うがいは処女のオシッコで、臥薪飲尿、人生は舞台 人はみな役者

オシッコを石鹸せっけんとして、あるいは、うがい液として使う。そんな想像を絶する行為が、古代ヨーロッパでは行われていました。衛生感覚のような生理的感覚でさえ、社会的慣習によって左右されるということは、我々にどんな可能性をもたらすのか。今日は、舞台の上に放り出された我々人間がすべきことについて考えます。

 いまから二千年ほどむかし、南ヨーロッパから地中海ぞいの北アフリカにかけて、ローマ帝国という強大な国が五百年間もさかえていた。町はずれには洗たく屋もあって、そこで洗剤に使っていたのが、なんとオシッコだったんだ。
 オシッコには、よごれをおとすアルカリがふくまれている。オシッコをしばらく置いておくとアルカリにかわる。それをあたためて使うと、天然の炭酸ソーダ水とおなじくらいのききめがあるのだそうだ。
 洗たく屋は、人どおりのおおい町かどにつぼをおいた。とおりがかりの人がその中へオシッコをする。いっぱいになると、はこんできて、足でふみつけながらあらった。くさいから、洗たく屋は町からはなれたところで仕事をしていたらしい。

北田伸『もののはじまりビックリ事典』より

オシッコはかつて石鹸だった、という話。いかにも王道のトリビア。子供が「汚ねー」とか言いながら、大喜びしそうです。

現代人の目からしますと、「オシッコで洗濯」という行為は、なんといいますか、本末転倒、という感じでしょうか。えーと、玉石混淆、清濁併呑、呉越同舟羊頭狗肉漱石枕流、夏炉冬扇……。ともかく、ありえない組み合わせとしか言いようがない。あ、「同床異夢」が一番しっくりくるかもしれません。

この衛生感覚の違いは、ちょっと驚異的です。古代の人々は、オシッコをどう思っていたのでしょうか。

ヘロドトスの『歴史』に、こんな話が出てきます。神罰により盲目となったペロス王。彼は、「夫以外に男を知らぬ女の尿で眼を洗えば開眼する」との神託を受けます。そこで王は、まず自分のお妃のオシッコを試しますが、失敗。他の女のものもことごとく無駄に終わります。ついに、ある女の尿により視力を取り戻したペロス王は、その女を新たな妃とし、他の女の焼き殺してしまいます。

要するに、汚れなき乙女のオシッコが体によい、という発想です。いったいヘロドトスは何を考えてこんな変態キングの逸話を書き記したのか? と、いぶかしく思いきや、なんとローマ時代には、うがい液として、朝夕とった少女や処女の尿を用いることがあったそうじゃありませんか。絶句とはこのことです。これが、「処女の純潔」を尊重する思想から出たものだとしたら、いったい人間にとって「きれい」とは何なのか、わけが分からなくなります。

上記リンク先によれば、人尿でうがいをすることは、西洋では18世紀ぐらいまで推奨されていたようです。また、Wikipediaの「飲尿」の項によると、ルネサンス期には、歯の漂白剤として尿が使われていたこともあるとのこと。尿を口に含むという行為は、西洋ではかなり日常的だったようです。

かつて錬金術師たちは、黄色いオシッコには黄金が含まれていると考え、なんとか金を抽出しようと、オシッコを使った実験をくり返したそうです。実際にはオシッコの黄色は、ヘモグロビンから変化した黄色いビリルビンに由来するそうですが、ともかくオシッコを価値あるものと見る伝統が脈々とあった、ということでしょうか。

なお、上記のWikipediaの「飲尿」の項には、飲尿が「相手の全てをあらゆる感覚(味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚)で感じられる行為として非常にポピュラーである」と記されています。あらゆる感覚で相手を感じる! すごい説得力です。飲尿は究極の愛の形なんだよ! 「非常にポピュラー」なんだよ!

ところで、出たばかりの尿は無菌状態である、ということはご存知の方も多いでしょう。膀胱炎などを発症していない限り、膀胱内は無菌です。血漿が腎臓で濾過されて生成される尿は、人体内に存在する液体の中で、最も清潔な液体と言っても過言ではないのです。

ちなみに、ウンコのほうですが、こっちは文句なくバッチイです。大便の成分のほとんどは、剥がれ落ちた小腸の内壁と腸内細菌です。食物の食べカスはそれほど多くありません。断食してもしばらくウンチが出ることからも、それは分かります。目くそ鼻くそを笑う、ということわざがありますが、オシッコはウンコを笑ってもよいのでした。

ちなみに、Wikipediaからオシッコトリビアをいくつか拾っておきますと、オシッコが樹木の肥料となる、というのは誤解、というのと、ミミズにオシッコをかけるとオチンチンが腫れるのは、ミミズの飛ばす防御液のためかもしれないというのが面白かったです。

さて、このように西洋ではそれほど嫌われていないのかもしれないオシッコですが、日本人たる我々には嫌悪感が先立ちます。芭蕉に「のみしらみ馬の尿ばりする枕もと」という俳句がありましたが、やはりこの句から受けるのは、凄惨な旅の苦労でしょう。

日本人がオシッコというものをどのようにとらえていたかを示す面白い話があります。鎌倉時代頃に成立したとされる源平盛衰じょうすい記に、呉王夫差ふさと越王勾践こうせんの、こんな逸話が載っています。

呉王夫差と越王勾践と言えば、「臥薪嘗胆」です。夫差は父を勾践に討たれた無念を忘れないために、薪の上に寝て雪辱を誓い、やがて勾践に打ち勝ち、臣従させます。一方の勾践も、夫差に召使いとして扱われる屈辱を忘れないため、苦い肝をなめて復讐のときを待ちます。

源平盛衰記によると、夫差が病気に倒れたときのことです。医者は夫差の尿の味を見ることで、病状を知ろうと考えますが、他人の尿を飲みたがるものなど誰もいません。そのとき、勾践は自ら進んで夫差の尿を飲んだそうです(引用元)。なんと「臥薪嘗胆」の真実は、「臥薪飲尿」だったのでした!

まあ、源平盛衰記は創作バリバリの書ですから、こんな話を天から信用するのは愚かというものです。しかし、当時の日本には飲尿という行為にひどい嫌悪感があったことは分かります。皇帝のそれですら飲めない、という話が成立するぐらいですから。

基本的に今の日本人は外国人と比べて、異常にきれい好きであるという点を差っ引いても、このような日本と西洋のオシッコに対する衛生感覚の差は大きいように思えます。これがいったいどこから来るのか、私にはよく分かりまん。

まとめますと、我々日本人には非常に不潔な行為に思える「飲尿」ですが、西洋では歴史的には、けっこう普通だったらしい、ということと、そもそもオシッコはそんなに汚くない、ということでした。

だいたい、汚い、ということであれば、人体で最も雑菌が繁殖している場所は、消化管内を除けば、唾液中でしょう。口内は、適度な温かさと湿度、エサが定期的に供給される最高の環境です。尿より唾液のほうが間違いなくばい菌は多いはずです。きちんと掃除をしている便器のほうが、ほったらかしの机の上よりきれいだ、という話もあります。

要するに我々の感じる「不潔感」というのは、偉そうな言い方をすれば、社会的幻想です。衛生感覚のような、人間が進化の途上で必要だから身につけたものですら、社会によって異なるのです。

それは、私にはなかなか嬉しいことです。なぜなら、それは、生理感覚という、自分にベッタリと張りついているように思えるものですら変えられるのかもしれない、ということだからです。

一体全体、尿は「清潔」なの「不潔」なのか。清潔と考えることもも不潔と考えることも、どちらも所詮は、思い込みであり、幻想であり、思考のかせなのでしょう。

しかし、我々は、オシッコを前にして、どうしようもなく、「清潔」とか「不潔」とか感じてしまうのです。ここには、相対主義などという高尚な立場は存在しません。「オシッコを不潔と感じない文化があるんだよ」などと偉そうに言っても、「じゃあ、あなたは飲めるの?」と聞かれたら、我々は決断をしなければなりません。「君のなら飲めるよ!」(←キモすぎです)

人は、「どちらか」を選んで生きていくしかないのです。人生に観客席はありません。我々はみな、舞台の上で「なにか」でいなければならないのです。

ならば、我々に与えられているのは、ただ「可能性」だけであるはずです。今とは別の考え方を、別の感じ方を、別の生き方を選べる可能性。それだけが唯一、意味のあることです。

さて、今回は、オシッコトリビア満載でお送りしたわけですが、「トリビアの泉」を例にあげるまでもなく、こういうムダ知識は我々を喜ばせます。それはなぜでしょうか?

たぶん、それは、「人間は、こんなふうにも考えることができる」という可能性をみせてくれるからです。だから、それはムダであればあるほどいい。

願わくば、今回のエントリが、読者にとってまったくのムダ知識でありますように。