美を求める心』で、歌人の仕事とは「感動に、言葉によって、姿を与える」ことだと書きました。私の思考は、私によって姿を与えられ、未来の私と出会うチャンスを与えられたのです。今この瞬間の私は、その「出会い」のために文章に命をふきこみ、そして、それを手放します。

木原の「自分自身がびっくりするような自分の考え」という言葉は、よく考えるとずいぶんおかしなことを言っています。「自分自身の考え」に「びっくり」するなんてことがあるのでしょうか? あるとしたら、その驚きは、自分の中で自分と出会い、その自分という他人を信頼できたとき、初めて生まれてくるものではないかと思います。