☆んなこといいな、なぜ「その世」がないか、とってもだいすき♪

ドラえもんのうた」の出だしは「☆んなこといいな できたらいいな♪」ですが、☆に入る文字はなんでしょう? この問題の正解率は、意外と低いのですが、それはなぜでしょうか? 今日は、日本語の指示代名詞たちの生み出す多彩な意味の世界について考えます。

が、玩具屋の店の中は――殊にこの玩具の空箱などを無造作に積み上げた店の隅は日の暮の薄暗さと変りはない。保吉はここへ来た時に何か気味悪さに近いものを感じた。しかし今は幻燈に――幻燈を映して見せる主人にあらゆる感情を忘れている。いや、彼の後ろに立った父の存在さえ忘れている。
「ランプを入れて頂きますと、あちらへああ月が出ますから、――」
 やっと腰を起した主人は保吉と云うよりもむしろ父へ向うの白壁を指し示した。幻燈はその白壁の上へちょうど差渡し三尺ばかりの光りの円をえがいている。柔かに黄ばんだ光りの円はなるほど月に似ているかも知れない。が、白壁の蜘蛛くもの巣やほこりもそこだけはありありと目に見えている。
「こちらへこうをさすのですな。」
 かたりと云う音の聞えたと思うと、光りの円はいつのまにかぼんやりと何か映している。保吉は金属の熱する匂に一層好奇心を刺戟されながら、じっとその何かへ目を注いだ。

芥川龍之介『少年』より

青空文庫にも収録されている芥川龍之介の『少年』からの引用。主人公の少年が幻燈屋で、「ベニスの風景」に魅了される場面です。幻燈屋の主人が指示語を明確に使い分けていることに注意してください。「あちらへああ月が出ます」「こちらへこう画をさすのですな」

この例からも分かるように、指示語の「こ・そ・あ」は「距離感」によって使い分けられます。大辞泉によれば、「この」は「空間的・心理的に、話し手に近い人や物をさす」、「その」は「空間的、心理的に聞き手に近い人や物をさす」、「あの」は「話し手・聞き手の双方から離れた人や物をさしていう」とあります。

自分の手元にあるものを指して「これ」、相手のもっているものを指して「それ」、自分からも相手からも遠いものを指して「あれ」。まったく学校で習ったこと、そのままの話ですね。

さてここらで、冒頭の問題の答えを言っておきましょう。「ドラえもんのうた」は、正しくは「こんなこといいな できたらいいな」です。しかし、かなり多くの人が「あんなこといいな」と間違えることで有名です。興味のある奇特な方のために、Googleで、"こんなこといいな できたらいいな""あんなこといいな できたらいいな""そんなこといいな できたらいいな"で検索した結果をリンクしておきます。みんな間違えすぎです。

ちょっと脱線しますが、この歌の二番をご存じの方はどれだけいらっしゃいますか? 私の経験ですと、あまり多くはいらっしゃらないはずです。この歌の二番は、「宿題 当番 試験におつかい」と始まり、「みんなみんなみんな たすけてくれる 便利な道具でたすけてくれる」と続く、教育上とても問題のある歌詞なのです。「おもちゃのへいたいだ 『ソレ! とつげきー』」なんていうフレーズまであるのですから、いくら最後になって「アンアンアン とってもだいすき」などとごまかしたところで、文部省が認めるはずもありませんね。

閑話休題それはさておき、いったい、なぜこんなに歌詞を間違える人が多いのでしょうか? なんといっても、散々聞いているはずの超有名アニメの主題歌なのです。ふつうは間違えません。例えば、「お魚くわえたドラ猫、追っかけて、はだかで駆けてく」という歌詞(と映像)がお茶の間に流れたら、日本中がいろいろな意味で悶絶すること間違いなしです。

また、「そんなこと」と間違える人が少ないのも興味深いところです。いったい「こ」と「そ」と「あ」はどう違うのでしょうか? 単に「距離感」という説明で、この疑問に答えるのは難しい気もします。もう少し突っ込んで考える必要がありそうです。

まず、「こ」と「あ」の違いについて考えてみます。

梅田望夫ウェブ進化論』では、「あちら側」「こちら側」という卓抜な表現が分かりやすさを助けました。新しいもの、例えばGoogleは「あちら側」。古いもの、例えばMicrosoftは「こちら側」。この「こちら」と「あちら」の使い方は、『ウェブ進化論』という本が、どのような立ち位置で書かれたのかをよく表しています。筆者があと書きで述べているように、「息子や娘に対し『おまえたちのやっていることはどうもわからん』という気持ちを抱くお父さん方」の視点なのです。

「お彼岸」はなぜ「彼岸」なのでしょうか? 「の岸」というのは「あの岸」すなわち「向こう岸」ということです。煩悩や迷いからの解脱を川を渡ることにたとえて、悟りを開くことを祈念した行事が彼岸会ひがんえです。この場合「こちら側」は「の岸」すなわち「此岸しがん」と呼ばれます。

これらの例を見ると、「あ」という指示語には、「遠く手の届かぬものに対するあこがれ」の気持ちを感じることができます。

カアル・ブッセの「山のあなた」は有名です。「山のあなたの空遠く 『さいはひ』住むと人のいふ。」 これなどは、やはり「あなた(彼方)」という言葉に詩の生命があるでしょう。

男性・女性問わず、性器のことを「あそこ」と言うことがあります。「自分」のものなのに「あ」を使うのです。これは「あ」という指示語のもつ情感をよく表しているような気がします。ちなみに「あそこ」というのは、整然としたコソアド体系の中で、唯一ぶっ壊れてる言葉なのですが、北陸地方を中心に、方言では「あこ」という言い方もするようです。

では、「そ」はどうでしょうか? 例えば、「この世」「あの世」と言えるのに、なぜ「その世」という言い方ができないのでしょうか?

「そ」という指示語は、「聞き手に近い」ものを指す言葉です。すなわち、「その世」という言葉は、聞き手であるあなたの生きていらっしゃる、私とは違う「その世」という意味になります。しかし、話し手と聞き手が別の「世」に生きているというのはありえません。会話が成立している時点で、話し手と聞き手が同じ「世」にいることは間違いないわけです。ですから、「世」は、二人にとって同じ「この世」か、二人にとって別々の「あの世」でないといけないわけです。

もちろん、「その世」という文字列自体は使われることがあります。例えば、源氏物語に「ながらふるほどはけれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地して」という歌が出てきます。生き長らえるのは辛いけれど、月日はめぐり、今日はその(亡き桐壷院の)御世に逢うような気持ちだ、という歌です。

この「その世」は「その御世(時代)」の意味です。意味はあくまで「時間」に限定されており、「この世」や「あの世」のような、すべての時間・空間にわたる「世界」「宇宙」の意味ではありません。

ちなみに前漢の書『淮南子』の「天文訓」によれば、「宇宙」の「宇」は「四方上下」すなわち空間全体を、「宙」は「往古来今」すなわち時間全体を指すのだそうです。また、『広辞苑』には「世」は「過去・現在・未来の三世」、「界」は「東西南北上下」を指すとあります。古代アジアにおいては、アインシュタインに数千年も先んじて、この世界・宇宙を、時間と空間が織りなすものとして認識していたのです。

言ってみれば、「その世」がないのは、人類はみな同じ世界にすんでいる、という我々の感覚を表していると言えます。

もう一例考えます。「この野郎」「あの野郎」という言い方はできますが、「その野郎」「どの野郎」という言い方は普通しません。なぜでしょうか?

「野郎」という言葉は、「男性をののしりさげすんでいう語」(大辞泉)です。ここには、相手に対して心理的な接近があります。ぶっちゃけた言い方をすれば、会ってぶん殴ってやりたい、ということです。

「その野郎」が使える場面というのを考えてみると、一つは「野郎」というのを単に「男性」の意味で使う場合ですが、もう一つは、人づてに話を聞いた場合というのも考えられます。「お前の娘が男と歩いていたぜ」「なにい! その野郎はどんなやつだ?」。すなわち、自分で直接見聞きした「野郎」ではない場合に「その野郎」は成立します。

このような例を考えると、「そ」という指示語はなかなか奥が深いことが分かります。

まず「あ」と比較すると「そ」は近い位置にあります。少なくとも「あ」のような「手の届かない」というニュアンスはありません。しかし、「そ」という指示語を使うときは、自分と対象とのあいだに、はっきりとした「へだて」「くぎり」を感じるときに使うようです。

例えば、「もう、その話はやめてくれ」とか「そんな人だとは思わなかった」という言い方には、「それ」と距離を置く気持ちが感じられると思います。

しかし、「そ」のもつ距離感は、何も疎遠な気持ち、忌避する思いばかりとは言えません。例えば、次のような例を見ると、それが分かります。

思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ   俵万智

この「そのまま」を「このまま」「あのまま」に変えてみると、距離感覚の違いがよく分かると思います。「そのまま」という言い方にこめられているのは、「麦わら帽子」が物理的には今の自分の手に届くところにあるけれど、でもそれに触れる気持ちはないんだ、ということでしょう。過ぎさった夏をいとおしむ思いをうまく伝えています。

もう一つ、石川啄木の歌から例をとります。

ふるさとのなまりなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

この「そ」という言い方には、「ふるさとの訛」を恋しく思いつつ、しかし、ほいほいと帰郷することもかなわなかった啄木が、上野駅に出かけて、地方から上京してくる人の話す言葉に耳を傾ける切なさが、よく出ています。ここには、手の届くところにありそうに見えながら、しかし、自分とは遠いものとなっていく「ふるさと」に対する思いがにじんでいます。

「そ」は、対象が手の届くところ、自分から見えているところにありながら、しかし、対象に気持ちの上で「へだて」を感ずるときに使うのです。

それでは、「ドラえもんのうた」に戻りたいと思います。

正しくは「こんなこといいな」だったわけです。「こ」は話し手である自分に近いものを指すのでした。すなわち、ドラえもんの道具というのは、自分から遠くにある大きな理想や夢、つまり「あんなこと」を解決するためのものではないのです。それは、「ドラえも〜ん、ジャイアンがまたいじめるよ〜」「はい、包丁」と言ったレベルの、のび太の身近なイベントを解決するためのものだったのでした。いや、包丁は違いますが。

「そんなこといいな」と言えないのも、もはや明らかです。「そ」には対象から心理的な距離をおいて、それを見つめる働きがあるのでした。「そんなこといいな」と言った瞬間に、自分とはへだてられた願いになってしまうのです。「そんなこと、ぼくには無理だよ」

しかし、私たちはやはり、ドラえもんには「あんなこと」を解決してほしいと望んでいるようです。国民的アニメの主題歌の、しかも最初の一文字における、おびただしい間違いには、日本人がいかにドラえもんを愛しているかが現れているような気がします。