無限級数を追う、人生常に道半ば、禍福糾える縄の如くあれ

なんだか、毎日、同じことをくり返している。うまくいくときもあるけど、同じぐらい失敗もある。実はそういう感覚は、人生で何ごとかをなす、必要・十分条件なのかもしれません。今日は、高村光太郎「刃物を研ぐ人」の「無限級数」という言葉を導火線に、生を積み重ねることについて考えます。

  刃物を研ぐ人     高村光太郎

黙つて刃物を研いでゐる。
もう日が傾くのにまだ研いでゐる。
裏刃とおもてをぴつたり押して
研水をかへては又研いでゐる。
何をいつたい作るつもりか、
そんなことさへ知らないやうに、
一瞬の気を眉間にあつめて
青葉のかげで刃物を研ぐ人。
この人の袖は次第にやぶれ、
この人の口ひげは白くなる。
憤りか必至か無心か、
この人はただ途方もなく
無限級数を追つてゐるのか。

何ごとかに打ち込んだ、あるいは、何かしらものを創作しようとしたすべて人間の共感を呼ぶ詩ではないでしょうか。「刃物を研ぐ」という設定が抜群です。刃物とは何かを切るための道具ですが、同時にそれ自体に芸術的価値のあるものです。ですから、それを研ぐという行為はけして閉じた遊戯的な行為ではないけれど、しかし、それは純粋な求道として読むものの心を打ちます。

なにより、最終行の「無限級数を追う」という比喩が妄想を爆発させてくれます。

無限級数というのは、無限に続く足し算です。普通の足し算とは違った面白い性質をいろいろもっています。まず、この「刃物を研ぐ人」が追いかけている「無限級数」がどのような性質をもっているかを想像してみます。

無限級数は、まず収束するか発散かで分類できます。発散する無限級数とは、

1+1+1+1+1+\cdots

や、

1+2-3+1+2-3+1+2-3+\cdots

のように、値が一定の値に近づくことなく、どんどん大きくなったり、ある範囲をうろうろ振動するだけだったりするものです。「刃物を研ぐ人」はおそらく発散する無限級数を求めているわけではないでしょう。なんとなれば、人生は有限だからです。発散する無限級数を有限の部分で止めたとしたら、そこに残る数字は近似としての意味すらもっておらず、まったく無意味になってしまいます。

すなわち、ある仕事をなすとは、ただ前進しまくることでも、同じことを延々とくり返すことでもないということです。

収束する無限級数とは、例えば、次のような数列です。

1+\frac{1}{2}+\frac{1}{4}+\frac{1}{8}+\frac{1}{16}+\cdots

これは、等比数列の和ですが、高校で勉強した通り、2に収束します。このように、収束する無限級数は必ず減少列(値が少しずつ小さくなっていく数列)の和になっています。

完成を目指すには、だんだん作業を緻密にする必要があるということですね。この「刃物を研ぐ人」の生き方はそのようなものでありそうです。

ただし、減り続けりゃあいいというものでもありません。例えば、次の数列は収束しません。

1+\frac{1}{2}+\frac{1}{3}+\frac{1}{4}+\frac{1}{5}+\cdots

この無限和は非常にゆっくりとですが、発散します。要するに、「研ぎすぎ」ってことです。口ひげがまっ白になるまで研ぎまくってたら、刃物がなくなってました、てへ♪って感じでしょうか。そんな人生はイヤです。

もう少し真面目に考察すると、ただひたすら前に進んでいくだけの人生では、作業が少しずつ緻密になっていったとしても、結局、死ぬまでに何も残せないかもしれない、ということでしょうか。

さて、無限級数1+\frac{1}{2}+\frac{1}{4}+\frac{1}{8}+\frac{1}{16}+\cdotsの場合、収束先は2でした。この無限級数の、第1項までの和、第2項までの和、第3項までの和……と2までの差を計算してみると、1\frac{1}{2}\frac{1}{4}……というふうに、半分になっていくことが分かります。つまり、ゴールまでの距離を半分につめる作業を延々とくり返していることになります。

このとき、無限級数は確実に収束先に近づいているのですが、では、現実の人間にはこのような絶対評価をなすことは難しいと思われます。人間は、ふつう、目標から自分の位置までの距離を一つの基準として、ものごとを考えるでしょう。ですから、このような無限級数上を進んでいる人は、「いつまで進んでもあと半分残っている」という、同じことのくり返しをしているような徒労感に襲われるかもしれません。しかし、その人は確実に前進しているのです。

ところで、こんな定理があります。これはアーベルの級数変形法と呼ばれるテクニックの特殊な場合です。

正数列a_1,a_2,a_3\cdotsが次第に0に近づくなら(正確には、\{a_n\}が単調減少、かつ、\lim_{n \to \infty}a_n=0なら)、交代級数a_1-a_2+a_3-a_4+a_5-\cdots(+−が交互に現れる級数)は収束する。

どういうことかといいますと、作業を少しずつ緻密にしながら、つまり少しずつ成長しながら、プラスとマイナスをくり返す、つまり成功したり失敗したりしていれば、どこかに収束できる、つまり何かが生まれるということです。

例えば、さきほど収束しなかった1+\frac{1}{2}+\frac{1}{3}+\frac{1}{4}+\frac{1}{5}+\cdotsも、プラスとマイナスを交互にくり返せば収束します。実際、

1-\frac{1}{2}+\frac{1}{3}-\frac{1}{4}+\frac{1}{5}+\cdots=\log{2}

となります。

高村光太郎は「刃物を研ぐ」という行為を詩にしたわけですが、この題材の選定は本当に絶妙です。刃物を研ぐことは後戻りができません。つまり、この定理のように気軽に収束できるわけではない。失敗が許されない行為です。そういう厳しさの中で、一歩間違うと研ぎすぎてしまう。しかし、手を抜くと研ぎが甘くなる。ギリギリのところで「刃物を研ぐ人」は闘っています。

しかし、我々の人生は、別に後戻りできないわけではありません。であれば、この定理は大きな勇気を与えてくれると思います。要するに、少しずつ成長しながら、成功したり失敗したりをくり返せば、それでいいんだということです。

ホリエモンの「生き急いだ」じゃありませんが、「失敗する」ということは、有限の人生で何ごとかを何す、実は一つの鍵なのかもしれません。