大理石の中の女神、二念をつがない、見るともなく全体を見る

夏目漱石夢十夜』の「第六夜」に、運慶は、仁王像をつくっているのではなく、眉や鼻が木の中に埋まっているのを掘り出しているだけだ、という有名な言葉が登場します。今日は、のぼせあがった我々の脳を冷ましてくれる、この言葉の力について考えます。

「よくああ無造作むぞうさに鑿を使って、思うようなまみえや鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言ひとりごとのように言った。するとさっきの若い男が、

「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中にうまっているのを、のみつちの力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。

 自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。はたしてそうなら誰にでもできる事だと思い出した。それで急に自分も仁王がってみたくなったから見物をやめてさっそくうちへ帰った。

 道具箱からのみ金槌かなづちを持ち出して、裏へ出て見ると、せんだっての暴風あらしで倒れたかしを、まきにするつもりで、木挽こびきかせた手頃なやつが、たくさん積んであった。

 自分は一番大きいのを選んで、勢いよくり始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪をかたぱしから彫って見たが、どれもこれも仁王をかくしているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王はうまっていないものだと悟った。それで運慶が今日きょうまで生きている理由もほぼ解った。

夏目漱石夢十夜』「第六夜」より

主人公が、護国寺で仁王を彫っている運慶を、野次馬たちと見物する場面です。この「眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」という言葉は、非常に有名です。全文は、青空文庫の『夢十夜』を参照してください。

この、「発明」ではなく「発見」だ、というありかたは、芸術や科学など、「創造的」と形容される分野において、しばしば一つの理想像とされます。ミケランジェロは「彫刻とは取りのぞくことによって造られる」「自分の仕事は大理石の中にいる女神を救うことだ」と言ったそうです。しびれます。また、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一も、運慶のような「自然な、無理のない創造」を科学の理想と述べています。

しかし、そもそも、主人公はこの言葉通りに木を彫って失敗しているのです。もちろん、そこには、内発的な動機の不在という問題はありますが、少なくとも、この第六夜は、「掘り出すだけだ」という言葉を無批判に賛美する話でありません。さらに、この言葉は、見物人の一人の男によって発せられたものにすぎず、運慶自身がそのように仁王を彫っているとは、実はどこにも書かれていません。すなわち、漱石自身が、このような創作のありかたを理想として提示しているわけではありません。

にもかかわらず、読者がこれを運慶の創作姿勢だと思い込んでしまうのは、運慶ほどの芸術家ならさもあろうと思わせる説得力が、この言葉にはあるからでしょう。真の創造において、目指すべきものは世界の中に最初から一つの必然として既にあって、我々はそれを探すだけであるという考え方は、人を強く魅了する力をもっているようです。

では、この考え方はなぜ人を惹きつけるのでしょうか。

この言葉が具体的なアドバイスにならないことは明らかです。迷ったときの判断の基準、選択肢を評価する指針になるような言葉では絶対にありません。というか、この言葉は、むしろ「判断」とか「評価」とかいうものを否定していると言えます。仁王が木の中に埋まっているのなら、だれが掘り出しても同じなわけで、そこに考える余地はないはずです。

ということは、この言葉は、判断とか評価とか、前頭葉が司る脳の高次機能を止めてしまえ、と言っているかのようです。これは実は、「禅」の教えとまったく同じです。

禅に、数息観(すそくかん)と呼ばれる修行があります。「禅の究極の修行」と言う人もいます。大ざっぱに説明すると、数息観とは、ただ自分の息を数えることです。ただし、息を数える以外のことを考えないようにする。これが実に難しい。

我々は、当たり前ですが、常に息をしています。しかし、日々の生活では、それを意識することはありません。息をすれば、鼻を空気が通ります。腹が動きます。そういう刺激があるにもかかわらず、それを意識にあげていないのです。つまり、頭のどこかで「それは重要でない」と、フィルタリングしている。

数息観の目的は、その、ただ息をするという感覚を感じることです。もし、息を数えているとき、何か音が聞こえたら、聞いたままにします。目の前を何かがよぎったら、見たままにします。刺激に対していちいち判断をしません。雑念が浮かんでも拘泥せず放置します。禅では、これを「二念をつがない」と表現します。

我々の仕事とか勉強とかを観察してみると、何か意味のある作業をしている時間がそんなに多くないことに気づきます。大部分の時間は、「迷う」ことに費やされている。「迷う」というのをカッコよく言えば「判断」とか「評価」になるわけですが、しかし、それは結局、何もしていない時間です。

所詮、日々の作業はそれほど高度な創造性をもつわけではなく、あるいは創造的な作業であっても、その仕込みとして、ネットで検索したり、資料をまとめたり、本を読んだりすればいい。要するに「これをやればいい」ということは目の前にあるわけです。ところが、我々はどうしてか、ぼーっとしてしまう。それは、余計な思考で脳が空まわりして、のぼせあがっているからです。

そういうときは、脳の高次機能を意図的に殺してしまうことが非常に有効です。「考えるな、感じろ」というやつです。意識などというものは、もともと創造においてはほとんど無意味なのですから、スイッチを切っておくのがいい。

「つくりだすのではなく、掘り出す」という比喩は、このあたりの機微を的確に表現した言葉だと言えるでしょう。仁王は既にそこにある、と思いなすことによって、「どんな仁王をつくるべきか」という脳の余計な思考を止めて、目の前の木に思考を集中できます。

「砂から石を掘り出すように」という比喩は、我々の意識を、石そのものから周囲の砂にうつす働きがあります。井上雄彦バガボンド』で沢庵和尚が言っていたように、一つにとらわれず「見るともなく全体を見る」ほうがいい結果が出ます。

人間は弱い生き物で、つい「今やってることは正しいのだろうか」と、余計な判断・評価をして、手を止めてしまいます。特に現代は、仕事が複雑化し、脳がのぼせあがりやすい時代です。そのとき、答えは目の前にあり、どんなやり方をしてもそれにたどりつくことができると問答無用に信じさせ、脳をクールダウンさせてくれる力を、この言葉はもっているのです。