「さざんか」と「ふいんき」、バッドノウハウ、国境の長いトンネル

「雰囲気」を「ふいんき」とする誤読は有名ですが、実はこれとまったく同じパターンで誤読され、しかも日本語として定着してしまった語があります。「さざんか」です。今日は言葉の誤用の背後にある「合理性」について考えます。

 正しくは「情けは人のためならず」。
 情けを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いがくる、という意味である。つまり、親切なおこないをするというのは、結局は人のためではなく、自分のためなのだ、ということ。それが、「ためならず」のところが誤解されて、冒頭で女の子が言っていたように「人のためにならない」という誤用が、かなり広まった。
 誤用は誤用だが、私はなかなかいい解釈だな、と思う。その場限りのヒューマニズムや、安易な同情で、親切にしてもかえって本人のためにならないことは、確かに多い。甘えた根性を、びしっと断ち切ってやることだって必要だ。そういう共感をよぶ内容だからこそ、これほどまでに誤用が広がったのだろう。
 いっぽう、本来の意味のほうは、私などには、えらいエゴイズムのように感じられる。人に親切にするときぐらい、見返りなんか忘れたい、と思う。いつかは自分のためになるんだと思って親切にするなんて、ずいぶん、セコイ発想ではないだろうか。もちろんここには、「因果応報」という仏教の考えかたが、あることはわかるのだが。その考えかた自体も、現代社会ではかつてほどポピュラーではなくなってしまった。そのことも、誤用のほうが普及する素地となっているのかもしれない。

俵万智言葉の虫めがね』より

俵万智が挙げている例でもう一つ紹介しておきましょう。「住めば都」。この言葉を「住むんだったら都がいい」と誤解した高校生がいました。本来は「どんなところでも、住んでみれば都のようにすばらしい」という意味です。しかし、俵万智は、この本来の意味に、既に前提として「都がよい」という発想が入っているではないか、と指摘します。なるほど、もっともです。

さて、誤用と言っても、それが定着してしまえば誤用ではないわけです。

「既出」を「がいしゅつ」と読むのは、「既」という字を含む漢字「慨・概」がどちらも「ガイ」と読むためです。形声文字として漢字を読んでいるわけで、合理的な読み方であると言えます。これと同じパターンで、「消耗」は本来「しょうこう」が正しいのですが、「毛」という字に引きずられて「しょうもう」で定着してしまいました。

また、「雰囲気」を「ふいんき(←なぜか変換できない)」とやるのも有名です。漢字を見れば「ふん、い、き」と切れるのは当然なのですが、しかし、明らかに「ふんいき」よりも「ふいんき」のほうが発音がしやすい。実際、「山茶花」という言葉は今では「さざんか」と読まれていますが、本来は「さんさか」でした。漢字を見れば、明らかに「さん、さ、か」ですよね。「さざんか」と「ふいんき」は同じ誤用なのです。ですから、50年後ぐらいに「ふいんき」が変換できる日が来るかもしれません。

「気が置けない」と「役不足」は誤用されることで有名です。

「気が置けない友」は「気を許せない友、ではなく、気づかいをする必要がない友」などと説明されますが、どう考えても無理な説明です。「目の見えない人」というのは、断じて「見る必要がない人」ではありません。誤用の合理性などとえらそうなことを言うまでもなく、こんなもん明らかに言葉のほうがおかしいです。

役不足」は、「役目を果たす能力が自分にないこと、ではなく、役目が軽すぎること」という意味です。これは、言葉がおかしい、とまでは言いませんが、誤解するのも無理はない。確かに「水不足」は「水が足りない」ことですが、「親不孝」は「親に孝行せず」ですし、「怖いもの知らず」は「恐いものを知らない」でしょう。なら「役不足」が「(自分が)役に足りない」でも別にかまわない気がします。だいたい、「その役目は自分には軽すぎる」など言い放つ傲慢不遜な発想に抵抗を感じる感覚のほうが普通でしょう。

もちろん、言葉というのはコミニュケーション、ではなくてコミュニケーションの道具ですから、どんなに変な使い方であっても、みんながそう使っているから、ということで憶えなければならないことはあります。また、こういう不合理なところが言葉のいとおしさです。しかし、誤用した人間を嘲笑したり糾弾するのはちょっと違うでしょう。バッドノウハウを奥が深いと言ってありがたがる必要は別にないと思います。

ところで、誤読とはちょっと違いますが、「国境」の読み方の話。

川端康成の『雪国』の冒頭は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ですが、この「国境」を「こっきょう」と読むか「くにざかい」と読むか。このトンネルは清水トンネルで、越後と上野(こうずけ)の境界ですから、現代で言えば県境に過ぎません。だから、ただの「くにざかい」であって「こっきょう」ではない、そういう議論が声高に語られます。

飯間浩明は著書『遊ぶ日本語 不思議な日本語』の中でこの問題を論じています。氏のサイト「ことばをめぐるひとりごと」の中の「国境の長いトンネル」でもだいたいの議論は読めますが、おおざっぱにまとめるとこういうことです。

  • 日本国語大辞典で「国境(こっきょう)」を引くと、「日本においては、近世まで行政上の一区画をなした地の境界をもいった」とある。
  • 森鴎外が、その意味で使った用例がある。
  • 「駿遠国境」(駿河遠江の国境)という用例がある。これは明らかに「こっきょう」。
  • NHKで『雪国』を朗読したとき「こっきょう」と読んだ。この番組には川端康成本人が出演していた。
  • 川端康成のインタヴュー記事に、みんな「こっきょう」と読んでいるだろう、という意味の発言がある。

ということで「こっきょう」のほうにやや分がありそうです。まあ、どっちかに決めるようなことではないのですけどね。でも、なぜみんな「こっきょう」と「誤読」してしまうのでしょうか?

私が妄想するに、「こっきょうの、長いトンネル」が五七調になっているのが大きい。実際、「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」(末尾を「だった」に変更)をGoogleで検索すると、67件もヒットします。これは「雪国だった」が7音ですわりがいいからでしょう。

また、みみっちい「くにざかい」より、雄大な「こっきょう」のほうが、『雪国』という名作の冒頭としてふさわしいという感覚もありそうです。

フロイトではありませんが、言葉の誤用には我々の思考が反映されています。私は、言葉の誤りを糺すよりも、それについて考えるほうが楽しいです。