蛙飛び込む水の音、コンパイラコンパイラ、世界を拓く力

「古池や蛙飛び込む水の音」は、なぜ革新的な俳句なのでしょうか。芸術作品の価値とは、どこにあるのでしょうか。今日は、解釈という行為を、計算機におけるプログラム解釈ソフト「コンパイラ」を比喩としてとらえることで、教育が真に目指すべきものを考えます。

鶯の啼くや小さき口あいて  与謝蕪村

 古来鶯を詠んだ歌や句は多くあるが、歌や句づくりの常識としては、鶯は声をきくもので、とりたてて見つめるものではなかった。その点では蛙(かわず)と同じといっていい。ところが、蕪村は鶯の鳴く動作そのものに目をとめた。彼以前に、鶯という鳥を「啼くや小さき口あいて」というふうに詠んだ人は、和歌、俳諧を通じていなかっただろう。蛙を古池にとびこむ水音でとらえた芭蕉同様、蕪村もそのようにして鶯の歌の伝統を新しくしたといっていい。

大岡信うたの歳時記』より

ここでふれられている芭蕉の句とは、言わずと知れた「古池や蛙飛び込む水の音」です。この句の革新性について、簡単におさらいしておきます。

この句はまず、芭蕉によって下七五の「蛙飛び込む水の音」が作られました。そこに、弟子の其角が上五は「山吹や」ではどうか、と提案します。このとき、其角の頭には古今集の「かはずなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」があったといいます。「鳴く蛙」と「山吹」の組み合わせは、伝統的な美意識として確立していたのです。

其角はそこに、「山吹や蛙飛びこむ水の音」とすることで、肩透かしをくらわせようとしました。「山吹」「蛙」ときた。読者は、当然次は「鳴き声」だと思っている。なのに、蛙は水の中に飛び込んでしまう。これぞ俳諧の機知だ。其角の考えはこうでした。

ところが、芭蕉は其角の案をしりぞけ、「古池や」を採用します。そうすることで、この句の「蛙飛び込む水の音」は、単なる伝統に対する戯(おど)けを越えて、一つの世界にまで昇華することになりました。すなわち、この句は、「山吹=蛙」に代表される伝統美に対する革新のみならず、その伝統美を安易に批判し滑稽に流すのみでよしとした当時の風潮に対する批判にもなっているのです。

要するに芭蕉の本質はパンクなんですよ。ところが、現代の我々にとっては、むしろこの「古池や」こそが、俳句の伝統そのものです。ですから、いったい何がこの俳句の新しさなのかよく分からない。この俳句の革新性について理解するためには、この俳句をとりまく伝統美の変遷について知る必要があるのでした。

一般に芸術作品について同じことが成り立ちます。芸術は、その作品のみで独立しているわけではなく、その作品が前提としているさまざまな文化状況と合わせて理解する必要があります。ということは、そういう作品をめぐる文化が失われたとき、その作品自体の意味や価値も失われてしまうということです。

コンピュータのプログラムに関しても似たような話があります。プログラムは、それぞれ独自の文法をもちます。「変数Aに0を代入する」だったら、"A=0"とか"LET A = 0"とか"(setq A 0)"とか"(= A 0)"とか"LD A,0"とか"XOR A"とかいろいろあるわけですが、計算機は、これら文字列たちをそのまま理解することはできません。そこで、機械が分かる言葉に直す必要があります。この作業を「コンパイル」といい、コンパイルを行うプログラムを「コンパイラ」と呼びます*1

プログラムは、コンパイラがないと意味をもちません。プログラムのソースコードが残っていたとしても、コンパイラが失われたらプログラムは価値を失います。これは芸術作品をめぐる状況と同じです。その作品を理解する文化というものが、芸術には必要なのです。

芭蕉は「不易流行」という言葉を使いました。不易は変わらず永遠なもの、流行はその時々で変化していくものです。不易流行とは、不易と流行が根元において結合しているという意味です。真の芸術なら「不易」だけを追求するべきだ、というわけにはいかなくて、どんなに普遍的な思想でも、それはある時代の言葉によって表現されねばならず、ある文化の読者によって解釈されねばならない。そこには必ず「流行」があります。

高浜虚子は「選もまた作句なり」と言ったそうです。作品の価値というものが、読者と不可分のものとしてあるという思想を、虚子らしいストレートな言い方で表現したものでしょう。

ところで、「コンパイラコンパイラ」という不思議な名前のコンパイラがあります。なんだか、オイデオイデ、ワカレワカレ、ドッコイドッコイ、フィフティフィフティ、ショートショート、キャンディキャンディ、デュランデュラン、マイヤーマイヤーみたいな変な名前ですが、これは、プログラムの解釈の仕方(文法)を教えると、それにしたがってプログラムを解釈してくれるコンパイラを作成してくれるコンパイラです。例えば、"a <- 0"という文字の並びは、「Aに0を代入」するという意味だよっ、とコンパイラコンパイラに教えてあげると、"a <- 0"というプログラムを「Aに0を代入する」という意味に解釈するコンパイラを作ってくれます。

突然ですが、教育の目的というのは、コンパイラコンパイラをつくることではないでしょうか。

例えば、芭蕉の俳句を理解するということは、江戸時代における価値観の変容について知ることでした。これは、プログラムを理解するために、コンパイラを用意することと同じです。我々は、さまざまな異文化に出会っていきます。そのとき、それを理解するためのコンパイラをもつ必要があります。しかし、未来において出会うであろうすべての異文化に対して、その解釈装置を準備しておくことはできないでしょう。

であれば、必要なのは、対象に応じたコンパイラをつくる能力です。我々が芭蕉の俳句を勉強することで学ぶことがあるとすれば、それは「古池や〜」の句を解釈するためには、どんなコンパイラが必要であるのかを知ることでしょう。その経験は、別の異文化に出会ったときに再び役立つものです。

もし、そうなら、学校で「役に立たないこと」を勉強するのは、大いに意味があります。生徒の言う「役に立たない」は、大抵の場合勉強する内容が「自分の身近なものではない」という意味です。ですが、だからこそ学ぶ意味があります。まったく、異質な世界に対して、解釈装置をつくり出す練習を重ねることは、将来に大きく資するでしょう。そういう意味では「身近で、役に立つ」ものばかり教えるというのは、あまりいいことではありません。異質にふれ、それを理解する訓練ができなくなるからです。

教える側としては、プログラムの解釈を教えるのが目的ではなく、コンパイラコンパイラをつくるのが目的であることを認識する必要があります。生徒が何か質問をもってきたとき、教師の役割は「答え」を教えることではありません。さらに、「解き方」と教えることでもありません。教師は、「学び方」「学ぶ姿勢」を教えるものです。

例えば、「ボ金を集める」の「ボ」ってどう書くんですか?と、生徒に聞かれたとき、単に、「募」だよ、と教えるのは木偶の仕事です。それより、「他にもボと読む字は、暮・墓・慕などがあるだろ。でも募金は力ずくで『金出せやコラ』っつって集めるから『募』って書くんだよ」と教えたほうがいい。さらに、「形声文字には注意するといいよ」とか「暗記するときは、こじつけでもいいから理由づけして憶えるといいよ」とか、そういうことを教えるほうがいい。そういうアドバイスは、漢字以外のコードをコンパイルするときにも、大いに役立つはずです。

この句の「蛙」は、みんなが知ってる身近な蛙ではなく、1000年以上の美的伝統の重圧の中に生きてきた蛙が新たな生命を与えられた姿です。やれ山吹だ、鳴き声だとがんじがらめになっていた蛙が、芭蕉によって自由を与えられ、ひょいと池に飛び込むのです。そのとき、世界がさっと拓けていく感覚。それこそが、学びです。

*1:この文章における「コンパイラ」という言葉は、「インタプリタ」との対比としてではなく、ソースコードをネイティブコードに変換するシステムを表すために用いられています。